第1章 萌し3
翌日の夕方、三好はサークルを抜け出して二号館の地下倉庫へ向かった。倉庫前は相変わらず陰鬱な雰囲気で人の気配を感じない。昨日同様、重い扉を押し開こうとする。が、
「あれ?」
鍵が掛かっていた。しばらくガチャガチャと動かしてみるが扉が開く気配はない。冷えたノブの温度が昨日の出来事を幻であったかのように思わせる。
まばたいてみれば、視界に赤い糸が見える。それは扉の先に続いていたので中に尊がいると分かる。もしや、またストーブを付けているのでは。そういえば昨日、一酸化炭素中毒のことを伝えたときも彼はぼんやりとしていたように思われる。
「おい! 古堂!」
扉を拳で叩いた。
「いるのは分かってる! 開けろ!」
静かな校舎に乱暴な音が響く。叩き続けた後、やっとガチャリと内側から鍵が開けられた。開いた扉の隙間から迷惑そうに尊が覗く。
「何?」
不審者でも見るかのような尊の態度が面白く、三好は扉を大きく開けてやろうと力を込めた。
「……っんで! 来るんだ!」
攻防の末、力で負けた尊は観念してドアノブから手を放す。
「またストーブ付けてるんじゃないだろうな」
「付けてない」
三好を阻むことを諦め、彼は器用に障害物を避けながら倉庫の中へと姿を消す。三好も中へと踏み入った。背後で重い扉が大きな音を立てて閉まった。
「へえ、意外と広いんだな」
倉庫の中を見回して言う。昨日はそれどころではなかったが、隠れ家のようなこの場所と二号館の幽霊への興味が尽きなかった。だからわざわざ三好は今日、足を運んできたのである。暇ゆえ細かなことが気になるのだ。
倉庫はL字型をしていて、入口から入って正面に昨日尊が寝ていたソファとストーブ、それから本棚が置かれている。オレンジ色の小さな電球は点々と灯され、物のシルエットをぼんやりと浮かび上がらせていた。部屋の隅は手付かずの暗闇の中へと沈んでいる。L字の曲がり角の先は意外にも広く、そこには、この場に不釣合な巨大なオブジェが、しんと静かに在った。
「ピアノ?」
黒い影に近づけば、電球の明かりを反射した表面が光る。触れれば冷気を吸ったように冷たかった。それはまぎれもなく漆黒のグランドピアノで、どうしてこんなところに、という疑問の前に、その優美な姿に三好はしばし見惚れていた。美しいと思った。
「何しに来たの」
背中越しに投げかけられる不機嫌な声にハッとなる。
迷惑を隠さない尊に三好はやっと少し怯んだ。しかし、ここで謝る理由もないだろう。
「死んでるんじゃないかと」
「お気遣いどうも。ご心配なく」
にべもない。
尊が昨日話した通り、倉庫の中は寒かった。しかし今日はストーブをつけた様子はなく、吐き出した息が白かった。
倉庫の中には生活の跡があった。二人掛けのソファは長く使われているようで座面はへこんだままになっていた。背もたれに分厚い毛布が無造作にかけてある。背の高い本棚には雑誌やあらゆる教科書が挿さっているし、小さな冷蔵庫まであった。その気になれば暮らせそうだった。
「幽霊の正体、見破ったりだな」
三好はこっそり呟く。二号館の幽霊の正体は尊に違いあるまい。
「これ、全部古堂が運び込んだのか」
部室棟であればこういった状況も珍しくない。しかし、持ち込むにしてもピアノは大き過ぎるだろう。放置されているのかとも思ったが、埃が積もった床と異なりピアノは綺麗に磨かれていた。
「……ほとんどは元からあった。俺が持ち込んだのは毛布だけ」
「住んでるのか?」
「住んではない」
