11.シェラドゥルーガは、もうおしまい
11−1
―――――
母方の祖母のことについては、あまり知らない。
自分が十かそこらのときぐらいである。母と叔母が連れてきてくれた。母姉妹と同じぐらいに若々しく、そして綺麗な人だったことだけは覚えている。ほんとうの祖母は、自分が産まれる前に亡くなったと聞いていたのだが、母姉妹はずっと、嬉しそうに一緒にいた。
成人する頃だったはずだが、祖父は患いものをして、何年もしないうちに亡くなった。祖母も、その後を追うようにして亡くなった。遠くに住んでいたので、ふたりとも、火で清められた後でしか会えなかった。
優しく、朗らかな人だった。肌の色とか、顔立ちとか、瞳の色だとかを褒めてくれた。祖父そっくりだと、愛おしげに抱きしめてくれた。
我が愛しきパトリック・リュシアン。その言葉と声だけは、今でも思い出せる。
パトリック・ベロワイエ、著
“ダンクルベール物語”より
―――――
警察隊本部食堂の会計資料について自信がなかったので、今回もまた、別棟の庶務課資料室に足を運んでいた。
司法警察局の新庁舎移設にあたり、人員不足ということで、庶務課から何名か引き抜かれていた。補填として、内務省から官僚を転属させるかたちで三名が入ってきたのだが、資料室室長となった女性中尉がとても聡明で、何より優しい方なので、すっかり頼りにさせてもらっていた。
「
素敵な笑顔とともに渡された資料を見て、ラクロワは安堵のため息を付いた。
以前より修正が少なくなっている。この人に相談するようにしてから、苦手だったこの業務にも、ようやく自信が持てるようになってきた。
「添削、ありがとうございます。ティナさん」
ファーティナ・リュリ中尉。
とびきりの美人さんだった。
ビアトリクスと同じぐらいの歳だろうか。ビアトリクスが絵に描いたような女軍警ならば、こちらは敏腕キャリアウーマンといった趣である。
女性士官用の略式軍装は同じだけど、ところどころを崩していた。
室内にいることが多いため、油合羽ではなく、大きめのカーディガンをゆるく羽織っていたり、アスコットは支給のものより明るい色だったりする。
高身長でスタイル抜群。足も長く、白いスラックスで強調される脚線美。ちらりと見えたくるぶしの白さと艶かしさに、同じ女性ながら、いけないものを見た気分に襲われるほどだった。
庶務課資料室。言ってしまえば閑職だが、その有能さから、きっと色んなところから仕事が回ってきているのだろう。それすらもてきぱきこなして、そのうえで余所事をしたりもしていた。
ちょうどお昼だったので、せっかくと思い、ごはんを誘ってみたところ、快く返事をしてくれた。
階下に向かうとアンリが待っていた。同じく、ティナをごはんに誘おうとしていたようである。どうやら前からの知り合いらしい。
「家の近くに、エルトゥールル様式の蒸し風呂があるんだよ。あれが最高でね。引っ越してきてから、よく通っている。前まで肌荒れがひどかったけど、おかげで化粧のりもよくなったし、香水も少しで済むようになったんだ」
口調は結構、ざっくばらんだ。それが見た目の麗しさとは裏腹で、親しみやすかった。
「今度、一緒に行ってみないかい?」
「私、ですか?」
「アンリと三人で。アンリも、はじめてだっけ?」
「私は何度か。郷里でアルケンヤールのものをやっていました。あれで育ったから、ちょっと暑さが物足りないけど、洗ってくれるの、気持ちいいですよね」
「サウナってやつかあ。あれも興味があるね」
別棟から、食堂へ向かう途中だった。
若くて、不良っぽい男性士官ふたり、待ち伏せていたかのように、声をかけてきた。
「よう。お姉さんたち、可愛いじゃん。ここの人?」
いやらしい顔つき。
思わず、すくみ上がっていた。
司法警察局や警察隊本部は、女性職員が比較的多い。それを狙いに、他部署からたまに、こういった人たちが、ちょっかいをかけてくるのだ。
ラクロワは背も低く、どうしても気が大きくなれなかったので、よく絡まれてしまった。それがほんとうにこわくて、いつも泣いてしまっていた。
すっと、アンリが前に立ってくれた。そしてその前に、ティナが立ちはだかる。やはり背が高い。
「こわい顔すんなって。ちょっと遊ぼうよ。へえ、お姉さんは、奥さまなんだ。ちょっと火遊びぐらいなら、旦那さんも許してくれるよ?そっちのその傷、もしかして、
「貴官ら、どこの所属か。星の数も数えられんとは」
「いいじゃんかよ。俺たちの家の名前聞けば、喜んで飛びつくだろうぜ。どうだい?」
男のひとり。不細工。ティナの美麗な顔に手を伸ばした。払いのけることもなく、きっと睨みつけていた。
こちらから手を出せば、問題になる。どうすればいいんだろう。こわくて、たまらなかった。
でも、頑張らなきゃ。頑張って、自分で何とかしなきゃ。
震える足で、アンリの横に並んだ。体も震えている。アンリがみとめて、肩に手を回してくれた。
