瀬川忍
年明けからずっと忙しい日々が続いている。あっという間に一月が終わり、二月に入った。
俺はここ連日、大急ぎで部屋の私物を片付けてはダンボールに詰める作業を繰り返している。別に杵原のことが恐ろしくなって夜逃げをしようというのではない。引っ越しの準備を進めているのだ。
そう、引っ越し。
新しい部屋は3LDKの、なんということはないファミリー向けの物件だ。
俺たちは新たなスタートを切ろうとしていた。
初めはもっとゆっくり環境を整える予定だったのだが、案の定というべきか、杵原の方が勇み足に引越しの段取りを取り決め、都合を前倒しにして俺を急かしたのだ。
相変わらず外堀を埋めるのが上手く、あれよあれよと今の部屋を追い出されることになっている。今月中に完全退去しなければ電気も水道も止められて家賃だけが発生してしまう。なんとしても出ていかなければならなくなった。
なぜそんなにも急ぐのか――杵原にも言い分があった。
後見人申請の際、俺と杵原が別居している現状は印象がよろしくないというのだ。まだ婚約段階とはいえ、二人が別居状態では小夜の生活に悪影響及ぼしかねないと。そこまで言われてしまえばぐうの音も出なかった。
というわけで、部屋は一段と殺風景になっている。俺はダンボール箱に囲まれながらベッドフレームを解体していた。
〈さっさと終わると思ったけど、難航しているみたいじゃない〉
充電接続している端末はハンズフリーの通話状態で床に置いていた。相手は言わずもがな杵原だ。
「ベッドを組み立てたのは何年も前だし、六角レンチも安物だ」
一応は分解も再組立も可能なはずだが、取り扱い説明書は捨ててしまっている。どうやって金具を外すのか手順を忘れてしまっていた。簡単に足から外してしまったのが不味かったのかネジが硬い。
退去前にフローリングに傷をつけるわけにもいかないので、俺は孤独にベッドと戦っていた。
端末のマイクが俺の息切れを拾っているのだろう。杵原は向こうで笑っている。
「手伝いに来ても良いんだぞ?」
〈手伝うほどでもないでしょう。PCデスクとベッドをバラしたら、後は運ぶだけだもの〉
「……よく知ってるな。部屋に招いたことはないはずなのに」
わざとらしく言ってみた。
やはり杵原は、俺の部屋に侵入したことがあるのだろう。小夜が家出しに来る時に鍵を開けた犯人で間違いない。
杵原は訝しむ俺の問いには答えず、会話を続けた。
〈この際新調して、古いのは捨てちゃったら?〉
「壊れたわけじゃないんだ……勿体無いだろ……っ、はぁ、取れたぞ」
側面板を外してみてわかったが、中のネジは錆が発生していた。万年床というわけではないが、ベッド下のスペースは湿気が溜まっていたようだ。杵原の言う通り買い替えの言葉が過ったが、俺は首を振る。くだらない出費は控えたい。
〈荷物はどうやって運ぶの?〉
「ホームセンターで軽トラを借りるよ。一往復で事足りる」
〈免許なんて持ってたのね〉
「一応な。カビの生えたゴールド免許が」
〈意外ね〉
「就職するには運転免許は必須だったからな」
杵原は――というより瀬川は――勉学に挫折した学生時代の俺を知っているからか黙ってしまった。デリケートな話題だと気を遣ったようだ。なので俺から話題を変えた。
「そんなことより、杵原は準備できてるのか?」
〈準備? 私はもう新居に住んでるけど〉
「そうじゃない。小夜と顔合わせするんだろ」
〈あぁ、思い出させないでよ緊張するから〉
その言葉がどれだけ本気なのかわからないが、杵原は小夜について真面目に向き合う気持ちはあるようだ。なんなら俺よりも後見人になる意思が強いように思える。
「三日後だぞ」
〈私の事情はどのくらい伝えるつもりなのかしら?〉
「そうだな……杵原真綸香の姿と名前を貰ってる以上、『他人の空似です』じゃ通用しない。ある程度は伝えることになる」
俺は言葉を切る。考えを巡らせているし、手元は錆びた金具と戦っていた。
〈『初めてまして、杵原真綸香です。え? 同じ名前の
