第1章 萌し4

 梅雨が過ぎ夏になった。三好の左手の指先が弦を押さえることに慣れ始め、簡単な曲ならゆっくり演奏できるようになったころだ。地下倉庫内部の気温も上がったが、それでも涼しく快適さを保っている。

「……三好!」

 眠りの淵から呼び起こされる。目を開ければソファに寝転んだ三好の顔を尊が覗き込んでいた。

「俺、今日はもう帰るけど」

 尊は帰り支度を整えていた。時刻は夜の七時で、普段であれば三好がこのくらいの時間に倉庫を出る。尊が何時まで倉庫にいるのかは知らないが、彼が先に帰ろうとすることはこれが初めてだった。

「早くない?」

 目を擦りながら三好は起き上がる。

「バイト」

「バイト? バイトって、アルバイト?」

「他に何があんの?」

「いや……似合わないから」

 馬鹿にされたと思ったのだろう。尊は眉間に皺を寄せ、さっさと出て行こうとする。三好はあくびをしてから追いかけた。

 日が長くなったので外はまだうっすらと明るい。彼らは親しくなりつつあったが、こうして外を並んで歩くことも初めてだった。

「バイトってどこで何してんの」

 三好が尋ねれば、尊が沈黙を返す。

「言いたくない感じか」

「別に」

 そして尊は耳慣れない外国語を一言述べて、

「そこでピアノを弾いてる」

 店の名前らしい。そう答えた。

「え!」

 反射的に大きく声が出てしまった。

「なに、そんなに驚く?」

「いや、人前で弾くんだ。意外で」

「……まあ、金になるし、雇用主が飯をくれる」

「動物かよ」

 尊が倉庫でピアノを弾くのは、なんとなく人目を避けているからだと思っていた。倉庫に行けば彼はいつもそこにいるので、勝手に知った気になっていたことに気が付く。実際は何も知らなかった。

「行ってもいい?」

「いいけど……面白くもないよ」

「いいよ。暇だし」

 拒絶されないことは嬉しい。

 三好は駅前で尊と別れ一度下宿へと戻り荷物を置いた。ポケットに財布と鍵だけ入れて外へ出る。

 曇ったネオンライトが照らす裏道を抜けると静けさが一段深まる。アスファルトの道がレンガを埋めた石畳へと変わった。道を確かめる様にまばたきすれば、この先に尊がいるのだと糸が示す。

 初めて尊と出会った日から、糸が薄らぐことはなかった。三好の体に連なる糸の内、長くその場に留まっているのはわずかだけだ。大学で付き合いのある数人と尊の他には誰もいない。

 尊と自身を繋ぐ糸の色がどうして赤色をしているのかは未だに分からない。赤は、恋愛感情を表すことが多かった。三好は彼を憎からず思っていたが、それが恋だとは思わない。しかし、他の友人と繋がる淡い色の糸とは決定的に違うと感じる。妙な付き合いになりそうだ、そういう予感はこの時から既にあった。

 糸は、取り残されたようにぽつりと立つ一軒家に続いていた。目立たない看板のせいで店だと気付く人は少ないだろう。看板に踊る異国の文字が果たして尊が言った店の名前と同じなのか、三好には分からなかった。

 店の扉を開けば中は暗く人の姿はない。彼はいつでも薄暗いところにいると三好は思う。昼間はギャラリーとして運用されているのか、四方の壁には絵画が間隔を開けて掛けてあった。声が聞こえるのは地下からで、さわさわと人が囁き合うざわめきが漏れ聞こえてくる。地下へと続く階段はオレンジ色の裸電球が照らしていた。その色が地下倉庫を想起させる。

 螺旋階段を降りると階下はバーになっていた。何の気構えもしていなかった三好は、客の注目を一身に集めていることに気付いて驚く。そそくさと駆け下りて人混みに混ざった。

 階段脇に五人程度が座れるカウンターがあり、テーブル席は十程度。席は満席で壁際には飲み物片手に立っている客もいる。町はずれの小さなバーにしては人が多い。

 そして、その空間の奥にはやはり重厚な存在感を放つグランドピアノが置いてあった。辺りを見ても尊の姿は見当たらないが、ピアノ自体が彼の気配を放っているように思われた。ピアノを照らすスポットライトも、地下倉庫と同じ色をしている。

 間もなく演奏が始まるようだ。客席の照明がゆっくりと落とされ、それに伴いピアノだけが浮かび上がるように輝きを増した。三好は人にぶつからないよう注意しながら壁際による。