尊は苛立った様子でピアノの天板を爪で叩く。出てけ、と言いたいのがよく分かる。
しかし三好は、本棚の蔵書を端から物色した。
「あ! おい、これ絶版本だよ。なんでこんなところに……」
本を手に嬉々として騒ぐ三好を尻目に尊は溜め息をついていた。口を閉ざしてピアノの前の椅子に座り彫像みたいに動かなくなった。彼は三好に興味が無いどころか、見えてもいないのかもしれなかった。三好は適当な一冊を選び、ソファに腰かけ読み始める。
それから何分か経った後、ふと空気が冴えたような気がして三好は顔を上げた。尊は変わらずピアノの前に座ったまま目を伏せている。眠っているのかと思った。思ったが、彼は両手をスイと鍵盤の上にかざした。ピアノから音の粒がほろりとこぼれる。
それが何の曲なのか、三好は知らなかった。ただ、ほろほろとした静やかな音が手をつないで音楽を生んでいた。雪が落ちる音や、白く凍った呼気が空気に溶ける音なんかを曲にしたら、こんな風になるかもしれない。地下倉庫の高い天井に、音はあぶくみたいに昇って行って、無事に着いたらゆっくりと、足元まで降りてくる。そんな心地の良さだった。
曲が終わってその余韻も消えた後、三好はやっと尊がピアノを弾いていたのだと理解した。どれだけの時間が流れたのか分からない。すっかり聞きほれていたのである。深く息を吐き出した。顔を上げた尊と視線がぶつかった。彼が顔をしかめたことで静謐な空気は消え去った。
「まだいたの?」
また一段と不機嫌な声で言われた。
「いや……感動した」
素直に感想を言えば、尊は毒気を抜かれた顔をする。帰れとか出てけとか言おうとしていたのだろうが、彼は開いた口を一度閉じ、
「……そう」
とだけ答えた。
彼はこれより後、三好に迷惑な顔を向けはすれども出て行くよう言うことはなかった。
この日から、三好と尊の奇妙な関係が始まった。尊の年齢も学部も三好は知らず、また尊も三好に対し何も尋ねはしなかった。
尊はほとんどいつも地下倉庫にいて、三好が扉を叩けば彼は面倒くさそうに鍵を開けてくれた。幽霊を訪ねて地下倉庫まで来る人は時々いたが、内側から鍵がかかった倉庫に実際に人が入ってくることは一度もなかった。分厚い金属でできた扉は尊が鳴らすピアノの音をわずかに漏らすだけで、知らなければ足を止める人などいない。
二人は親しくはない。しかし、倉庫の空気にそれぞれじわりと馴染んでいた。互いに互いを邪魔だと思うことはなかった。
尊と違い、三好はそこそこに友人が多い。フォークソングを演奏するサークルに入っていて、その中でも口数は多い方だった。サークルに顔を出せば一人でいることはなく、誰かしらが寄ってきて、三好がいる場が話の輪の中心になった。しかし、当の三好は話の主軸を早々と別の者に挿げ替える。そして、その場からさりげなく姿を消す。三好が場を離れる時、それに気が付くものは誰もいない。つかみどころがないと友人に評され、肯定も否定もせず笑って済ませる。それでも友人が多い。好かれている。三好は、人間関係におけるバランス感覚が優れていた。
縁が見える三好にとって、人と人との関係は透けて見えた。特に、恋愛感情やその逆の悪感情はよく分かった。例えば、濃い時間を年単位で過ごすサークルメンバーが会する場に三好が行く。すると彼は、複雑に絡み合う感情の糸に感嘆するのである。
あそこあんなに仲良かったっけ……隠してるけど……
嫉妬してる? あ、もうフラれたんだ……早かったなぁ
付き合ってる相手に金借りてる……それでも好きなん?
嫌いな人間多い……家族の縁が悪い。そのせいか?
