第16話 益田家の姉

  ◇



 ……とある火曜日。


 意識が浮上する。眠りから目覚める予兆だというのはすぐ分かった。それと同時に感じる、寒気と引力。それを感じて、俺の意識が反射的に覚醒する。

「……おい」

 寝起きの喉を震わせて、全力で低い声を出す。まず感じる異常は冷気。冷房を設定温度低めに掛けているとはいえ、布団に包まっていれば適温のはずなのに、何故か寒い。それは当然、布団が剥がされているからだった。とはいえ、寝相が悪くて蹴り飛ばしてしまったというわけではない。他に原因がある。

「あ、こーちゃん。おはよー」

 頭を起こせば、すぐ近くにいるのは俺の姉。これだけなら姉が起こしに来てくれただけだと思うだろう……普通なら。だが、問題は彼女の手だ。姉が手を掛けているのは、俺のパジャマのズボン。それを脱がそうとしているのだろう。

「おはよー、じゃねぇんだわ。寝込みを襲うなっていつも言ってるだろ……」

 寝起きに姉が人のズボンを下ろそうとしている。あまりに最悪すぎる、この状況が我が家の日常的な朝の風景である。

「まあまあそんな硬いこと言わずに。その朝〇ちで硬くなってるのを発散させようとしただけだから」

「うまいこと言ったつもりか? っていうか朝〇ちとか言うんじゃねぇよ!」

「遠慮しない遠慮しない」

「って、だから脱がすな!」

「やんっ……!」

 姉を押し退け、俺はベッドから這い出る。今日も学校だ。準備をしないと。



「こーちゃん、はいあーん」

「要らん」

 食卓にて。朝食の卵焼きを食べさせようとしてくる姉に、俺はノーを突き付ける。語尾にハートでもついていそうな甘い声なのが気持ち悪い。

「こーちゃん冷たーい! 反抗期だー!」

「……父さん、何とか言ってくれよ」

 箸で頬を貫かんばかりにひっついてくる姉に、俺は父に助けを求める。

「千里」

「……はぁい」

 父の低い声に、姉―――千里ねーちゃんは、あっさり引き下がった。俺、益田幸太郎の姉である千里ねーちゃんは、俺に対して明らかに姉弟の一線を越えた行為をしようとしてくる。だが、父に注意されると大人しく引き下がる。父は千里ねーちゃんの行動を問題視しているので、こういう時には俺の味方をしてくれるのだ。

「千里ー、幸太郎が好きなのは分かるけど、TPOは弁えなさーい」

「TPOの問題じゃねぇだろ」

 キッチンから聞こえてくるのは、母の声。母は父と違い、千里ねーちゃんの問題行動をただの姉弟愛の範疇にあると思い込んでいる。寝込みを襲ってズボンを脱がす姉弟愛があって堪るかという話なんだが、母は天然なのか、どうもその辺の理解が乏しい。

「そうだね、こういうのは二人っきりの時に、ムードを醸し出しながらやるべきだよね」

「やらねぇから」

 アホなことを言い出す姉を一蹴して、俺は朝食を腹に詰めていく。まだ多少余裕はあるが、ダラダラしていたらあっという間に遅刻してしまう。

「ご馳走様」

 食事が終わり、食器をキッチンに持って行って一度部屋に戻る。制服に着替えて鞄を持ち、登校の準備を整えた。

「じゃあ、行ってきます」

「はい、いってらっしゃい」

 一度リビングに顔を出して、母に声を掛けてから家を出る。父は既に出勤したようだった。

「あ、こーちゃん待って〜! 一緒に行こっ!」

「方向逆だぞ」

「途中までなら大丈夫だから」

 そんな俺の後ろを、千里ねーちゃんが追いかけてくる。そして交わされる毎度のやり取り。……千里ねーちゃんとは学校が違うし方向も違うのだが、毎朝途中までついて来ようとする。確かに、遠回りすればついて来れなくはないが、負担も少なくないだろうに。

