第1章 萌し2

  〇


「幽霊?」

 大学の授業が終わった後、友人が言った突拍子のない言葉に三好はやけに心惹かれた。

「そう、二号館に出るって噂」

「まあ確かに、あそこはそんな雰囲気だよなぁ」

 二号館は古い。近々建て替えが行われるらしい。そのためほとんどの物品は運び出された後だと聞く。

「夜な夜な声が聞こえるとか」

「声って、どんな」

「さあ……そこまでは知らん」

 それは寒い冬の日で、当時も三好はふらふらと暇ばかりしていた。授業もバイトもサークルも気が向いた時にしか顔を出さず時間を大いに余していた。幽霊を信じたわけではなかったが好奇心は疼く。

「え、行く?」

 面白がって友人に尋ねれば「嫌だよ」とにべもなく断られた。しかし、同伴者がいないだけでは諦める理由にはならない。三好はその足で一人二号館へと向かったのだ。

 二号館の入口には「関係者以外立入禁止」と書かれたバリケードが立っている。とはいえ、これは一年前からずっと置きっぱなしにされていた。建設業者と学校側が揉めたとか、工事関係者が入ると怪我をするだとか眉唾物の噂が二号館には以前から複数あった。

 バリケードを乗り越え扉を引くが鍵がかかっている。仕方がないので入口からの侵入を諦めて外周を周った。斜面に建てられた建物の背面は藪へと沈んでいて、枝木を掻き分け進んでみれば枯葉に埋もれた非常階段を発見する。

 金属板を踏み鳴らしながら上った。各階の扉の鍵を確かめる。四階建ての建物のうち四階の非常扉のノブだけが回った。そのまま引けば軋みながら扉が開いた。

 長い廊下の突き当りにしか窓はなく館内は薄暗かった。人がいない建物特有の、ぴちょんと水が滴る音がどこからか響いて聞こえてくる。

 三好はまず四階を改め、三階、二階と順に階段を降りていった。そして二階から一階に降りたところで違和感を覚え、何気なく瞳のレンズを切り替えてみる。自身の手を見て思わず

「うわ」

 と、声を漏らした。いつの間にか誰かと縁が結ばれていた。そしてそれは階下へと続いているのである。

 縁は常に移ろうものだから珍しいことではない。繋がったばかりの縁はまだ薄く、良縁か悪縁かも判然としなかったが、館内に人がいることは確からしい。三好は糸をたどりながら注意深く地下への階段を降り始める。

 二号館の地下は湿っぽくカビの匂いがきつかった。窓がないため陽光が入る余地はなく、廊下には机や椅子が積み上げられて白い布がかけてある。

 建物の最奥まで糸は続いていた。人影はない。廊下の突き当たりには金属製の大きな両開きの扉があった。倉庫のようだ。足元に目をやれば、溜まった埃を踏んだ靴の跡があった。

 扉に手をかけて押してみる。意外なほどに軽く動いた。

 始めに感じたのは明るさと異様な暖かさだった。倉庫の天井からはオレンジ色の裸電球が吊り下げられ、暗がりにゆらゆらと影を落としているのが見えた。次いで、かすかだが、嫌なにおいを感じた。何かを燃やしたような……ガスの匂いか? 入口付近には廊下同様物がうずたかく積んであって奥が見えない。

「誰かいるのか!」

 呼びかけても反応はなかった。扉を大きく開けて固定した。なんにせよ、人体に有害そうな香りがする。加えて確かに糸は倉庫の奥へと続いていた。仕方がないので三好は障害物を飛び越えて倉庫の中へ踏み入った。

 電球の明かりが点々と暗がりを照らしている。積んだ段ボールの先には開けたスペースがあって、その先に赤々と火を灯した石油ストーブが置いてあった。匂いのもとはこれだ。恐らく不完全燃焼を起こしている。一酸化炭素中毒という可能性が脳内に閃く。

 三好は慌てて糸を手繰ってストーブの隣に置かれたソファへと駆け寄った。黒い毛布に誰かがくるまり眠っている。

 この人こそが古堂尊だ。三好はこの日の出会いを生涯ずっと悔い続けることになる。だが、その何倍も、比べようがないほどに、別れこそを悔いることになる相手であった。

 当時の尊もまた、三好同様模範的学生とは言えなかった。学業においては秀でた成績を収めていたが、それは学費を援助している古堂の家に文句を言わせないためである。最低限しか授業には参加せず、いかに自由な時間を捻出するかに頭を悩ませている。教育や法律、経済など手広く学んでいたものの、彼の興味はそれとは全然別のところにあったのだ。

 音楽である。そしてこの時にはまだ、尊の左手には薬指がちゃんとあった。

 眠る男は揺り動かしても反応がない。三好は急ぎストーブのスイッチを切って彼を背負いその部屋を飛び出した。首筋に細い呼吸が当たることで死んでいないことは分かった。

 とにかく空気が良い場所へ。外へと繋がる非常口の手前にも物が積み重なっていた。人を背負ってそれらをどかすのは面倒で、元来た道を逆にたどった。階段を駆け上がりながら声をかける。二人分の体重を支えた三好の膝がツキリと痛む。息を切らして外に出れば、冷えた風が頬を撫でる。

