20. 笑い以外いらねーってことね
『ぼくは、あらゆる悪を見てきたよ』
おれが、お口直しに、あのバイトのことを口にしようとしたとき、
『とくに、ぼく自身が抱えている悪を』
「なんだよ急に。新藤って犯罪者なの?」
なんでこんな言い方をしてしまうのだろうか。そりゃ、
『犯罪はしていないよ。六法全書や判例集に
「こうありたいと望む自分が、こうなってしまう自分に変換されるように?」
『そうそう』
新藤は、闇の中に一筋の卵色の光が差し込んできたかのように笑った。地の底にたどり着くと、ちょっと横に広がっていく。そんな感じのする光だった。
『なんだ。読んでるんじゃないか。司馬島さんの小説を。セリフを覚えてしまうくらいに』
なんか違う。それは、なんか違うんだ。直感。そういう直感が、してしまうんだ。
読んでいるんじゃなくて、読んだ上で、おれは司馬島卯湖の言葉を、一度翻訳し、その訳語をおれの血肉に染みこませているんじゃないか。
『黙っちゃって、どうしたの?』
「お返しにおれも急に聞くけどさ……新藤は、奇跡ってあると思う?」
奇跡は、みな平等に、三十八歳になったら起こると思うんだよ。なんでって、そんなの言葉で説明できないけど。でも、言葉で説明できないという、そのあやふやさというか
『ほんとうに急だね。でも、奇跡なんてないよ。ぼくは、それをよく知ってる。ぼくたちは偶然性を奇跡と言いかえることで、必然性のなかで生きたいという欲望を揺るがす、偶然としか言えない事実から、目を背けているんだ。弱いんだ。人間と言うものは、弱いんだよ。壊れかけのパソコンみたいな意味じゃなくてね。誤作動ばっかり起こすパソコンだってこと。でも、すべては、ぼくたちが正常と異常という二項対立を、人生の上に持ちこんでしまうのがいけないんだよ。異常を愛することができないとしても、ぼくたちは異常でしかいられないんだって認めないと。正常化という幻を切り捨てないと……』
きっと新藤は、なにかどす黒くて重たくて
「そういえば、なんでピン芸人なの?」
『いきなりだね』
「おれは異常だから、文脈なんて知ったことじゃないんだ」
色とりどりの雑音が、耳くそのように、新藤の声の向こうでごろついている。その耳くそを、おれは知っている。きっと、あのビルの七階くらいにいるのだろう。じゃあおれは、走らないといけないのか?
『ナックルカーブを投げることができなかったからだよ』
「球児だったの?」
『さあね』
「そうか」
『いままでありがとう』
「ひとって追い込まれると、おもしろくもないボケをするんだな。てか、ボケだったんだな。なんだよ、合コンって」
『スベらないと、未練が残っちゃうじゃん。おれっておもしろいんだな。そう思ったら最後。生にしがみつく』
「じゃあ、後悔はないの?」
『どうだろう』
「おれ、走ってるんだけど分かる?」
『息きれてないよ』
「タクシー使ってんの。ニートが親のお金でタクシーに乗ってんの」
『おもしろいんじゃない?』
「だろ? ほんとうにそうしてんの。だからさ、お前はツッコミをやれ。おれがボケをするから」
なに言ってんだよ、おれは。でもおれは、異常なんだよ。だから、許せ。許せ、エトセトラ。許せ、アンド・ソー・オン。イン・ジ・アザー・ワード(だっけ? 違う? まあ、いいや)、
おれの頭は、絶賛、混乱中だ。なんて素敵なことなんだろう。
『コンビ名は?』
「お前がつけろ」
『じゃあ、「△△駅前の××ビルの五階」ってどう?』
なんだ。おれの予想と二階も違っていた。じゃあ、もうひとつのとこだな。
「そこ、心霊スポットだろ?」
『詳しいな』
「心霊スポットのことならまかせろ。あと、オーブの量とか色とかのこと。あと、ウイルス対策ソフトを入れていないパソコンのこと。まじもんのパソコンの方な。比喩でもなく、美しいレトリックでも、聖なる象徴でもなく」
で、おれは、突然なことに、芸人を目指すことになったみたいなんだけど、売れなくても仕事がなくても、もうニートじゃないってことでいい?
まあでも、ちょっとは仕事がほしいかも。ウイルス対策ソフトをパソコンに入れたいからさ。
いま、おれの人生のなかで、一番の急務は、新藤のところに行くことだけど、次は、ウイルス対策ソフトのことなんだよな。で、そのふたつが解決したら、司馬島卯湖と結婚するためにするべきことを、真剣に考えるわ。
なんだっけ、あの漫才の大会。年末にテレビでやってるやつ。あれにでて、ちょっとは活躍すれば、仕事ってもらえるんじゃなかったっけ?
それがうまくいけば、ウイルス対策ソフトをインストールできるし、司馬島卯湖とゴールインできるかもしれないってわけだ。
じゃあもう、おれの人生にはさ、笑い以外いらねーってことね。
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