エピローグ

貝木椛


 早朝、西武新宿駅前。

 俺は貝木の見送りに出ていた。


 彩度の低いコンクリートジャングルは冷え込んだ空気の影響で幾分か澄んで見える。風は雪混じりで、コートに張り付いた結晶は音もなく溶けて染みていく。二人とも傘は持っていない。


「今年も東京は積もらなかったね」


 貝木は白い息を吐きながらビル街を見上げる。

 都会の景色を目に焼き付けるような感慨などないだろうが、彼女の横顔は少し儚く見えた。


「新潟は積もってるのか?」


「豪雪地帯を舐めてもらっちゃ困るわね。もしかしたら新幹線も止まっちゃうかも」


 冗談めかした言葉が、別れを名残り惜しむように聞こえた。


「……ねぇ」


「ん?」


「杵原のこと好きなの?」


「……どっちのだ?」


 俺がとぼけると貝木は蔑みの目を向けた。


「囮がそれ言う? 元・瀬川、現・杵原のことよ。複数の案件を同時に解決するために、仕方なく婚約したのかって聞いてるの」


「んー、どうだろうな」


 今度は俺が空を見上げた。喉を晒した顎先に、答えを待つ視線が張り付いている。はぐらかしてしまいたいが、貝木はそれを許さないだろう。


 色々な、邪念のような思考が渦を巻いている。

 例えば『なぜ貝木はこんな質問をするのだろう』とか、『ラブホテルの一件も踏まえると、ひょっとして貝木は俺のことが好きだったんじゃないか』とか、言葉の裏を考えてしまう。


 ――まさかな。


 勘違いはやめよう。貝木と俺は天と地ほどの差がある。仲良くしてくれるのは単純に歳が同じというよしみだ。杵腹のことが好きかどうか訊ねるのも単なる好奇心に決まっている。


「……あのときは他に選択肢がなかった。元来俺は、一生独身で生きていくつもりだったよ」


「じゃあ好きじゃないってこと?」


「いや、全く好意がないとは言い切れない。腐っても初恋相手だしな」


 あの夜の武蔵関公園で瀬川迫られたとき、口では否定しつつも拒みきれない心はあった。――と、俺は思い出して笑う。


「包丁で脅された恐怖をときめきと勘違いしたかもしれないが」


「吊り橋効果かい」


 貝木の表情は呆れ顔になった。がっかりさせてばかりだ。


「彼女が人を殺したこと、忘れないでよ」


「わかってる」


 夫殺し。杵原の中に人を殺すという選択肢が存在していることは否定できない。ドッペルゲンガーの異能を失ったとしても、罪まで消えたわけじゃない。……それは俺も同じだ。


「……しっかりしなよ。電車も来ちゃうし、私もう行くからね」


「ああ」


「また来年、龍が見れそうなら飲みに行こうよ。杵原は浮気扱いするかな」


「そんな器の小さい奴じゃないだろ」


「そ。じゃあまたね」


「なぁ貝木」


 俺は思わず呼び止めていた。

 本当に咄嗟に、声をかけてしまっていた。


「何?」


 貝木は足を止めて顔を向ける。

 『やっぱりなんでもない』――なんて言ったら格好悪いか。


「お前は俺のこと好きだったのか?」


 後生だ。聞くも聞かざるも情けない男だが、もうこうなったらはっきりさせておきたい。


 貝木はにやりと笑みを浮かべた。風が冷たいせいか、頬が赤かった。


「並行世界があるのなら、どこかの世界線では有り得たかもね」


 貝木はそれだけ答えて、新宿駅に向かい歩いていった。

 俺は彼女が見えなくなるまで見送って、無性にコーヒーが飲みたくてたまらなくなった。

 甘ったるくて濃いカフェインが溶け込んだ、朝専用モーニングショットを脳が求めていた。

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