私だって、やらなきゃ。
「そういうの、嫌いなんだよ」
後ろから聞こえたのは、静かな声だった。
それは、アンリと並んだラクロワの肩に、手を置いた。知っている分厚さ。
こわさが、どこかに行った。
あのひとだ。やっぱり、来てくれた。
「俺がそういうの嫌いだってこと、知ってんだろ?」
屈強な黒い肌。
ご存知、“
ダンクルベールやオーベリソンとまではいかないが、かなりの長身である。ふたりとも、見下されていた。
また、近くに人がいた。
デッサンだ。隣りにいてくれた。
語りかけてくるような、穏やかな目だった。
殴りかかってきた片方の拳を、ゴフはそのまま頬で受け止めた。一切動じず、睨みつける。怯んだ相手を、そのまま胸ぐらを掴んで、壁に叩きつけた。
そこに、もうひとりが殴りかかってきたところを、デッサンが割って入った。何もせず、睨みつけるわけでもなく。そうするだけで、すごすごと引き下がっていった。
それをみとめたゴフが、もう片方から手を放す。
そうしてふたり、逃げていった。
「国家憲兵総局の新任少尉だな。めし泥棒ついでに遊びに来やがったってとこかな。後で文句、言ってくる」
アンリが、殴られた頬を診ようとしたが、ゴフは笑って、それを制した。
「ラクロワ。姿勢、正して。指導をしようか」
デッサンだった。
姿勢を正す。目をつむると、額を軽くだけ小突かれた。
瞼を開ける。にこやかな笑み。
これも、いつも通りだった。
「泣くのを我慢したのは、えらい。アンリに並んだのも、すごくえらい。そしたら次は、いやなことはいやだって、言うようにしようか。自分から、それを言えるようにしよう」
目は、穏やかだった。それで、ほんとうに安心できた。
「ゴフ。ラクロワ、叩いちゃった。指導を頼むよ」
「おうよ。指導だ」
肩に、がつんと拳が入った。それでふたり、笑っていた。
「すまねえな。遅くなっちまったよ」
「ありがとうございます。ゴフ大尉殿、フェリエ大尉殿」
ティナが、綺麗な所作で一礼した。
困ったときといえば、このふたり。
ゴフは、どこからともなく駆けつけてくれる。デッサンは、いつもどこかにいてくれる。
見た目はとっつきにくいけど、中身はほんとうに爽やかで、気持ちのいいふたり。女の子たちは皆、このふたりを頼りにしていた。
ふとゴフが、ティナの顔を
「あのこれ、ナンパってわけじゃあないんですがや。どっかで会ったこと、ありませんでしたっけ?これがね。ずうっと気になってたんですよ」
その妙な質問に、ティナはにっこりと笑った。
「そうだね。君が新任少尉のときに、会っている」
「そうなんすか?俺、どうも頭が悪いもんですから」
「その頃の私は、
ティナがそういって、ゆるく編んだシニヨンを解いた。
広がった長い髪。燃え盛るように。不思議とそれは
はっきりとした、鮮やかな
「お化けだっ」
それを見たゴフが、飛び上がった。隣にいたデッサンにしがみつく。
それが面白かったのか、ティナは高笑いしはじめた。
その笑い方は、今までのティナとはかけ離れた、魔性のものだった。
眼も、そして表情すらも。
「久しぶりじゃないか、ゴフ坊。ちゃんとした大人になったみたいで嬉しいよ。女の子、守ってあげてるんだねえ。えらいじゃないか」
「何だよ。お化けも就職難か?おい、デッサン。助けてくれ。お化けだよ。前に言った、お化け屋敷にいたやつだ」
ゴフは度胸満点だが、怪談話とかそういうのが、大の苦手だった。それがここまで怯えているのは、ティナとは、どんな存在なのだろう。
一方で、デッサンは落ち着き払っていた。いっそ、一歩ほど距離を縮めるぐらいだった。
「やっぱり。あの夫人だったんですね。デッサンことフェリエです。はじめましてになりますね」
「はじめまして、デッサン君。君とは是非、会いたかった。君の絵の大ファンだったのでね。それとゴフ坊。いつまで騒いでるんだ。女の子の前でみっともないぞ?」
面白がりながら、ティナがゴフにちょっかいをかけている。その度に、ゴフの大きな体が、跳ね上がったり、縮こまったりしていた。
今、デッサンはこの人を、夫人と呼んだ。
「あらためて、自己紹介が遅れてしまったね。ラクロワ君」
すいと、ティナがこちらを向いた。
いつもの穏やかなそれではない。燃え広がる
ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。
夫人。もしかして、このひと。
「それこそは、ファーティナ・リュリ。そしてかつては、パトリシア・ドゥ・ボドリエール」
ボドリエール夫人。ガンズビュールの
震えはじめた体に、アンリが手を添えてくれた。それをみとめてか、
「そう。シェラドゥルーガは、生きている」
ティナさんの、静かで、穏やかな声。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます