第2話 謎の少年と喫茶店

 真面目に働いていたつもりだった。遅刻だってしなかったし、業務も真剣に取り組んでいた。しかし、それでもクビだと言われて、どうしてですかと詰め寄ることはできなかった。理由は自分でも気づいている。思いだされるミスの数々。怒られるのは日常茶飯事だった。

 たとえば、棚に置くはずの風邪薬を大量に落としたり、(中身が瓶ではなくて助かった)値札を間違えたり。もう一か月経つのに、いつまでもレジの操作がおぼつかなくて、手が遅くて客を待たせたりした。

 きっと店長はたくさん悩んだのだと思う。眉をひそめた店長は、本当に申し訳なさそうだったから。


「元気があっていいね」


 いつも店長が私にかけてくれる言葉。私はそれを心のよりどころにしてこの一か月頑張っていたんだ。それなのに、私は店長の期待に答えられなかった。

 店を後にする時、後ろから倉餅に話しかけられた気がしたが、今はどんな言葉も響かない。私は倉餅を無視するように、脱兎のごとく逃げ出した。

「お世話になりました」ぐらい言っておけばよかったと後悔したが後の祭りだった。

 不意にお腹がくうっと鳴って、朝から何も食べていないことを思いだした。口にしたのはリンゴ味の飴ぐらいだ。しかし、今はどうすることもできない。近くにコンビニはないし、家に帰ったところで食べ物は冷蔵庫にないだろう。

 身体が浮いているかのように、ふわふわした感覚がする。風船のように、このまま空を飛んでいきたいななんて考えていたとき、何かに躓いた。いや、そもそも何かなんて存在しない。何もないところで躓いて、転んだ。バッグから化粧品がこぼれ落ちて、コンクリートの道路に散乱した。おもちゃ箱をひっくり返してしまった気分になり、子どものように泣きたくなる。

 幸い昼の時間帯に、この道は人通りが少ない。しばらくひっくり返ったファンデーションの入ったコンパクトを見つめていても、問題はないはずだ。

 そう思っていた矢先、誰かに後ろから肩を叩かれた。

 驚いて振り向くと、私の目の前にスマートフォンが現れた。小さな画面には、『大丈夫ですか?』の文字が表示されている。

 画面から視線を外して顔を上げると、スマホの持ち主が目に入る。紺色のブレザーを着た高校生くらいの男の子だった。ハの字の眉は私の事を心配してくれている様子で、口は何かを伝えたいかのように、空いたり閉じたりしていた。

 少年は、私の顔を覗き込んで首を傾けている。


「大丈夫です」


 私は少年に向かって、両手を広げて左右に振る動作をする。少年は黙ったままこくりと頷いた。

 なんだか恥ずかしくなって、早くこの場から立ち去りたい気分になったので、私は急いで化粧品をトートバッグに入れる。

 しかし、私の手の届く範囲外にリップクリームが転がっていることに気が付いた。私の視線を追ったのか、少年がリップクリームを拾ってくれたので、立ち上がりながら受け取ろうとした時だった。ぐうっと、無情にも私のお腹の音がなり響く。私は思わず自分のお腹を両手で押さえた。

 小学生のころ、全校集会中にお腹の音がなった時の事を思いだす。緊張した空気の中、突如鳴る間抜けな音。誰かがくすくす笑っている。私の近くにいる人以外は、誰のお腹の音かわからなかったのか、「今の音なにー?」と茶化すような声が聞こえてくる。私は、自分のお腹の音だとはっきりわかるから、恥ずかしくて両手でお腹を押さえた。

 校長先生が咳払いしてくれなかったら、きっと私は一生笑われていたのだろうと思う。

 しかし今は、この場に私と少年の二人しかいない。私のお腹の音だということは、丸わかりだ。私は恥ずかしさのあまり、少年の顔をみることができなかった。お礼だって言わなければならないのに、何も言葉が出てこない。

 お腹に罪はないのに、バカと罵声を浴びせたかった。

 少年は少しだけ顎に手を当ててから、スマホに何かをフリック入力している。私は少年の行動をじっと見つめる。先ほどから、彼は声を出さずにスマホの画面に文字を表示させて会話を試みている。なぜなのか気になって仕方がなかった。


『近くに喫茶店があるのですが。何か食べませんか。俺についてきてください』


 文の最後に、笑顔の絵文字があった。見ると、少年の表情も笑顔だった。

 私はナンパかと思ったが、こんなに親切なナンパと出会ったことはない。私は迷ったが、少年と一緒にいくことにした。優しさを無下にはできなかったからだ。適当に飲み物だけ注文して、お礼だけ言って帰ろう。そう考えていたのだ。