 うめき声が聞こえた後、背中で首をもたげる気配がした。

「き、気持ち悪い……」

 摺りガラスを柔い指先で撫ぜた。そんな声だと思った。その響きの低さで三好は背負った人が男であると知った。体は軽い。非常階段の踊り場に慎重に下ろせば、自身の体を保持する努力を一切見せず、彼はぱたりと横になった。錆びた金属板は冷たかろうに、力尽きたように動かない。

 三好は自分のコートを薄着の尊に着せ掛けながらもう一度呼びかけた。

「大丈夫か」

 答えはないが、渡したコートで体を覆おうと手足を丸めている。

「救急車呼ぶか」

「いらない」

 今度は返答があったので、三好は隣にしゃがみこみ、彼が回復するのを待つことにした。

 そして一時間ほどが経つ。隣からは寝息が聞こえる。三好は踊り場にあぐらをかいて、手持ち無沙汰に空を見上げていた。

 コートからはみ出た彼の左手の小指と、三好の左手の小指の間を赤い色の糸が繋いでいる。赤い糸の意味を知らないわけではなかったが、あいにく初対面の男にそういった感情を抱く覚えはない。赤にもきっと三好が知らない様々な意味があるのだろう。尊との縁の意味合いは、さしずめ命の恩人といったところだろうか。

 日が暮れ気温が落ちてゆく。いつまでもコートを貸してやる義理もない。

「おい」

 コートに潜り込んだ尊を揺する。呻いた後、引っ張った分だけコートが引っ張りかえされた。

「おい、いい加減返せ」

「やめろ……寒い」

「俺が寒いっつーの」

 無理やり剥ぎ取ればやっと彼は体を起こした。顔色を見ようと思い、三好は俯いた顔を覗き込んだ。

「気分は?」

 尋ねれば今度こそ顔を上げる。さらりと黒い髪が揺れ、長い前髪の隙間から瞳が見える。眠気のせいで落ちた瞼が上がり、夕日の色を取り込んで反射する。

(すっげぇ美人……)

 その顔面にしばし見惚れた。中性的な美形だった。長い睫毛が瞬くたびに、もの憂げな黒い瞳が揺れた。かと思いきや油断なく細められ、白い額に皺が寄った。表情一つ、誰かが大切に作り上げた作品みたいで、すんなり気持ちを読み取れない。

「誰?」

 困惑しているのか、三好の存在を初めて認識したかのような口ぶりだった。ここまで面倒をかけられたにも関わらず、不機嫌な視線を寄越す尊の態度にさすがに三好もカチンとくる。

「死にかけてたの、分かってます?」

 棘を含ませて言ってやってもいまいち分かってないようだ。三好が状況を説明すれば、ようやっと何がおきたか理解して、

「ありがとう」

 一言そう言い、彼は三好に笑いかけた。それ以上の文句を拒む威力のある笑みだった。自分がそうやって笑えば、相手が黙ると分かっている。そういった微笑み方で、事実三好もそれ以上怒る気にはなれなかった。

「……あんた、名前は?」

 三好が尋ねる。人の匂いをどこかに置いてきたような男だから、せめて名前を知りたいと思った。

古堂こどう

 男が答えた。聞き返すことはされなかった。構わない。勝手に名乗る。

三好みよしだ。よろしく」

 寒さで彼の鼻の頭は赤かった。その薄い赤味を見て、白い肌の下に血が通っていることを知る。同時に、三好が倉庫に踏み入らなければ既に死んでいたかもしれないことにも思い至る。大きな恩を売ったはずだが、尊の感謝は些細な落とし物を拾ってもらった程度の重みしかない。

「どうしてあんなことを?」

 自殺かもしれないと思っていた。人目につかず窓もないあの場所は、死ぬにはもってこいだろう。骨になるまで見つからない可能性だってある。しかし、尊から帰ってきた答えは随分間抜けなものだった。

「あまりに……寒くて」

「は?」

 続く言葉を待ってみても尊は三好の顔を見返すばかりだ。

「寒くて、暖をとろうとした?」

 三好が言葉を継いでみれば彼は頷く。

「二号館の裏の藪に粗大ごみを捨てるやつがいる。ストーブがあったから使ってみた」

 結果、中毒を起こしかけた。

「暖房器具を使う時は換気が必要だって教わらなかったのか」

「……換気が必要な暖房を使ったことがない」

「んなわけあるか」

 尊はすっかり回復したようで立ち上がって伸びをする。それから寒さに肩をすくめて

「じゃあ」

 と、一言言って二号館の中へと消える。言外についてくるなとその背中に言われた気がして、三好は後を追わなかった。


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