28. そういうこと

 三十分後、新藤しんどうは来なかった。四十分後、新藤の姿はなかった。一時間後、新藤を待つひとの数は十人を超えていた。


 一時間半後、新藤がやってくるのを待ちわびるひとたちは十五人になり、開場まであと一時間となった。


 おれは、新藤に何度も連絡をいれたが、出ることはなかった。なんだかイヤな予感がした。


 イヤな予感がしたし、まあ実際、んだろうけれど、ともかくあと一時間でお客さんがやってくる。


「んじゃ、準備は終わったんで」

 おれは舞台に立つわけではない。新藤と漫才をするわけではない。


 じゃあ、帰ろうかな。

 まあ、そういうわけにはいかないんだわな。


〈なんか適当に買っていくから、家の住所だけ教えといて〉

 おれは、新藤にテキストメッセージを送り、スマホの電源を切った。


「新藤、たぶん風邪だと思います」

「連絡きたの?」


 そっけなく言う「ハイアーキーな僕チン」は、タバコを吸う真似をしながら、喫煙への欲望に耐えている。


 そのとき、楽屋から奇声が聞こえてきた。「人間は尊い存在でありますが故にLOVE」が発声練習をしているとのことだが、言っていることは伝わってきた。


「理科の教科書に! アンダーラインを引け! 等速直線運動! 宇宙第一速度! 天井から垂直に垂れたひもは十分に軽い! 試練! ひとは理科を学ぶためだけに生まれてきたというのか!」


 おれは、彼女の発声練習に耳を傾けつつ、新藤が顔を真っ赤にして寝こんでいる姿を想像した。


「いや、きてないんですけど、きてないってことは、そういうことなんだと思います」


 なんの理由もなくドタキャンをするような奴ではない、ということくらいは分かっている。きっと、意識が朦朧もうろうとして連絡もできないくらいに弱っているのだろう。


 で、こころのなかで、すまないすまないすまないすまないすまない……と唱えていることだろう。


「実際に会ってこれを言えるんなら大したもんだ。でもしょせん、匿名というに甘えて言ってるに過ぎないんだ」


 さっきから椅子に座りスマホを片手にじっとしたままでいる「爆発的爆発余りに爆発」はそう言った。


 おどおどした大学生という雰囲気がありながらも、おもしろいことをしたいとのが伝わってくるをしている。


 SNSに自分の悪口が書きこまれているのを見ているのかと心配になったが、いてみると、とある有名なプロカードゲームプレイヤーの、業界への提言のような投稿に、無数の匿名のカードゲーマーたちが意見という名の誹謗中傷ひぼうちゅうしょうを書きこんでいるのを読んでいるとのことだった。


「さあはじめよう! を! を! を! を! を……Love」


 どうやら、「人間は尊い存在でありますが故にLOVE」は発声練習を終えたらしい。


 会場の外にでても、待機をしているお客さんは、喫煙所から帰ってきたらしい「賠償金未払い五年目」と鉢合はちあわせをしただけだった。


 中年の男性という軸の周りに、それに連想される言葉が漂っているような彼は、おれに向かって「いい天気だね」と


 しかしいい天気というには、雲がですぎているような気がした。少なくとも、おれにとって今日は、いい天気ではなかった。


「きみが言いたいことは、よくわかるよ。だけどは、タバコを吸うと、いい天気だと言い切りたくなる性分しょうぶんなんだよ」


 それにしても、ここにはをつけたお笑い芸人しかいないな。なんでそんな芸名にしたんだろう。


 んで、なんでおれには芸名がないんだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る