 *


 その店は、立ち並ぶ住宅街から離れた林の中にひっそりとあった。二階建てになっており、一階は喫茶店で二階は住居のようだった。一階の看板には、『カンタービレ』とアルファベットで書かれていた。音楽用語ということは知っていたが、どういう意味を込めて、その名をつけたのか、店の外観からはわからなかった。

 名も知らぬ少年は、なんのためらいもなく喫茶店に入っていく。まるで自宅に帰るように、慣れた手つきでガラス張りの押戸を開けた。

 ベルの音が私たちの入店を告げる。私は様子を伺いながら、忍び足で店内に足を踏み入れた。


「いらっしゃいませ」


 という男性店員の声が、どこからともなくきこえてくる。

 私が入り口で立ちつくしていると、少年は素早くカウンターの方に歩いていった。少年はカウンター席の向う側にいる先ほどの声の店員に向かって言う。


「永介さん。お願いがあるんだけど」


 少年が声を発したことに対して、私は驚いていた。高すぎず、低すぎない。耳障りの良い中低音の声だった。

 しゃべれたのか。と思った。ならなぜ彼は私に、スマホの文字で話しかけたのだろう。何か深い理由でもあるのだろうか。そうでなければ、失礼な話だと思う。

 永介さんと呼ばれた店員の視線が、ちらりとこちらに向けられる。ほんの一瞬だけ目が合うと、彼はすぐに私から少年のほうに目を戻した。


「何だ。今日は猫じゃなくて人でも拾ってきたのか」


 永介さんは優しい笑顔を少年に向けながら、からかうようにそう言った。

 私は唖然としたまま、喫茶店の出入り口付近で阿呆みたいに立っていた。

 ペンダントライトが、永介さんの顔をぼんやりと照らしている。すらりとした背丈。水色のシャツ。腰の黒いエプロンがよく似合っていた。

 かっこいいな。私は漠然とそう思った。


「そういうわけじゃないけど。それより、永介さん。何か作ってほしいんだ」


 少年が困ったようにそういうと、永介さんは顔をしかめた。


「まさか、猫まんまを作れって話か」

「冗談を言ってる場合じゃないんだ。彼女、すごくお腹が空いているみたいでさ。お願いだよ。何か食べさせてあげて」


 カウンターのテーブルに身を乗り出しそうな勢いで、少年は言った。

 永介さんは眉間にしわを寄せながら、しばらくじっと少年の顔をみつめていた。

 私はどうしたら良いのかわからず、ただ二人の様子をみていることしかできない。それからなんだか恥ずかしい。永介さんが再びこちらを一瞥するまでの間、私は永介さんとまったく同じ表情をしていた。

 永介さんが、「はぁ」とため息をつく。


「今回だけだぞ。光太」


 光太と呼ばれた少年は、「うん」と大きく頷いた。


「ありがとう。永介さん」


 そういいながら、光太くんは笑顔をふりまく。あどけない表情にめまいがしそうになる。その純粋無垢なままでいてほしい反面、心配になった。光太くんは、こんな見ず知らずの人間に対して、優しすぎる。いつか悪い大人に騙されやしないか不安になった。


「そこのお客さん」


 永介さんが、私のほうを見て言う。


「はい」


 自分がよばれたことを理解して、私は返事をした。


「入り口で立ったままじゃ迷惑なので、どこか適当なところに座って待っていてください。光太の注文に答えるのに、少し時間がかかりますので」

「あの。私、帰ります。誘われるままについてきちゃったけれど。正直、お金もないし。家は十分も歩けば着くので。お店にも迷惑だろうから」


 私は、右手で左腕を抑えながら永介さんから目を逸らした。どうしてだろう。彼の眼をまっすぐに見ることができなかった。やましいことがあるわけでもないのに。


「え? 帰るんですか」


 光太くんの、不安そうな声が聞こえる。

 うう。良心が痛む気がする。でも、ちゃんと断らなきゃとも思う。そうでないと、ダメなのだ。

 そう決意した瞬間だった。私のお腹が再びくうっとなる。よりにもよってこんな時に。


「待っていてくださいね」


 まるで圧をかけるかのように、永介さんはもう一度そう言った。私は眉毛を八の字にして顔を傾ける。帰りづらくなってしまった。


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