11−2

 食堂で、珍しい組み合わせがあったので、ガブリエリとふたりで混ざってみた。ゴフ、デッサン、ラクロワにアンリ。そして新顔のリュリ中尉だ。


「おい、鞄持ち。お化けのこと、黙ってやがったな?」

 ひと足早くひと通りを片付け終わったゴフが、恨めしそうな顔で言い寄ってきた。

「ゴフ隊長と面識あることなんて、知りませんでしたよ。知ってたとして、お化け扱いだなんて。隊長、何したんですか?」

「実在するからお化けじゃないだろう。それに、こんな綺麗な奥さまをお化け扱いするなんて、ゴフらしくもない」

 デッサンがけらけら笑っていた。女遊びが好きなゴフが、別嬪さんを目の前に怯え散らかしているのだから、面白くって仕方ないのだろう。

「これが新任少尉のときの教育指導をやっていたんだよ。ウトマン君と殴り合いするぐらいには、乱暴者だったから」

「まあ、はい。その件については、反省しています」

「素直でよろしい、ゴフ坊」

 その呼び方に、ガブリエリとふたり、思わず笑ってしまった。あの剽悍ひょうかんなゴフが、坊や扱いである。


 冷静沈着、温厚篤実なウトマンではあるが、実は結構、気性の荒い逸話が残っている。

 もともとダンクルベールと同じぐらいか、もっと貧しい出自で、本人曰く、ほぼ貧民窟みたいな場所で暮らしていたそうだ。

 そのためか、かなり喧嘩慣れしており、奉公先からの伝手で入った士官学校でも、出自を馬鹿にしていじめてきたヴィルピンを馬乗りになって殴り倒したという話もあるぐらいだ。

 ましてガンズビュールに配属された新任少尉時代には、あの事件も担当しており、その後はダンクルベールの懐刀として、悪党という悪党とも渡り合ってもいた。あのおっかないジスカールの親分からも、ウトマンちゃんなんて呼ばれて気に入られているのだから、相当な武闘派なのである。


「ラクロワも、話は聞いたんだ」

「うん。でも、大丈夫。こわくないし、すごく優しい」

 ティナの隣にいたラクロワは、随分と懐いている様子だった。


 ファーティナ・リュリ中尉。通称、ティナさん。つまりはあのボドリエール夫人こと、パトリシア・ドゥ・ボドリエールであり、あのシェラドゥルーガである。


 先の第三監獄襲撃のため、内務尚書しょうしょ(大臣)ラフォルジュ閣下じきじきの提案により、夫人を内務省、ひいては司法警察局か警察隊本部の目の届くところに置いておこう、となった。どうやら、一部政治家や軍上層部が、その存在に価値を見出しているらしく、しかし国家と国民第一の内務省としては、夫人という人的資産を余所に渡すつもりはなく、木を隠すなら森の中といって、正規軍人採用としたのだ。

 なかなか滅茶苦茶な案ではあるが、内務省総出で、夫人ことティナさんを保護、管理する姿勢を見せるかたちである。


 配属当初、どえらい美人が来たと大騒ぎになった。

 しかも愛称に指輪までもがくっついて来たので、事情を知らない女性隊員からすれば、もしかしてダンクルベールの恋人か、あるいは後妻かと勘ぐっているものすらいる。

 ただしティナのそれは、いわゆる魔除けらしく、ようやくので意気揚々と外に出たら、行く先々でナンパされ、それに辟易したのだそうだ。このあたり、ある程度は姿かたちを替えたとはいえ、流石は巷を沸かせたボドリエール夫人である。


 腹の膨れた女房を抱えた同期ふたり、ティナさんって、えっちだよな。そういう、ちょっとした盛り上がりがあったりした。

 いかにも女性将校といったリュリ中尉とは異なり、化粧から髪型まで細かく変えている。亜麻色のふわっとしたシニヨン。いわゆる萌え袖まで備えた、だぼつかせた厚手のカーディガン。そしてあの、伊達眼鏡。そんなふんわりした雰囲気とは裏腹に、両耳にはピアスがばっちばちに付いてるものだから、下心しか動くものがない。