「というか、そもそもこーちゃんが同じ学校に進学してくれたら、普通に一緒に登校出来たんだよ? 何で違う学校行っちゃったの?」

「それはもう何度も言ったし、まだ理解してないんか……?」

 愚痴る千里ねーちゃんに、俺は敢えて呆れた声を出して応じる。……そもそも何故俺と千里ねーちゃんが違う学校に通っているのかといえば、同じ学校に進学したら校内でもやたらと干渉してくることが容易に想像出来たからだ。というか、学校が同じだった中学時代まではマジでヤバかった。休み時間の度に俺のクラスにやって来てはベタベタしてくるので、クラス内でも好奇の的であった。進学で学校が分かれている間は平穏だったが、年子なので、それも俺が最終学年の間だけ。そんな事情もあり、父に協力を仰いで、千里ねーちゃんとは違う学校を受験したのだった。余談だが、俺が選んだのは本来の学力よりもレベルが低めの学校なのだが、焔や美由紀は俺を心配してわざわざ同じ学校を選んでくれた。このことに関しては一生感謝しないといけないと思っている。閑話休題。

「あーあ……こーちゃんと一緒のスクールライフを楽しみたかったのに。大学はちゃんと同じところ受験してね?」

「それこそ大学なんて無理に合わせるものでもないだろ……」

 千里ねーちゃんの台詞に俺はまたもや突っ込んだ。高校はまだ適当で良いだろう。最悪勉強さえ何とかなれば、進学も選択肢は十分残る。だが、大学は自分のやりたいこととか、就職先とか、将来的なことを見据えて選ぶべきだ。少なくとも、仲良しこよしで選ぶものではないと思っている。……まあ、高校だって少なからずそういう側面はあるので、そういう意味でも幼馴染たちには頭が上がらない。自分自身の進路よりも俺を優先させちゃったわけだし。

「こーちゃんが遠くに行っちゃって寂しいよぉ……「ねーちゃんだいしゅきー! けっこんすりゅー!」って言ってくれてた、あの可愛いこーちゃんは何処に……」

「勝手に記憶捏造するの止めて貰って良いですか?」

 適当なことを抜かす千里ねーちゃんに、俺は抗議の声を上げる。……幼い頃はハグやらキスやらの愛情表現をやたらとしまくるという、今とはまた違った問題児だった千里ねーちゃん。そんな彼女に、当時の俺は辟易として距離を取ろうとしていた。まあ、それが叶うこともほぼなかったんだが。

「大丈夫! こーちゃんのお嫁さんになる準備は万端だからね!」

「ならなくていい、ならなくていい」

「もうっ、て・れ・や・さ・ん」

 洒落にならないことを口走る上に、口調がくっそウザい千里ねーちゃん。姉弟で結婚とか、言っていいのは精々小学生までだろ……しかしこの姉は高校生であり、しかも未だに本気である。毎朝部屋に忍び込んでくるのも、既成事実を作るためという嫌過ぎる理由だ。勘弁して欲しい。

「ほら、そろそろ別れないと」

 やがて、俺と千里ねーちゃんの通学路が分かれるポイントに到着した。ここからは別行動だ。

「やーん! もっと一緒にいるの! このまま学校サボってこーちゃんと一緒にいる!」

「駄々捏ねるな。ついて来ても摘まみ出されるぞ」

「じゃあ一緒にサボろうよ!」

「無茶言うな」

 こうやって我儘を言い出すのも毎度のことだ。精神年齢が小学生レベル。いい加減に成長して欲しい。

「いいから、さっさと自分の学校行け」

「いけず~!」

 俺も慣れたものなので、千里ねーちゃんの背中を学校のほうへ押す。全く、世話の焼ける姉である。

「じゃあな」

 千里ねーちゃんを別の道に押し込むと、俺は踵を返して自分の学校へと向かう。

「あ、こーちゃん」

「ん?」

 しかし、千里ねーちゃんに呼び止められて、俺は足を止めて振り返った。

「いってらっしゃい」

 笑顔で、こちらに手を振る千里ねーちゃん。……もう家を出ているし、今更言うことではないだろう。

「……行ってきます」

 でも、そんな野暮な突っ込みはなしだ。俺はそう返して、今度こそ学校へと向かうのだった。

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