第2話 不審な三人組
遠く西の空の下……
ジルム山を主峰とする国境の峰々が、淡い夕日のなごりに染まっている。
そしてそこからのびる巨大な影が、ちょうど今、リュトラの城市の上におおいかぶさろうとしていた。
左手には黒々とした緑をたたえるデュールの森。
右手には、崖をへだててルース川の流れがゆったりと蛇行している。
城市の大門からはるか南にむかっては、砂塵と枯草の荒野、広大なガトルード平原が広がっていた。
リュトラ城塞都市の中心部には、領主マクーハンの居城――黄蓮城が見える。
蓮の花弁を広げた形に建物がつながっていて、その中心に丸い屋根の謁見ホールがある。
そしてそれらすべてが、磨きあげられた黄大理石によって、まばゆい黄金色に輝いていた。
リュトラの市街は、幾重もの城壁で同心円状に囲まれている。
その昔は辺境防備の砦であったという。
しかし聖王家の平和な統治が続くうちに、砦の中には市がたち、やがて兵士の家族たちがうつり住んだ。
そして今では、中心部に高級住宅街、中層に平民街と自由市場、外層に歓楽街と貧民街を有する、一大地方都市にまで発展した。
その中層にある自由市場から、東中門をつらぬくセブ大通りの先――そこに、歓楽街へとつうじる親不孝通りがある。
と……
そこを、まっしぐらに駈けぬける影がひとつ。
リュータである。
夕日と闇が競いあうそこを、リュータの小柄な影が、野ネズミのように走っていく。
親不孝通りも中ほどまでくると、もう喧騒とはかけ離れた別世界だ。
これから静寂をむかえる世界と、これからが盛りあがる世界との、ちょうどはざかいの区域にあたる。
そして――
黄昏の刻が近づいている。
リュトラ城塞都市は、マルーディア北部にある。
だから、ことのほか日没が早い。
もうすでに、うっすらと三番目の月が輝きはじめている。
日暮れの刻は、別名、逢魔が刻ともいう。
さまざまな魑魅魍魎が、闇の進軍とともに忍びよる魔の時刻なのだ。
だからその時刻には、よほどの粋狂者でもないかぎり、親不孝通りへは足を踏みいれない。
常人ならば、あまりの異様さに、背を丸めて逃げ帰りたくなる。
しかしそこもまた、リュータにしてみれば単なる遊び場にすぎなかった。
リュータの足は、おどろくほど速い。
人ごみをかきわけながら疾走してきたというのに、息切れひとつしていない。
呼吸の間隔こそ「ハッハッ」と短いが、それもまた完全に制御されている。
すべては、幼いころから鍛われてきた拳法のおかげだった。
リュータは走った。
走りながら天をあおぎ、ぽつりとつぶやく。
「急がなくっちゃ……」
そして親不孝通りの路地裏につづく、せまい軒下道に走りこんだ。
石材と樹皮で作られた、薄汚い壁や軒。
それにへばりつくようにして、ちょこまかと駈けぬけていく。
噴水のある小さな広場に出た。
石灰岩の四角いブロックを漆喰で固めた、どこの街角にもある噴水池だ。
真ん中にある獅子の像の口から、ちょろちょろと申しわけ程度に水がこぼれている。
古びて擦りきれた石畳には、すでに夜が忍びよっていた。
かすかに宵闇草の花の甘いかおりがする。
冷たい夜気が、しんと肌にしみ透っていく。
リュータは追っ手がないか素早く確認した。
四方に目を凝らし耳をそばだてる。
見えないものまで見通そうと、鼻をヒクつかせ風の匂いを嗅ぐ。
そしてまるっきり人の気配がしないのを確認すると、やっと小さく安堵の息を吐いた。
「ふあぁ……」
声がした。
リュータの息が止まる。
シュッと音をたてて口の中が干上がっていく。
たちまち首筋の血管が、ドクンドクンと脈打ちはじめる。
冷たい汗が背中をツツーッと流れ落ちる。
愕然とした表情を刻みこみ、リュータは声のしたほうを見た。
……そんなはずは!
