第2話

 部屋は寒かった。

 コンクリートに打ちっぱなしの壁に吊るされた裸電球が、わずかな明かりを滴らせている。照らされたのはステンレス製の手術台。そこには中井の身体が、あられもない姿で拘束されていた。


 彼の手首と足首には黒い皮バンドが食い込み、目が覚めてから必死に身体を動かした影響と体重で、擦れた部分からはじんわりと血が滲んでいた。

 喉を詰まらせるような消毒液の匂いと、鉄錆のような血の臭いが鼻を突き、乾いた吐き気を催す空気が襲いかかる空間の中に、その男はあまりにも静かに存在していた。


 その男は、何も言わなかった。ただ無言で手元の器具をショーケースの様にひとつひとつ並べ、芸術作品を見るような目で眺める。薄いラテックスの手袋をはめると、ステンレスのメスをゆっくりと持ち上げた。白衣の袖から覗く皮膚は白く、年齢などは判別できない。顔は手術用のフードとゴーグルに覆われていた。


 中井は猿ぐつわを咥えながら、必死に身を捩る。しかし、その硬い拘束から逃げられるはずもなかった。目だけが縋るようにその無言の男を見上げていた。

 そこにいるのは、感情でも威圧でもない、無機質な手術者だった。男はただ、中井を見つめているだけだった。


 刃先が白く光る。

メスがゆっくりと胸部に近づいていく。中井はただその刃先が自分の胸に触れるのを見ているしか無かった。刃先が触れ、鋭い痛みが身体を襲い中井は身体をビクンと跳ね上がらせる。メスが皮膚を裂くとき、皮膚が焼けるような乾いた音がした。

 表皮が裂かれ、脂肪組織が露出する。鋭利な刃が、何の迷いもなく胸郭の輪郭をなぞる。

 血が滲み出す。中井の全身が痙攣するように反応する。痛みが脳を支配し、意識が大きく揺れる。猿ぐつわの奥から、嗚咽のような呻き声が漏れる。


 次に持ち上げられたのは、電動骨鋸だった。電源が入れられた瞬間、部屋にブゥンという鈍い音が響き渡る。

 激しく回転する刃が甲高い音を立て、ゆっくりとメスで開かれた切断面に入れられていく。刃が振動しながら肋骨に当たり、細かい骨の粉が飛ぶ。

 中井の目が大きく見開かれる。もはや痛みすら感じなくなった中井は思考することができなくなっていた。骨が割れる音と共に、胸骨が左右に引き裂かれていく。


 内臓の熱が空気に触れ、湿った湯気が立ちのぼる。

 胸腔内の心臓が現れた。まだかろうじて拍動していたその赤い塊は露わになった途端、存在を主張するかのように脈打った。


 男は無言のまま、心臓に手を伸ばす。

 血管を鉗子で挟み、結紮けっさつしてから丁寧に切断する。その手つきは、まるで宝石職人が貴石を扱うかのような、時計職人が小さな部品をはめていくような慎重さだった。


 やがて心臓は取り出され、人という容れ物から取り出された心臓は生命の鼓動を僅かに残しながら、芸術作品の様にゆっくりと瓶の中に収められていった。

 男はその瓶を一瞥し、黙ったまま部屋を後にする。

 残されたのは、胸を裂かれた遺体と、鉄の匂いに満ちた静寂だけだった。


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「連絡、ないな……」


 深町優斗は、スマートフォンの画面を五度目にスリープから戻すと、届いていない通知の一覧を確認しそれを机の上に無造作に投げ出した。


 それでも、胸の内のざわめきは治まらなかった。それは静電気のように肌にまとわりつき、かすかな音で耳を蝕み続ける。

 不安というには鈍すぎて、恐怖というには輪郭が曖昧だ。だが確実に精神を削っていた。


 闇バイト。その言葉の意味を今になって痛いほど理解していた。

 初めは簡単な運搬だった。次は見張り。これなら大丈夫、そう思い始めていた時だった。

 あの夜、手渡された工具入りのバッグと、「入ったら五分で済ませて出てこい」という指示の文面を見て、今自分がやっていることが犯罪であることを、ようやく理解した。

 中井と滝口と八木、三人で強盗に入った住宅。

 本気でやるつもりはなかった。誰も怪我させない、ただの示威行為。そう、自分に言い聞かせていた。そのはずだった。

しかし、現実は強盗に入り、住人に重傷を負わせた。後戻り出来ないほど重い犯罪に加わり、時間が経ってからその重さを知った。


 そしてその夜、あれと出くわした。


 薄暗い駐車場、車のトランクが開き、死体のように動かない誰かが押し込まれていた。

 そして、車から降りてきた黒衣の男が何も言わず、こちらにカメラを向けシャッターを切った。


「なんだったんだ、あれ……」


 その日からだ。仲間が一人、また一人と、音もなく消えていったのは。

 中井は、数日前から音信不通だった。他の滝口、八木も同じように連絡がつかなかった。思えば強盗の後に繋がりを断つということで、お互いの連絡先やアカウントを削除していた。しかし優斗はまだ連絡先は消していなかった。

 グループチャットも既読はつかず、連絡しても電源が入っていないという機械的な返答が返ってくるばかりだった。


 優斗は本能的に理解していた。

 何かが、誰かが、自分たちを狙っている。

 あの黒衣の男は、普通じゃない。決定的な瞬間を見た訳では無いが優斗の本能がそう告げている。


「逃げ場なんて、どこにもないんじゃないか……?」


 深町はゆっくりと目を閉じた。

 あの夜以来、何度も何度も警察に行くという選択肢が頭をよぎった。

 だがそのたびに、自分が犯した罪が、その道を封じる。


 強盗。共犯関係。証拠はある。カメラに映った自分。脅迫と知っていても、逃げられなかったという言い訳が通じる保証などない。

 闇バイトの斡旋者はもう連絡を絶っている。証明も難しい。

 下手をすれば、懲役だってあり得る。いや、強盗傷害になればちょっとした懲役すらかわいく思えるくらい、重い罰が待っている。


「でも、このままだと……」


 口に出した瞬間、自分の喉の奥が強張るのを感じた。

 殺される。


 そう、間違いない。

 あの眼だ。あの夜、カメラ越しに見た黒いゴーグルの奥の死を見つめる目。確かに、自分の命が評価された。狙われている。それを肌が覚えている。


 殺されるぐらいなら、自分の罪を話したほうがましだ。

 そう思いかけて、再び恐れが胸を掴んだ。

 警察に話せば何かが変わってしまう気がした。

 自分の人生も、周囲の目も、取り返しのつかない場所へと向かってしまうような……そんな不可逆の感覚。


「どうすれば……」


 深町は椅子の背にもたれかかり、天井を見つめた。薄い蛍光灯の光が、煤けた天井を照らしている。

 木造アパートの、誰もいない部屋。

 逃げ込むように借りたこの一室は、彼の孤独を静かに反響させていた。優斗自身もわかっている。どんなに言い訳を並べようが、闇バイトの美味しい報酬に目が眩み、疑いもせずに手を出した自業自得だと。


 そのとき、スマホが小さく震えた。

 画面を見ると、「根岸」の名前が表示されていた。


 バイト先の先輩だ。周りからも慕われ、優斗にも分け隔てなく接してくれる。かと言ってあまり踏み込まず、適度な距離感を持ってくれている。

 何度か雑談を交わすうちに、どこか居心地のよさを感じていた。

 もしかしたら、今、頼れるのは根岸だけなのかもしれない。

 そう思いながらも、通話ボタンには触れなかった。


 自分が背負ったものの重さに、誰かを巻き込むわけにはいかない。


 深町は、膝の上に顔を伏せた。

 まるで、幼い子どもが泣き顔を見せないように。


 胸の奥で、心臓が静かに打っている。

 不吉な未来を、脳裏のどこかで確信していた。


 だが、まだ終わりではない。

 終わらせるかどうかを決めるのは、自分自身だ。犯した罪を償い、生きて人生をかけて悔いていく。それだけが、この底辺に落ちた自分に許された罪の終わらせ方だ。


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 中央署第二会議室は、午前九時の時点ですでに重苦しい空気に満ちていた。

 換気のために少しだけ開けられた窓から、春の気配を帯びた風が入ってくるが、それもこの部屋の張り詰めた空気を追い出すには無力だった。


「本日午前四時、所轄管内にて発見された死体の件について報告します。現場は千代田区三丁目、空き店舗裏のゴミ収集場。通報者は近隣住民で、犬の散歩中に発見したとのことです」