 今となっては見慣れてしまった、あかと黒の魔性の女から一転、ゆるふわ系の若奥さまに変貌したのだから、年若い男心を持つ身にもなってほしいものだ。


「今度、ティナさんのおうち、遊びに行くんだ」

「料理を教えて欲しいって、お願いされたんだよ。ペルグラン君たちは、もう聞いてるんだろ?」

 その言葉に、ガブリエリと目を合わせた後、同期三人、とびきりの笑顔を見せあった。


 ラクロワ、婚約決定。家どうしの紹介らしい。

 ペルグランは真っ先に、その報告を受けていた。


 私、ペルグランくんのこと、好きだったんだ。ペルグランくんが結婚した後も、インパチエンスさんのことも一緒に、好きだった。だから、私が結婚した後も、これからも。ペルグランくんのこと、好きでいても、いい?

 笑顔で、でも潤んだ瞳で、そんなことを言われた。


 同期の、気が弱くて、素朴な女の子。困った人を助けたいという、その思いだけで、後方支援の花嫁となったひと。そしてかつて、自分に淡いものを抱いていたというひと。

 断る理由なんて、どこにもなかった。


「まじかよ。そりゃあめでたいな」

 ゴフとデッサンにも、この場で報告となった。ゴフもとびきりの笑顔だった。

「ヴィオレット・ラクロワ・ルブルトンになります。これからも、よろしくお願いします」

「おめでとう、ラクロワ。そして、ルブルトン夫人。でもやっぱり、僕たちにとってはラクロワかな?」

「ラクロワがいいよなあ。私も実は、おじさんにいい人を探してもらってたんだけど、いらなくなっちまった」

「閣下に仲人になって貰えばいいじゃんか。天下御免の箔が付く。それで貴様もようやく格好も付けられようさ」

「おや、同期の男ふたり。私の可愛いアンリだけでなく、ラクロワ君までも取り合いしてたのかい?」

 ティナの言葉に、ゴフとデッサンの目が突き刺しに来た。事情を知っているアンリは、面白そうに笑っている。


 男ふたり、見合わせる。どうってないことなので、まずは自分から、答えてみた。


「そんなところです。ラクロワって、どうしても男連中からちょっかいかけられやすかったもんですからね。俺とガブリエリで面倒を見ようって。ただ、こいつがこの顔面なもんですから、今度は女性職員からやっかまれちゃって。格好をつける場所がなくなっちまったんです」

「そういうこと。だから、もし相手がいないようならってことで、マレンツィオおじさんに何人か見繕ってもらってたんだよ。まあ、結果よければ、それでよしだよね」

 とある御仁の名前に、ラクロワの顔に、いささかの怯えが見えた。

「マレンツィオって。あの国民議会議長、ブロスキ男爵さまのこと?」

「中尉さま、大丈夫ですよ。男爵さまは、とっても気さくで面白いお方。私もお会いしたことがあるけれど、すぐに仲よくなりました」

「そこら辺を歩いてるから、そんなありがたがるもんじゃないよ。もし仲人さんが見つからなかったら言っておくれ。おじさん、喜んでやってくれるはずだから」

「やっぱりお前らふたりは、人脈がすげえよなあ。ガブリエリよう。俺にも紹介してくれねえか?」

「頼んでおきますよ。おじさんの扱い方のこつは、おばさんを褒めること。そうすれば、すぐに打ち解けられます」

「そうだな。俺にものを頼むなんざ、いいご身分だな、って絶対言ってくる。そうしたら、奥さまにご一献いたしますって言えば、大丈夫。それだけできっと、お相手探しから結婚式の勘定まで持ってくれますよ」

