26. ハイアーキーな僕チン

 おれは「人間は尊い存在でありますが故にLOVE」に会う前に、「ハイアーキーな僕チン」というピン芸人に出会った。


 白髭しろひげをたくわえたおじいさん、比喩ひゆを使うなら世俗的な仙人、という感じだった。


 親しみを感じさせる見た目だったけれど、小さな眼に浮かんでいるのは、心細さに耐えてきたひとだけに宿る光だった。


も手伝いにきたんだけど、まだはやいみたいだ。三十分くらい、はやいみたいだ」


 このひとの声をはっきりと聞き取るためには、もっといい耳を持たなければならない。今世のおれでは、ちょっと難儀する。


「少し歩こうか。いい話を聞かせてあげる」


 おれは、「ハイアーキーな僕チン」に言われるがままに、会場の隣にある学校のグラウンドに沿って、寒々しい木枯こがらしの吹く道を、彼の少し後ろをキープしながら歩いた。


「僕チンはorganizeやglobalizeの-izeを-iseで表記することが好きなんだよな。きみは?」

「英語の話ですか? 英語のことは、わかりません」

「プロテストだね、という言い方は」

わかりませんと言うには、おれはんです」


 ゆっくりとけていく雲が、地上に陽の光を与えては取り返して、おれたちをもてあそび、お前たちの生殺与奪せいさつよだつは、自分たちが握っているのだと言わんかりの顔をしている。不快だった。


「手紙をだすとき、切手をのりで貼ることを否定するような風が吹いてるね」

「どういうことです?」

「否定されることに、意味なんてないんだ。僕チンたちは、んだ。プロテストもできずに」


 切手を糊で貼ることを否定するような風は、違い棚に置かれた花瓶を震わすような風になったのだと、「ハイアーキーな僕チン」は言った。


 おれには、その比喩がよく分からなかった。かましてきやがる、とも思わなかった。それこそ風のように、ちょっとだけおれの感覚を呼び覚まし、また眠らせるだけだった。


「センチメンタリズムじゃなくて、サンチマンタリスムと言いたい。英語ではなく、フランス語。ヒストリーじゃなくて、イストワールと言いたい


 そういうことを、つぶやくというより、伝えるというのが正しい音量で言い立てる「ハイアーキーな僕チン」は、ふと立ち止まり、自動販売機をじっと見つめだした。


 もう耳なじみの言葉となった「ヒエラルキー」ではなく、「ハイアーキー」という正しい発音を芸名にしたのは、そういうだからなのだろうか。


「コーヒー、飲むね」


 ひそひそ声で、まるでおれにではなく自販機に話しかけるかのような感じで、「ハイアーキーな僕チン」は言った。


 おれの分もおごってくれるかと期待したが、そういう余裕はないらしい。気がかないと思われるのがイヤなのか、「ちょっと飲む?」と無糖の缶コーヒーを差し出してきたけれど、おれは断った。


 断ったことで、もしかしたら、「ハイアーキーな僕チン」は傷ついたかもしれないと、もう一度歩きはじめてから思った。


「僕チンはむかし、をしていて、で、もしていたし、も学んでいたし、の勉強もしてた」


 どんどん流れるように独り言を繰り広げていく、「ハイアーキーな僕チン」の背中をのんびりと追いながら、周りを気にしつつ耳をませた。


 おれはきっと、「ハイアーキーな僕チン」を師匠のひとりのようにして芸人生活を送っていくんだろうなと、ぼんやりと思いながら。

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