 捜査一課管理官の片岡が、手元の資料を見ながら淡々と口を開いた。


「死体は二十代後半から三十代前半と思われる男性。目立った外傷はないが、胸部に鋭利な刃物による切開痕。内部からは心臓が摘出されています」


 小さなどよめきが、部屋の片隅で漏れた。だが、すぐに静寂が戻る。そこにいる全員が、この異常な事件がただの殺人ではないことを察していた。


「これで三件目です」


 席の後方にいた藤崎が、ぽつりと呟いた。管理官が目線を上げた。他の捜査員達も同じように目線を藤崎に向けた。


「そうだな。千駄木の解体予定アパート、江東区の廃工場、そして今回の千代田区。いずれも共通点は『心臓の摘出』。そして、犯行が異様に冷静かつ精密であること」


「失礼します」


 そう言って立ち上がったのは、市原悠であり藤崎のバディである若手刑事だった。

 背筋を正し、鋭い眼差しを保ったまま前に出る。


「三件の被害者の身元はすでに判明しています。いずれも前科はなし。ただ、周辺聞き込みの結果、共通する点が一つ見つかりました」


「共通点?」


「はい。全員が、ここ数ヶ月、正規の職に就いておらず、収入源が不明瞭です。また、周囲の証言によれば、夜中にふらっと出ていくことが多かった、電話で何かの指示を受けていた、といった証言が複数上がっています」


 片岡が腕を組んだまま目を細めた。正規の仕事ではないとなると、アルバイトや派遣社員などの可能性が基本だが、資料を見る限りその様な職歴は直近では確認できなかった。


「裏仕事か、あるいは……」


「闇バイトの可能性があります」


 市原の言葉に、一瞬の沈黙が走る。

 闇バイト。SNSや掲示板などを介して不法な労働や犯罪まがいの仕事を斡旋する地下のネットワーク。実態の特定が極めて困難で、捜査も長期化しやすい。SNSが発達し、大きな情報ネットワークとなったこの時代で現れた新たな犯罪の形態だ。


 藤崎が資料をめくりながら口を開いた。


「千駄木の被害者は、死亡前日にコンビニの防犯カメラに映っていた。時間は深夜一時過ぎ。黒いパーカー姿の男と一緒にいたが、そいつはフードを深くかぶっていて顔が判別できない」


「他の被害者も、最後に目撃された時刻はすべて深夜帯。いずれも、何かしら指示を受けて動いていたと考えるのが自然です」


「つまり――」


 片岡がゆっくり言った。


「殺された三人は、何らかの共通の組織に属していた可能性があるということか?」


「はい。そして、それがいわゆる闇バイト組織、もしくは闇バイトを活用した犯罪組織であると仮定した場合……我々が追っている犯人、仮に世間で言う野狗子やくしが実在するとして。その人物は、闇バイトに関与した人間を狙っている可能性があります」


 会議室に、静かな緊張が走る。

 藤崎は、手元のタブレットを操作しながら、次の画像を投影した。そこには、以前から話題になっていたSNS上の都市伝説のような投稿が並んでいた。


《また心臓だけ持ってかれたらしい》《野狗子、範囲は東京か?》《罪人しか狙わないらしいよ》


「一部のSNSで噂されていた野狗子という存在は、どうやら裏社会の間ではある程度、信憑性を持って語られているようです。もっとも、ネットのノイズをどこまで拾うかは判断が分かれますが……」


「ただの演出や模倣犯じゃないのか?」


 誰かがぼそりと呟く。SNSで話題になっている野狗子に肖って注目されようとしている承認欲求の塊か。そしてその模倣犯の可能性も多いにあった。しかし藤崎は首を振った。


「心臓の摘出は、素人にできる作業ではありません。解剖的知識、それもかなり高度なレベルで正確な位置を理解していないと、心臓を摘出しながら周囲の臓器を損傷せずに切り出すのは不可能です」


「医療関係者の可能性も視野に入れるべきだな……」


「それともう一つ。三人の中の一人、中井誠一のスマートフォンから、消去されたメッセージの復元に成功しました」


 市原が新たな資料を前に差し出す。


「そこに、深町という名前が何度か出てきます」


 藤崎が眉をひそめた。


「深町?」


「深町優斗。都内在住、二十歳の大学生。バイトを複数掛け持ちしながら生活しているようですが、彼のSNS活動と被害者との接点、さらに深夜の位置情報などから、事件当日の中井と行動を共にしていた可能性が出ています」


 片岡が資料を受け取りながら口を開いた。


「中井が闇バイトに頻繁に参加していたと考えると、そいつと共に行動していたということは深町優斗も同じ闇バイト組織の仲間である可能性が高いか」


市原はその言葉に深く頷く。


「そして深町優斗はまだ行方不明届などは出されていません。直近の勤務も確認されています」


「つまり、まだ生きている可能性のある関係者……か」


「はい。もしかすると、彼は犯人のターゲットになっているか、あるいは……」


「既に何かを見てしまった存在かもしれない」


 藤崎がそう言った。市原や片岡もその言葉を重く受け止める。何かとは、それは殺人鬼のことか、それとも心臓を奪う怪物『野狗子』か。


 一瞬の静寂が会議室を支配した。その静寂を片岡が強い語気で破る。


「市原、すぐにこの深町優斗という人物の聞き込みを始めろ。藤崎、君も同行してくれ。過去の事件との関連も含めて、慎重に当たってほしい」


 二人は黙って頷いた。


 捜査会議が重い空気のまま終わっていく。それぞれの捜査員が、野狗子という狂気の殺人鬼を捕らえるべく強く歩み始めた。捜査は静かに、そして新たな段階へと進み始めていた。