「変わらんなあ、あのデブ。私も、何度も口説かれたもんだ。シャルロット姉さまを隣に置きながらね。そうやって姉さまに叱られたがってさ。本場の伊達男エスト・ヴァーナってのは、どうしてまあ」

「ティナさん。私だって本場の伊達男エスト・ヴァーナですよ」

 ガブリエリの言葉に、皆で笑ってしまった。


 ティナが来て、まだ二週間も経たないが、すっかり打ち解けていた。あるいはアンリやビアトリクスなどのように、その正体を知っているものもいるし、とびっきりの容貌とは裏腹な、その気さくで飄々とした人となりや、事務員としての有能さから、すぐに各位の信頼を獲得していた。

 本来は別棟の資料室で、著作活動だけをやらせるつもりだったが、仕事に追われるウトマンが可哀想になったらしく、やれるものから順に肩代わりをしていったのだ。

 作家、翻訳家、そしてそれら著作の権利関係や収支の管理も行っていたこともあり、会計方面、各種文書の作成など、ばりばりこなす。特に、ボドリエール夫人といえばの、速筆、達筆、文章力は素晴らしく、書類が上位組織に上がっていく度に、警察隊本部にとんでもない事務さんがいると話題になるほどだった。これには提案を出したラフォルジュも、してやったりのご様子である。


 内務省としては、警察隊本部所属となったことによって、ティナの管理は幾分か楽になったそうだ。

 もともと、司法警察局と刑務局で分割管理していたのが、司法警察局に一本化となった。著作についても、基本的にはティナと出版社との直接のやり取りになった。正規軍人としての雇用となるので、税金管理はティナの方で確定申告するなりして管理すべきものとなるので、国家憲兵隊としての負担としては、給金と各種福利厚生ぐらいである。印税からのピンハネができなくなったため収入は減ってしまうが、ティナからすれば間に挟まるものが少なくなって、楽になっているに違いない。

 刑務局側も、何かと出たがりで、はた迷惑な囚人ひとりいなくなって、ほっとしているだろう。あの事件のせいで、第三監獄自体が使い物にならなくなったのと、責任問題で、組織自体が結構な変革を強いられているのは、さておきだが。


 その刑務局の変革についてであるが、局長ボンフィス大佐は降格、更迭となったが、司法警察局に招聘しょうへいされた。刑務官という、治安維持の極地のような職責にふさわしい、外連味のない実直な姿勢が、セルヴァンとしても欲しかったようだ。

 中佐相当官。参謀、あるいは相談役である。来月あたりの人事異動で嫁いでいくウトマンやラクロワの、いい指南役にもなりうる。


 第三監獄主任副長デュシュマン少佐は辞表を提出したようだが、引き留められたらしい。緊急事態での対応が大きく評価されたようだ。

 守りの指揮官として引く手数多らしいが、現場に居たペルグランやオーベリソン、そしてティナの三人で、是非にでもと、ダンクルベールに推しに推している。正規軍人の足りていない、後方支援室や衛生救護班あたりの、いい親分格になるだろう。


 ティナの身の回りについては、公安局こと公共安全維持局の局長、ミッテラン少将が気を回してくれた。

 当初はあしを使っての監視を考えていたが、どこまでいってもダンクルベールの私兵であり、特にその維持費については、ダンクルベールの懐からだったり、あるいはあし各位の内職で賄っているという、涙ぐましい状態である。後から加わったジスカールの親分が、もそっと渡してやらんかいと苦言を呈したほどの薄給であり、現在の状態では、とてもティナの身辺監視、あるいは保護が十分に行えるとは言えなかった。

 またその人員構成についても、もと盗賊だったり、あるいはジスカールのような大悪党だったりするので、内務省としてもいい気分ではなかったのだろう。ガブリエリのいもうとになったとて、そこは同じである。

 そこであらためて、内務省の人的資源としてのティナを管理するにあたり、公安局の人員を当てることとなった。あしの各位やスーリにはいくらか劣るが、精鋭の諜報部員である。資料室の部下ふたりがまさしくそれだが、現状では何の差し障りもない。

 また、先だっていもうとと行われていたように、公安局とあしとの連携もはじまり、特にというか、やはりジスカールからもたらされる裏社会の情報に関しては、公安局にとっては千金の価値があるようだ。


 このあたり含め、ダンクルベール、ミッテラン、そしてジスカールの三者協議での決定事項である。

 ミッテランの執拗な詰問にも一切動じず、迎え討ったうえで、各種提案までやってのけたジスカールの侠気おとこぎたるや凄まじかったらしく、曲者で知られたミッテランが、ありゃあすごいおとこだねと絶賛したそうだ。反対にダンクルベールは、そのジスカールたちと後ろ暗いことばかりやってきた手前、身の細る思いだったらしい。

 はじめて出会った時は、間抜けなこそ泥だとばかり思っていたが、ジスカールという御仁、類稀以上の傑物である。法の庇護を受けられないものたちの味方であり、また法を振りかざすものたちへの敵となる。

 弱きを守るは悪入道あくにゅうどう。彼もまた、炎の冠を戴いたひとりなのかもしれない。


 ちなみに、自分の実家回りについては、すごいことになっている。色々ありすぎて整理がつかないが、ともかく母子おやこ三人、平和に暮らす目処が着いたので、めでたしめでたしである。


 庶務課資料室。ヴィルピンの次長就任までは本部長副官を継続しているペルグランとしては、よく足を運ぶ場所のひとつである。デッサンもお誘いがあったということで、昼食の後、一緒に立ち寄った。

 ティナの作業場は、夫人の牢獄のそれに準じている。いくつもの書見台が並んだ、いくらか広めの事務机。その後ろか横か、とにかく壁には黒板がひとつ。あとは暦表だとか、各種新聞や雑誌のスクラップが所狭しと並べられたコルク板が立てかけられている。


「右を向いた顔が、どうしても描けなくってさあ」

 そんなことを言いながら、素描を一枚、差し出してきた。

 人物画だ。隣に第一人者がいるのもあるが、いささつたなくは思えるものの、十分以上に上手い。

「ああ、なるほど。でも大丈夫。そこは誰でもつまづくところですよ」

 デッサンが実際に人の顔をふたつ、描いてみた。そうしながら、説明していく。


 利き手によるが、方向によって、描きやすい線と描きにくい線がある。左向きの顔は描きやすい方向の線で描いていける部分が多いが、右向きの顔はその逆だから描きにくい。

 基本的には、経験を重ねるのが一番いいのだが、薄い紙で左向きの顔を描いてから、ひっくり返して、それをなぞったりする。あとは、当たりをしっかりとつけて描いていく。そういった、色々な提案をしていった。

 絵心がないペルグランでも思わず感心するほど、丁寧で、納得できる内容だった。


「ありがとう。いい勉強になったよ。ラクロワ君のときもそうだったが、教え上手なんだね」

「滅相もないことです。僕はほんとうに、絵を描くことしかできなくって」

「君は絵を描く事、たったそれひとつだけで、色んなことができるようになっているんだよ。今日だけで、人を助けること。人を導くこと。人を笑わせること。人に理解を示すこと。もう四つも、君の魅力を見つけてしまった」

「やめてくださいよ。つけあがっちゃいそうだ」

 デッサンの顔が、ふにゃふにゃになっていた。この人、未だに褒められ慣れていないのだ。


「ペルグラン君は逆に、ほんとうに器用だな。副官やってるのが勿体ない。“錠前屋じょうまえや”に入ればいいのに」

「流石にあの中には無理ですよ。でも何か、水難救助隊ってのを、立ち上げるみたいです。船とか泳ぐのは、家の習いでしたから」

「そうか。あのペルグラン家だもんなあ。海の男だ。かっこいいや」

 デッサンが、ふにゃふにゃの顔のまま、褒めてくれた。

 確かに、体を動かすほうが好きだった。船もそうだし、馬もそうだった。特に馬は大好きで、乗るのも、見るのも好きだった。仲のいいスーリとは、よく競馬場に行っては、荒稼ぎしていた。

