19. 笑いなんて必要ねえ

 おれはきっと、司馬島卯湖しばしまうことは、永久に分かり合えない。


 学のないおれと、学のありそうな彼女とのあいだには、深すぎる溝がある、などという、それこそ学のないようなことを


 太陽と月を水平線の上に並べたみたいな、違和感。地球を包み込む宇宙は、再帰的に宇宙を包みこむことができないみたいな、でもいい。シーソーが平衡へいこうを保ち続けている公園なんて、見たことがない。訂正の二重線が引かれた文字を、もう一度その横に書いたときの、あの不愉快な感じ。地獄の血の池でおぼれたあとに、天国の泉で身体を清めることができるはずがない。そういうことを言ってんの。


 おれは、また考えはじめる。


《くだらないことを、くだらないままにしておける、魔法がほしいと言われた。魔法がほしいなら、定期券を買って電車に乗るしかない。「どこまで行けばいいの?」と君が問うのなら、わたしはいつでもこう答える。「あなたの乗るべきなのは、環状線なんだよ」と》


 まったく意味が分からない。だけど、このセリフにはなにかがある。そういう予感がした。


 おれはこの文章を、写経しゃきょうしてみた。「環状線」の「環」という字を。「?」もどこか。「魔法」という漢字も。問うの「門」の部分が。ずっと見ていたくない。「く」は「へ」を。居心地が悪い。ルーズリーフをズタズタに破り捨てた。魔法のように、「魔法」という部分だけが


 奇跡は、この世にある。どこかに、必ずあって、死ぬ六か月前くらいに、みな平等に、なんらかの形となって訪れる。そんな気がした。


《わたしの愛するすべての存在が、存在しないという、存在しない世界の上において、翻訳は成立するのかい? わたしの言葉を、だれが翻訳してくれるんだい? 愛するすべての存在が、存在しないという、存在しない世界の上において》


 奇跡は、この世にある。どこかに、必ずあって、生きてから三十八年後に、みな平等に、輪郭りんかくのないもやのような形になって訪れる。そんな気がしなくもない。


 翻訳は成立するんだよ。そう言ってあげたい。


 文章の意味するところはよく分からないけれど、翻訳が成立しない地平が。おれがいて、あなたがいるのに。あなたがいて、おれがいるのに。はたと気付いた。作者と読者が対話をしている。


 ああ、そうだよ。なんだかなあ。おれって、バカなんだと思うよ。


 司馬島卯湖にプロポーズして付き合って、二、三年後に結婚する。ニートのくせして、そんな妄想を将来に拡げてしまっている。


 おれは、愚直に真剣な恋をしようとしているのか?

 恋の炎を飲んで、食道と胃を焼き切ろうとしているのか?

 もう、なにも排泄しないようにって?


 だとしたら、この恋に、


 そうをしたとき、おれの親のお金のかたまりであるスマホが鳴った。新藤しんどうからだった。


『どう? 元気してる?』

「ぼちぼち。で、なんの用?」

『うーんとね。今度があるんだけど、来てほしいんだよ。が足りなくてさ』


 新藤、そういうことに興味があるのか。おれは少なからず失望した。おれは新藤に、と思っていたらしい。


 おれが新藤に対して抱いているイメージを、のはなぜか。その理由は、いまはよく分からないけれど、おれはむしゃくしゃしてしまっているらしい。だから、素直に言った。


「そういうのをするタイプだとは思わなかった」


 すると新藤は、またもや意外なことを言って、おれの気持ちを攪乱かくらんさせた。


『ぼくだって、そうさ。ぼくはいまだに、自分のことが信じられない。だけどぼくは、そういう自分を受け入れなくちゃいけないんだと思う』


 あっ――新藤にお願いされていた、のことを思い出した。

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