第67話 対ヘッセにおける日米の相違 1
これまでヘッセの受容における日米の相違について、四反田五郎の文をベースしてに述べて参りました。この差ができる原因はどこかと考えると、やはり、初めてヘッセを知る場面がどこかであるかということに尽きるように思われてなりません。
日本の場合、少なくとも戦後は学校教育、とりわけ中学生の教科書で否応なく出てくることによって接します。義務教育で学ぶことは将来においてどこかで必ず役に立つことが詰まっているものではある。しかしながら、そこで学んで特に何かで使うことなく一生を終えていく場合もある。ヘッセの小説にしても、そこはまったく同じで、教科書を読んで授業を聞いてその作品を読んだだけで終わるかもしれない。しかし存外、このヘッセ作品というものが子どもたちの印象に残るものであることはどうやら確からしい。
~私も学習塾で教えていて、それをよく感じることがありました。
そうなってくると、その後その作品を読んだだけではあるがヘッセという作家がいるということは知っているという人の割合はヘッセを学校教育で扱わない国の人たちよりも図抜けて大きくなることは必然でしょう。
しかしながら、ヘルマン・ヘッセという人物の作家としての活躍は、グレン・ミラーオーケストラやキャンディーズのようにわずか数年のピークで突如終ったようなものではなく、それこそ半世紀以上にわたって継続しています。さすれば、初期のものと中期、そして晩年のものがまったく同じであるとは限らない。むしろ違っていて当然な話にもなりましょう。教科書で知ったことで知名度があり、それで興味をもっていくらかヘッセの作品を読んだという人でも、恐らく後期の作品、それこそノーベル賞受賞の引き金となった「ガラス玉演技]まで読んだという人はかなり限られても来ましょう。これを読んだら、教科書に出てきたあの作品の同一人物による作品とは思えない人も多いでしょうに。
そのあたりが、学校教育で与えられたものの強さと弱さのような要素が見て取れるところではあります。何も学校教育で与えられたものだけが全てではないが、およそ人からそれとなく与えられたものというのは、確かにその物事を知るきっかけにはなるものの、真に血肉となるかというと、残念ながらそうはならないのが常。
自ら求めて身につけたものしか真に身につかないということから思えば、ただただヘッセの一作かそこら、いやいや、初期の青春モノを読んだだけでは、まさに「群盲象をなでる」が如し。皆、前足の下の方ばかり、それも左足限定、などという状態でしかないわけ。ちょっと気が利いて右足も撫でてみましたという人も中に入るが、後脚はもとより尻尾やまして鼻をなでたなんて人はいないという例えが、日本におけるヘッセ像へのアプローチの最大公約数的なたとえといえはしないでしょうか。
これに対して、アメリカではどうか。
アメリカという国の文化は元宗主国のイギリスやフランスなど欧州文化をもとにしたものがベースとなってはいるが、移民の国であるだけに、さまざまな文化のるつぼでもあり、まさに、サラダボウルに乗せられた野菜の一群みたいなもの。
いくら欧州文化をベースとは言っても、ヘルマン・ヘッセという人物の作品をさあアメリカの初等中等教育において学ぶ機会があるのか、という話になって来る。それ以上にアメリカでは知的レベルの差が半端なく大きい。上の方はまだしも、下の方はそれこそ「文盲」といってもいいほどの人も多い。学校自体通えていない子も日本よりはるかに多い。それこそ「不登校」なんてものではなく、ハナから通えない、通わない。そういう層も日本より確実に多い世界。
かくなる上では、アメリカでヘッセを受容しようとなれば、最低でも読み書き出来る上である程度以上の知的レベルに達した層にフォーカスせざるを得ない。
次話では、その点について分析していきます。
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