 ━━━━━━━━━━━━━━━


 午前十時 東京都内・被害者宅周辺


 灰色の雲が低く垂れこめた朝、藤崎はスーツの襟元を正しながら、市原悠と並んで足早にアパートの階段を上がった。中井のバイト仲間だった夜間清掃の契約社員だった男が住んでいるという情報が、早朝の聞き込みで得られたのだ。


「……本当に、彼が何か知っていると思いますか?」


 階段を上がりきった踊り場で、市原が小声で尋ねた。その声色にはまだ掴めぬ野狗子という怪物を、本当に捕えられるのかという不安が入り交じっていた。


「警察の取調べには、特に変わった様子はなかったと答えている。でも……こういう連中は、ちょっと揺さぶれば本音をこぼすものだ」


 藤崎はチャイムを押す。一度目は反応がなかった為、すぐに二度目を押す。二度目でやっとドアが開いた。開けた男は目の下に隈を浮かべ、髪もボサついていた。


「……あんたら、また警察かよ」


「今朝もお世話になりました。少し、追加でお伺いしたいことがありまして」


 ここで断るよりも素直に答えて、すぐに帰ってもらった方が良いと判断したのか、男はしぶしぶ通してくれた。中井について聞き直すと男は最初はとぼけた表情を見せたが、市原が一言添えた。


「中井さん、最近金になるバイトがあるって言ってませんでしたか?」


 男の表情が一瞬固まった。


「……なんでそれ、知ってんだよ」


 藤崎と市原は視線を交わし、さらに質問を深めていった。


 ━━━━━━━━━━━━━━━


 午前十一時過ぎ 港区・人材派遣会社の事務所ビル前


 情報を辿っていくと、どうやら中井が紹介を受けた高収入バイトの窓口になっていたのは、住所だけで存在するペーパーカンパニーまがいの人材派遣会社だった。全てのペーパーカンパニーが犯罪に利用されている訳ではなく、資産管理だったり将来の事業のための準備として設立されることもある。ただ、このペーパーカンパニーの特性上、摘発を逃れるために利用するには好都合すぎる。その証拠にペーパーカンパニーを利用した脱税などの犯罪は増えているのだ。今回の闇バイトもペーパーカンパニーが関与していると考えるのは自然だった。


 住所が示していたのは、看板も表札もない雑居ビルの一室だった。だが、出入りする人物はそれなりにいた。何人かに声をかけると、あっさりと会社の存在を認める者もいた。中には「日雇いの配送手伝いで呼ばれた」と語る若者もいた。敢えて隠し過ぎず怪しまれるのを回避しているのかもしれない。


 藤崎と市原は、受付をしていた若い女に声をかける。女性はにこやかな笑みで対応してくる。


「突然すみません、私たちこういう者でして」


 市原が警察手帳を見せると、女はわずかに顔を引きつらせた。しかし笑みは保ったまま、業務を続けてくる。その仕事ぶりには感心した。


「何のご用ですか?」


「中井遼平という人物が、御社を通じてバイトをしていたと聞きまして。記録を見せていただけませんか?」


 女は「確認します」と一旦奥へ引っ込み、やがて「記録はありません」とだけ答えた。挙動がおかしい、という訳では無いが受付の女性一人で解決できるような内容では無いはずだ。明らかに様子が怪しい。


「じゃあ、誰が仕事を回しているか、その担当者に話を聞かせてください」


「なんのことでしょう?私どもの会社は正規の人材派遣会社です。やましい事なんて……」


いつまでも口を滑らせない受付の女性にしびれを切らした藤崎が、詰め寄る。


「申し訳ないが調べはついています。ここ最近発生している強盗事件や摘発された詐欺の元を辿ると、皆この会社に応募した経歴がありました。犯罪に加担させた時点で雇用は解消させてるのでしょう。既に捜査二課が動いています。隠してもあなたのためになりませんよ?」