杵原は通話越しに一人芝居を始める。
〈『そう、実は私が真綸香ちゃん本人なのでした』……だと、ダメなのかしら〉
「性格が別人すぎるだろ。それに東伏見公園の地縛霊が瀬川の姿になっていることの辻褄が合わない」
〈空いたポストに別の幽霊が着いたとか〉
「役員かよ。玉突き人事じゃないんだから。瀬川と杵原の存在が入れ替わったことは隠せないな」
〈そうね〉杵原は通話の向こうで少し沈黙した。〈……そうなると、夫殺しの指名手配犯ということも明かすしかないわね〉
「芋づる式に入れ替わり相手の名前はバレるからな……この際瀬川の夫殺しの顛末は全て話していい。小夜ならきっと同情してくれる」
六角レンチから手を離し、肉体労働から頭脳労働に切り替えた。
「俺たちが隠すべきなのは、『饗庭崇と愛美を殺した』事実だ。瀬川忍が関与しているのはあくまでも夫殺しのみ。饗庭の事件とは無関係という立場を貫く」
〈そうなると、私は夫殺しの後、ドッペルゲンガーの異能を解決してもらうため尾鳥を頼った。尾鳥は夫殺しの顛末に同情して、杵原と瀬川を入れ替える提案をした。という流れよね〉
「まぁ自然だろ。これでドッペルゲンガーは解決。不死の地縛霊〈元・杵原〉は龍になる夢へ近付き、指名手配犯の瀬川は迷宮入り。饗庭家への関与は一切触れずに辻褄が合わせられる。
……というか、ニュース見れるか?」
〈見れるわよ〉
「饗庭家の報道を調べてくれ」
PCを梱包してしまった俺の代わりに、杵原は通話の向こうでニュースの閲覧を始めた。動画配信か記事か、しばらく二人の会話は途切れる。
〈見つけたけど、あなたの冤罪騒動を扱う記事ばかりね〉
一度は殺人容疑で実名まで晒されたのだ。警察の取り調べやマスコミの報道の在り方についてのバッシングが第一にヒットするようだ。世間の関心は事件そのものではなく冤罪に向いている。我ながらいい囮になったと褒めてやりたい。
しかしその裏で、警察もマスコミも新しい容疑者を血眼になって調べたはずだ。沽券に関わる派手な転び方をしたのだから、ただでは起きまい。
「真犯人に女子高生が挙がってないか?」
〈んー……あ、あったわ。小さな記事が出てる。『虐待親を毒殺したのはクラスメイトか? 女子高生らしき人物』ですって。同じ見出しで二、三件あるだけ。誤報を恐れて詳細は書かなくなったみたいね〉
「ちゃんと辿り着いたか……ま、そのあたりで捜査は打ち切りだがな」
〈打ち切り? どうして?〉
「報告書を提出したんだ。『事件現場付近で瀬川忍を名乗る人物の霊素可視化現象を観測した』って」
杵原は何も応答しなかった。沈黙で説明を促しているのだろう。
「
〈それで?〉
「だから報告書はそれなりの効力があるんだよ。相手がたとえ警察でも、特権階級の圧力で揉み消されるのは珍しくない。
東伏見公園に現れた霊素可視化現象の報告書にこう書いたんだ『霊体の名前は瀬川忍』……実際嘘はない。
容疑者は死亡。これ以上の捜査は意味がないから打ち切りだ。粘り強く付近を調べたところで武蔵関公園の包丁くらいは攫い上げるかも知れないが、それで終わり」
〈瀬川忍の死亡が観測されたとして、新たな容疑者の女子高生は捜査続行ではないの?〉
「続行しても何も見つからないだろ。瀬川忍も、謎の女子高生も、もういないんだから」
〈なるほどね……〉
杵原の声が喜色に弾んでいた。捜査が打ち切られるなら彼女にとっても憂いがなくなる。逃げ切りが成功したと喜んでいるようだ。
〈貴方を選んで間違いなかった。私を救ってくれてありがとう〉
「そりゃどうも。こんなダーティーな生き方は二度とごめんだ」
〈そう? 私から見た尾鳥君はずっとダーティーだけれど〉
「……杵原真綸香の人生を背負うんだからもう犯罪は無しだ。俺もお前も小夜のために手を汚した。これからは小夜のために真っ当に生きて行こう。約束だ」
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