第3話 歌を聴いて
永介さんは私と光太くんに背を向けると、店の奥へと入っていった。そこに厨房があるのだろう。
「お姉さん。料理ができるまで帰らないでください。お金がないなら、俺が払います」
光太くんは私のほうに戻ってくると、開口一番にそう言った。
「どうして、そこまでしてくれるの」
「じいちゃんに、人には親切にしなさいって教わったので。お姉さんが困っているなら、助けないといけないと思ったんです」
光太くんはそう言って、まっすぐな視線を私に向ける。
「なら、一つだけきかせてほしいんだけど。なんであの時、声じゃなくスマホの画面で話しかけたの。あなた、しゃべれるのに」
この店に入ってから、光太くんはずっと声を出している。声が出ないわけではないのだ。なら、その理由はなんだろう。素朴な疑問だった。
「そ、それは。なんていうか。俺、しゃべるのが苦手で」
光太くんは、なんだか焦ったように言う。
「今は、そんな風に見えないのだけれど」
「それはっ。そう、なんだけれど」
急に歯切れの悪い言葉が返ってきて、私はきいてはいけないことだったのかと思った。困らせるつもりはなかったので、話題を変えてみる。
「光太くんだっけ。助けてくれてありがとう。でも、もう十分だから」
「待って。……そうだ。俺の歌を聴いてほしいんだ」
私を引き留める方法を思いついたかのように、光太くんは言った。
「歌?」
私は首をかしげる。突然何を言い出したのだろう。
「うん。俺が外でしゃべらない理由は、歌に関係しているから」
光太くんは頷いてからそう言うと、どこかへ歩いていく。私の視線は、自然と彼を追っていた。別に興味があるわけではない。歌と言われても特別に惹かれることもない。ただ、どうしてだかその場を動けなかった。
店内の奥の席まで見渡すと、壁際中央付近には、椅子とテーブルがなく。床より五・六センチ程だろうか。段になったステージのような場所があった。
「お、歌うのか。光太」
突然、そう言う声がきこえて、私は心臓が跳ね上がるほど驚いた。一体いつからそこにいたのか。いや、おそらく私と光太くんが店に入った時から既にいたのだろう。気が付かなかっただけだ。
みたところシニアと思われる男性は、綺麗な白髪をしている。右の窓際の席でゆったりコーヒーを嗜んでいたようだ。テーブルにはシンプルなマグカップと新聞紙が置いてある。
「お嬢さん。いつまでも店の入り口に立っていないで、席に座ったらどうだ。他に客もいない。この時間に光太の歌が聴けるなんて貴重だぞ。帰るならその後にしなさい。それに、店に入っといて何も楽しまずに帰るなんざ失礼だろう」
男性はどうやら、最初から私たちの会話をきいていたらしい。
「すみません」
と私は謝りながら、言われたとおりに壁際の空いている席に座った。ちょうどステージがよくみえる席だった。
「わしに謝ってどうする」
男性はそう言って笑った。
光太くんは、慣れた手つきでステージの端にある大きな機械を触っている。おそらくそれが音楽を鳴らす機械なのだろう。素人目にもすぐにわかった。ステージの手前にある黒くて四角い箱のようなものは、スピーカー。男性の話によると、それらは定期的に使われているらしい。
準備が終わったのか、光太くんはステージの中央に立った。有線のマイクを右手に持っている。
『あー、あー』
マイクのテストなのだろう。光太くんは発声練習替わりなのか色々な音階の「あー」を発した。低音から高音まで。声幅がとても広いと感じた。
満足するまでそれを続けた光太くんは、私と男性の方を一人ずつ見てからマイクを通してこう言う。
『リクエストがあれば言ってくださいね。俺がわかる曲しか歌えませんが』
そんなことを言われて、私の脳内にある曲がよぎったが、口に出すことはできなかった。きっと一生喉元で引っかかってでないだろう。そんな、苦い思い出の曲だった。
「演歌を歌ってほしい」
と男性が言う。
『この間、歌った曲でいい?』
「ああ。もちろん」
『じゃ、ちょっと待って』
光太くんは、機械を操作するために一度ステージからいなくなった。音楽をかけてから、マイクを持ち直し、再びステージへと戻ってきた。
私はその姿をぼうっとみつめていたけれど、光太くんが歌い始めたとたんに、体中に電気が走ったような衝撃を受けた。鳥肌が止まらない。ステージに立っているのはもはや、私を助けてくれた光太くんではなかった。どこか別の存在で、どこかの違う世界のスターみたいに感じてしまった。
光太くんの歌う演歌の曲は、メロディは聴いたことがあるけれど、歌詞は覚えていない古い曲だった。最近はネットの動画サイトを視聴することしかしていない。動画のおすすめに出てくるのは、最新のポップス曲ばかりだ。演歌はまったくと言っていいほど、聴かない。昔に母親と視たテレビの歌謡番組で、聴いたぐらいだ。
光太くんの歌は、川のせせらぎをきいていたら、突然嵐のような風が襲ってくる。抑揚のしっかりした歌い方で、プロが歌っているかのように錯覚させてくる。私は、光太くんの歌唱する姿にすっかり見惚れてしまっていた。
ほんの数分間だったけれど、終わったあとに思わず大きく拍手したくなって、両手を力いっぱい叩く。
「すごい」
という言葉しか出てこなかった。語彙力のない私は、自分で恥ずかしくなる。
『ありがとうございました』
光太くんは、マイクを持ったまま言った。
「ははっ。光太の歌はすごいだろう。お嬢さんも何かリクエストしたらどうだ」
男性が笑いながら、そう言ってくる。私は叩いていた左右の手のひらを、胸の前で合わせると考え込んだ。
あの曲の名前を言ってしまいそうになる。かつて私が大好きだった曲。何度も口ずさんだ曲。今は、聴くだけで泣いてしまう曲。けれど私は、それを口に出すことはしなかった。
「光太くんの、歌いたい曲でいいよ」
私の言葉に、光太くんは無言のまま頷いて、また機械のほうへ行き、それから聴いたことのある少し前に流行した人気ポップスの曲を歌い始めた。
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