藤崎の言葉に「警察が動いてる……」と受付の女性は独り言を呟く。もう一度奥に入り、何やら話をした後受付に戻ってくる。


「お偉いさんには理解していただけましたか?」


 市原が一歩踏み込むと、女は観念したように口を開いた。先程までの可愛らしい笑みは消え、やさぐれた表情をする。


「……玲奈さんって人がやってます。私たちはただ連絡受けて来た人を手配するだけで詳しくは知りません。私も何も知らない受付ですよ」


玲奈。その名に、藤崎の眉が微かに動く。以前、別件で捜査対象として挙がった人物だ。闇バイトの媒介役、という噂があったが証拠は取れていなかった。

 調べてみる価値はある。そう藤崎の直感が告げていた。


「玲奈さん、ですね。他に知ってることは?」


「ありませんよ。給料がやたらと高いから雇われただけです。犯罪をしてるなんて知りませんでした。私はある意味被害者ですよ」


女性は開き直った様子で、わざとらしく泣くふりをする。市原は呆れた様子で「同じ女として気持ち悪い」と吐き捨てる。女性の奥の部屋を見ると、数人のスーツ姿の男と女がこちらを見ていた。確かに彼らが犯罪組織の中心を担うとは到底思えない。つまりこのペーパーカンパニーも捨て駒だろう。


「分かりました。貴重な情報ありがとうございました」


藤崎は礼を言うと受付に背を向ける。


「あなたの美しい経歴に傷が付かないことを、心からお祈りしてますよ」


藤崎の言葉に、女性はなにか言いたそうな顔をしたが、その前に市原が「では失礼します」とにこやかな笑みで返した。


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 午後二時 車内移動中


 都内を移動しながら、市原がハンドルを握り、藤崎は助手席でノートPCを開いていた。


「……玲奈って何者なんでしょうね。堂々と事務所に顔を出すようなタイプじゃなさそうですけど」


市原の言葉に、藤崎は唸る。


「前に別件の詐欺事件で同じ名前が出たことがある。まぁ俺の管轄じゃなかったが、この様子だとその時は捕まらなかったみたいだな」


「用意周到な女なんですね」と口を尖らせる市原に、狡猾な女は嫌いか?と問いかける。


「というよりも、ずる賢い女が嫌いなだけです。可愛くするとか本人の努力じゃなくて、人をけ落としてまで生きようとするのが嫌なんです」


お前は真面目だもんな、と返す藤崎に市原は「真面目だから魅力的じゃないと?セクハラですか?」と言われ、このご時世女性に対しては言動を気をつけないとセクハラになるな、と肝に銘じた藤崎だった。意識を現実に戻すと、SNSを見る。見出しには『ターゲットは悪人?』と書いてあるネットニュースを見つける。


「そもそも野狗子、この事件の犯人が狙っているのは、どうやら法に裁かれなかった悪人だ」


「つまり、闇バイトで犯罪に手を染めた中井も、見せしめのように狙われたと……?」


「その線が濃い。ただ、野狗子ってのは警察内の正式な呼称じゃない。あくまでSNSでの通称だ」


そもそも犯罪者は捕まってない人も沢山いる。その内の一人が中井だったのか。それとも共通点があって狙われたのか。

 藤崎は資料を見ながら、メモをつけた。


『山谷における殺人および死体遺棄事件。解剖所見では、死亡原因は心臓の摘出による失血死。

 犯人像:外科的な手際、知識あり。犯行動機は未確定』


「玲奈に接触できれば、何か大きく進むかもしれません」


「接触するには……こっちがバイト希望者として近づくしかないでしょうね」


 藤崎は窓の外に視線を投げた。重い雲が、都市の上を覆っていた。今もこの雲の下では誰かが闇バイトで金を稼ぎ、その上の犯罪組織が人を利用している。


「野狗子……確か中国の方の怪物だったよな」


 ふと呟いた藤崎の問いに、市原がPCで調べてみる。検索結果にはゲームの名前だったり、創作作品のタグがヒットする。ページを下にスクロールしていき、情報サイトに行き着く。


「中国清代前期の短編小説である聊斎志異りょうさいしいに登場する、死人の脳を喰らう怪物…ですか」


「今回は脳ではなく心臓だけどな。ネット民のネーミングセンスにはときどき驚かされるよ」


 死体が残された戦場などに現れ死人の脳を喰らう。小説の中で、主人公は処刑を恐れ無数の死体に紛れて死んだフリをした。そこに獣の頭と人の身体をした怪物が現れ、死体の頭をかじり、脳みそを吸い取ったという。

この野狗子という名前はSNSで勝手に呼ばれているだけだが、もし犯人が野狗子を意識しているのなら犯人にとって戦場とは何か特別な関係があるのかもしれない。


 もしそうなら。

 犯人はどんな戦場で、何を見たのだろうか。

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