こんな具合だ。興味は尽きない。
三好が自らそれらの縁に触れることはない。しかし、その糸の行方を追って、当人のふるまい次第で絡まりが解けそうならば、気まぐれに手伝ってやったりはする。糸には触れず、告白の後押しをしたり誤解を解いたり、そんなことを続けた結果、三好の人望は厚くなった。
三好は人の中にいることが好きだった。人に連なる縁の色は美しく、縦横無尽に走る虹のように見える。その反面、三好を深く知る人はいないのである。彼のことを皆が「良い人」だと言うが、次に続く一言は中々すんなり出てこない。彼は多くの人にとって、有益で無害だった。
「ギター、弾かないのか」
倉庫で本を読んでいると、尊がふと音で遊ぶことをやめて尋ねてきた。いつの間にかピアノの前の椅子が尊、ソファが三好の定位置となっている。
二人は多くの時間をこの地下倉庫で過ごしていたが、冬が去り春になっても各々別の事に集中していた。必要最低限の会話しかしなかったので、突然口火を切った尊の問いに三好は少し驚いた。
「なんで知ってんの」
「今日、昼に三好が背負っているのを見た」
「ああ、フォークギター。普段は部室に置いてるんだ。先輩のお古だけど」
ギターは未だ三好の手に馴染まない。サークル仲間と一緒にいる口実でしかなかった。
「三好が楽器を弾くのは意外だった」
尊が鍵盤を眺めて言う。図星を突かれて三好は少し決まりが悪い。
「持ってるだけ。弾けねえんだ」
正直に答えれば尊は腑に落ちた顔になる。
「やっぱり。どちらかと言うと、運動しているほうが似合う気がする」
「……高校までは水泳やってた」
「へえ、やめたの?」
三好は言葉に詰まる。彼の実家はここよりも田舎にあった。高校には広い屋内プールがあって、部員も多く水泳部は強かった。しかし三年の夏、彼は膝を壊したのだった。三好にとって苦い思い出だったが、それ以上に尊が自分に興味を持っていることが新鮮だった。
「怪我したから」
簡潔に答える。無意識に、かつて傷んだ膝に手が伸びる。完治していたが、以前のように動かすには不安が残る足だった。時々痛む気もする。痛んでいるのが膝なのか心の方なのか三好には判断がつかない。高校までに紡いでいた縁の糸は、引っ越しと同時にどれも薄らぎ今は視界に映らない。消えた分を補う糸も未だ結べていなかった。
「ふぅん。それはお気の毒」
「聞いといて淡白な感想だな」
「……未練は?」
「ある。でも、競技に出なくなっただけだ。今でも水の中は心地良い」
久しく水に潜ってないなと思う。水中では人の声は遠く、縁の糸も気にならなかった。水に漂う糸は水面に浮かぶ。深く潜れば存在を忘れる。三好は水中の寂しくなるような静けさも好きだった。
そういえばこの地下倉庫も水中に少し似ている。そんなことをふと思った。倉庫の中には三好と尊を繋ぐ糸しかなくて同様に静かであった。だからここに入り浸っているのだろうか。三好は自身の行動の理由に思い至り気恥ずかしくなる。未だに自分は、水の中に戻りたい。
「急に喋るね」
だから誤魔化すように話を変えた。尊は、これまでだんまりだったのが嘘のようだった。椅子に座ったまま物思いに沈み、目を閉じて船を漕ぎ、目覚めればピアノを弾く痩せた美人は、これまでそれしか知らないからくり人形のようだった。言葉を交わしたのも初めて倉庫に来た日以来だ。
「……少し、暖かくなってきたから」
尊は分かるような分からないような返答をする。確かに五月になってやっと地下倉庫の空気もぬるまってきた。外はもう夏日を記録することも増えている。
尊はまたピアノの鍵盤に触れる。音の波が空気を鳴らす。軽やかな明るい曲が冬の名残を押しやるようだ。弾きながら柔らかく笑っている尊を見て、三好も冬場同様本を読んでいることが急にもったいないような気分になる。水底から顔を出してみようかという気持ちになる。
「ギター、教えようか」
尊は音を奏でながら三好を見て言った。その声の明るさに三好は驚いて顔を上げた。
「弾けるのか?」
「弾けるよ。……いや、でも、俺じゃなくてサークルで習えばいいのか」
「いや、持ってくる」
地下倉庫の主たる尊に、勝手に居座るばかりでなく居ても良いと言われた気がする。三好の声が自然と弾む。そんな彼を見て尊はまた、これまでと別人のようにふんわりと笑う。急になんだと思う気持ちも三好にはあったけれど、なんとなく彼の言う通り気温のせいにも思われた。
地下倉庫に住まう幽霊は、外界と隔絶されて季節の変化を空気の温度で知るのだろうか。古堂尊という男は、やはりどこか浮世離れした存在感を纏っている。生き物ではなく本当に幽霊なのか?
もしもそうなら、次に来るときはなるべく暖かい風を連れてこの倉庫に来ようと思う。三好は上機嫌にピアノをはじく尊を見て、そんなことを考える。
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