27. 冬の空気

 公園のベンチに並んで座り、連絡先を交換した。

 友達一覧のなかに「僕チン」という「名前」が並んだ。


 いままで一人称が「僕チン」のひとに出会ったことは、一度もなかった。

 まさか、ずっと「僕チン」だったわけではないだろう。


 まずは、周りのひとたちが使う一人称に影響されて、自分もそれを使いはじめるというのが、ふつうの順序ではないだろうか。


 おれは、どうしてその一人称を使っているのかをいた。


「むかしは『僕チャン』だった。その前は『』だった。前の前は『小生しょうせい』だった。前の前の前は『ぼっく』だった。その前は『ぼくたん』だった。それより前は『ぼく』だったと思う」


 きみはどうして「おれ」なんだい?――「ハイアーキーな僕チン」は純粋無垢な表情を、曇り空が落とす陰のなかにくすぶらせながら言った。


「なんでかなんて考えたことがないです。でも、周りのみんなが使っていたから使うようになったんだと思います」


 そのありきたりとも言えそうな答えに退屈したのか、「ハイアーキーな僕チン」はあくびをした。


を言わなきゃ」

「えっ?」

と訊かれたら、だと思わないと。本当のことを言わずに、ボケないと」


 おれはいきなり、お笑いの難しさを知った気がした。奥深さをのぞきこんだ気がした。気がしただけではないのだという気もした。


「僕チンは、なんだよ。だけど、おもしろいことを言おうとしたんだ。だってきみが、と訊いてくるから」

「すみません。気をつけます」


 ところで、ほんとうにむかしから「僕チン」だったとしたら、だれに影響を受けたのだろう。おれはなぜか、そのことにしまっていた。


 でもこれ以上訊くのは、なんだかしつこい感じがするし、意図的にこの話題を避けているような雰囲気も少なからずあるみたいだったので、すことにした。


「行こうか。あまり遠くに行ってしまうと、帰るのが退屈になってしまうから」


 おれは「ハイアーキーな僕チン」の後ろにつきながら、黙って歩いた。黙って歩いてほしいと言われている気がしたから。


 冬の空気は冷たいし寂しいし、陽の光に照らされるのを求めているし、しゃぼん玉のことをよく思っていないし、オフサイドポジションにいる選手を注意したくてもしゃべれないからできないし、フルーツケーキを十七等分することができないし、戦争を止めることも平和を呼び寄せることもできない。


 だけど冬の空気は、どこか綺麗だ。


 そんなことを考えながら歩くおれの息は白かった。「ハイアーキーな僕チン」の息は藁人形わらにんぎょうを燃やしたときにでる煙のように見えた。


「僕チンはいつも、明日の暮らしのことを考えては憂鬱になる。明後日の暮らしのことを想うと切なくなる。明々後日しあさっての暮らしのことを想像すると死にたくなる。でも明日は今日になるし、明後日は明日になるし、明々後日は明後日になるし……ようは、死ねないんだな、絶対に。うまくできてるな、人生って」


 そんなことを言ったあと、「ハイアーキーな僕チン」は大声で歌いはじめた。


 おれはこの歌を知らない。知らないけれど、どこかの学校の校歌だということは、なんとなく分かる。


 地上は陽の光を取り戻し、おれの目の前には鮮やかな輪郭に守られた景色がひらけてきた。


 そしてすぐにまた、雲が太陽を独占した。


 おれも歌いたくなった。むかし憧れていたミュージシャンの歌を。サードシングルのカップリング曲を。ファーストアルバムのラインナップに並ばなかったあの名作を。


 タイトルはちゃんと覚えていない。たしか「磐井いわいの乱」みたいな語感だったと思う。ちなみに、フォースシングルのカップリング曲は「宇佐八幡宮信託事件うさはちまんぐうしんたくじけん」みたいな響きのタイトルだった。

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