たった今、だれもいないことを確認したばかりなのだ。
が、しかし……
いつのまにか、正面にひとりの男が座っていた。
四角い石組みにあぐらをかいて、のんびりとこちらを見ている。
リュータは幽霊でも見たような気分になった。
今度は、左のほうから声がした。
「盗みは良くない」
低い、透きとおった声。
あわてて左に視線を泳がせる。
「そう思いますわ」
ほとんど同時に、うしろからも。
こちらは天使のささやきのように甘い。
リュータは包囲されていた。
子供とはいえ、体技にかけては自負していたリュータである。
気配すら察知できぬまま取りかこまれるなど、これまで一度もなかった。
正面に座っている男は、まだ若い。
うす汚れた
背には、T字形をした奇妙な金具を背おっていた。
まるで剣の刃の部分がそっくりへし折れて、
左の声の主は、典型的な戦士の姿をしている。
黒光りのする
巨大な皮袋を背おい、仁王像のように立ちはだかっている。
それでいて、分厚い短甲胄ですら豊満すぎる胸のふくらみを隠せていない。
そう……。
戦士はなんと女だった。
音もなく背後から右手に移動したのは、巫女服姿のミリア人。
その姿はあまりにも華奢で、女戦士の半分ほどしかない。
こちらは女というより女神にしか見えない。
あまりにも美しすぎる。
幽霊蛾の繭から採取される半透明の絹で織られた服。
それが夕闇の中でほのかに光を放っている。
「な、なんだよ。てめーら……」
リュータは本能的に身を固くする。
にぎり締めていた首飾りを、あわててふところに入れようとする。
「盗んだな、それを」
女戦士が、いきなり決めつけた。
指を突きつけ、じりっと迫ってくる。
「ば、馬鹿いうな。これは、もともとおいらのもんだ!」
「嘘はいけませんわ。子どもは素直でなければ」
女戦士とは対照的に、とろけるような笑顔とともに巫女が告げる。
その微笑みが、ほんのすこしリュータの緊張をやわらげた。
とたんに、めまぐるしく頭が回転しはじめる。
今回もまた知恵を使って、なんとかこの場を切り抜けるのだ。
「嘘じゃないってば! こいつは母ちゃんの大事な首飾りなんだよ。それを金貸しのガシューの野郎が借金の形にって、無理難題ふっかけて取りあげたんだ。そしてヤクザの親分のラボールに貢ぎやがった。だから取りかえしただけなんだよ!」
「それは母親のものなのか?」
女戦士は意外そうな表情をうかべた。
「そうだよ、戦士のねーちゃん。ラボールの野郎、領主とコネがあるのをいいことに、この
母ちゃんは父ちゃんと死に別れて、しかたなく娼婦宿の女郎になっちまったけど、それがもとで身体を壊してさ。心臓が悪いんじゃ、仕事もできねえだろ?
だからいまじゃ店にも出れず、借金だけが増えるばかりだ。その借金のカタにって、母ちゃんの宝物の首飾りを……」
リュータはあることないこと、洗いざらいをしゃべりまくった。
半分はうそ泣きにしても、うっすらと涙さえ流して見せる。
『女にゃ同情してもらうのが一番だ』
そう、死んだ親父も言っていた。
「まあ。なんて、不幸!」
案の定、巫女のほうが同情してくれた。
「信じてくれる?」
「信じますわ。どうかあなたに、愛神ユリアの御加護がありますように」
巫女はいい終わると、うるうるとした目で女戦士を見る。
女戦士も困ったような表情を浮かべている。
リュータをどう扱ってよいか、判断に苦しんでいるようだ。
「若?」
女戦士は迷ったあげく、噴水のところにいる男に声をかけた。
だが――
「ぐー」
男は寝ていた。
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