 やがて、階段を降りて来る足音が聞こえた。客の視線が音の方へと集まった。

 階段を降りてきたのは尊である。バーカウンターの中に置かれた柱時計が、夜九時を重たい音色で告げていた。同時に沸き起こった拍手の大音量が急に視界をクリアに変える。

 倉庫で見慣れたぼんやりとした表情は、今の彼には微塵もなかった。身に着けた黒のベストとスラックスが、糊の利いたシャツの白を際立たせている。緩みなく締めたネクタイも同じく黒で、その上に、細く白いが筋張った首が伸び、綺麗な顔がのっている。あつらえられた無難な衣装は一分の隙なく彼の体をかたどって、彼が男であることを如実に伝える。にも関わらず、女性のようなしなやかさを見る者に印象づけた。いつも顔を隠す前髪は無造作に後ろへと撫でつけられて、肩に届きかけた髪は後ろで一つに括っている。かたい表情は作り物みたいに冷ややかだが、その外した視線を待ちわびる人々が、ここにこれほど集っている。

 花だ。冷たく暗い色をした、存在感のある、一輪だけの。

 三好の中で親しみを覚えていた尊の姿が一瞬で塗り替えられた。

 拍手に迎えられているにも関わらず、尊が客を見ることはない。ピアノしか見ていない。客の間をすり抜けながらシャツの袖口を折り上げる。その様が、白黒映画のワンシーンを見ているようにスローになる。俯いた時に垣間見えた、瞼の白に釘付けになる。

 三好の横を通る時、彼は少し視線を上げた。それから「本当に来たのか」と言いたげに、困ったように少し笑った。その顔が焼き付く。その表情が、カメラのシャッターを切ったように焼き付いて離れなくなる。

 硬い木でできた一段高いステージを尊の靴が踏む。拍手が止んで、彼は椅子に座り鍵盤に指をかざす。地下倉庫で見る動作と変わらないのに、ライトのせいだろうか、輪郭がチカチカと光って見える。

 ビアノの音が彼の指先から水のようにこぼれる。

 演奏中、客はじっと動きを止めて音に聞き入っていた。三好もまたそうであったが、彼の目は次から次へと現れる縁の糸を追っていた。音符を一つ奏でるたびにふわりと糸は現れて、人と人とを結んでゆく。

 尊の指先から縁が繋がる。とりどりの色が溢れる。それは静かな花火にも、水滴が弾ける様にも似ている。尊自身が観客を一つに束ねている。

 例えば、多くの人が同時に音を重ねるオーケストラや合唱とか、長い年月を経て現代に残された美術品とか、そんなものを見た人々が止め処無く、縁の糸を繋ぎ合う瞬間を三好は見たことがあった。尊の演奏はそれだった。そしてそれは、極めて稀なことである。

 憂いを晴らすような曲が続く。意外にもアップテンポな曲が多く、ピアノに触れる尊はよく笑ったし、流暢な英語で歌いもした。

 しかしどういうわけか三好は切ない。一音を惜しむように演奏する尊は、何かに追われ焦っているようにも思われた。だからこうして、この場にいる全員と彼は縁を結ぼうと手を伸ばしているのだろうか。

 最後の一曲を丁寧に弾き終えて、尊は客席に向かって立った。拍手を送る人々に、人が変わったように年相応の笑顔を見せた。椅子から立ち上がり、ゆるりと体を動かすたびに指先に連なる無数の糸が鮮やかに舞った。

 三好もまた、彼に惜しみなく拍手を送った。尊はもう一度深くお辞儀をしてから歩き出す。彼の靴底がステージを踏み、そして一歩、ステージの段を降りた時、


 バチンっ


 と、三好の耳は、暴力的な音をとらえた。

 何が起きたのかすぐには分からなかった。それは、尊に連なる縁の糸が無慈悲に断ち切られた音だった。巨大なハサミを使ったようにスッパリと、耐える間もなく生まれたばかりの縁は一度に切れた。切れてそのまま空気に溶ける。

 なんだ、今のは。

 背筋が冷える。あれほどたくさんの糸が切れる瞬間を初めて見た。切れた糸の隙間から尊が見えた。彼は何事もなかったように柔らかく笑っている。その指にはたった一本、糸が残されている。赤。三好の糸だ。綺麗だと思った。

「三好!」

 明るい声で呼ばれた。急いでまばたきをした。視界には拍手を送りながら尊を目で追う人々と、真っすぐ三好の方へ駆け寄って来る尊が見える。少年のように無邪気に笑っている。

 三好は自分の目で見た出来事を理解できず、近づいて来る尊のことを立ち竦んだまま迎えた。三好の混乱に気付きもせず、尊は三好の腕を掴んだ。歩調を緩めずそのまま三好を引っぱって地下から連れ出す。拍手と喧騒が、遠ざかってゆく。

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