裸馬はだかうまに乗れるんだろう?それにこないだは短弓も使っていた。大平原の、すたれたはずの技術だよ」

「家の馬術指南が大平原の人だったんです。赤羽あかはねのなんとかさん。ガブリエリに調べてもらったんですが、あの海嘯王かいしょうおうの側近の血でしたよ。もう、びっくりしちゃいました」

海嘯王かいしょうおう?こいつはまた古いな。それなら相当な名族だろうよ」

 これにはティナも目を剥いていた。


 東の大王こと海嘯王かいしょうおう。大平原の伝説的英雄だ。

 西の大王、ミヒャエル・マイザリウスの大東征を事もなげにあしらった後、逆にヴァルハリア首都目前まで一気呵成に攻め返しては、無理くり講和を結ばせたという、まさしく海嘯かいしょうの如き暴勇からそう呼ばれ、現在に至るまで恐怖の象徴として恐れられている。

 興味深いことに、ヴァーヌ聖教会の歴史改竄を受けていないのにも関わらず名が伝わっておらず、現地では今も、ただ大王ハンとのみ呼ばれていると聞いていた。

 果たしてほんとうに実在したのだろうか。ちょっとしたロマンがある。


「僕も軍の家系だけど、馬はほんとうに苦手だ。後で教えてくれないかなあ?」

「勿論ですよ。馬を乗りこなしたら、行動範囲が広がりますからね。絵を描きに、どっか遠くに行っちゃいそうだ」

 そう言うと、なるほど、という顔で、デッサンの眼鏡がきらめいた。それを見て、ティナとふたりで、笑ってしまった。ほんとうに、絵を描くのが好きなんだなあ。


「盛り上がっているところ、すまんな。ルイソンとティナに用事だ」

 聞き慣れた声。ダンクルベールだった。

「いい知らせが、ふたつだ」

 褐色の肌と白い髭。笑顔だった。


「ドラフト会議に勝った。デュシュマンとやら、獲得したぞ。本人希望で、一段降格の大尉相当官だ」

 その言葉に、思わず飛び上がりそうになった。

「気てくれるんですね。デュシュマン主任副長殿」


 第三監獄襲撃事件。ボドリエール夫人に政治的利用価値を見出した、宰相閣下と軍総帥部の、暗闇の政争。

 そこに巻き込まれてしまった、刑務官たちのひとり。デュシュマン主任副長。暗闇の中の、恐慌と疑心暗鬼の中、ペルグランたちを信用してくれた人。そして、ペルグランたちに信頼を与えてくれた人。

 何がそうさせたのかはわからない。でも絶対に頼りになる人だし、頼ってほしい人。だからあの場にいた全員で、是非に是非にと、頼み込んでいたのだ。


「来て下さるんだね。あの方は、あの状況で、私を信じてくれた人なんだ。ほんとうにかっこいい人だ。きっと皆、信頼できると思うよ」

「夫人、いや、ティナさんが、そこまで手放しで褒めるんですね」

「叱り上手なんだよね。何度も挫けそうになったけど、何度でも立ち直らせてくれた。私にとっては、人生の恩人と言ってもいいぐらいの人だよ」

 惚れ惚れ、といった表情で、ティナが喜んでいた。


 あの場所で、ボドリエール夫人は自身を利用され、犯した因果に苛まれていた。

 デュシュマンはそれを看破し、ボドリエール夫人をリュリ中尉として支え続け、叱り飛ばし、シェラドゥルーガのことを身を挺して守ろうとさえしてみせた。

 何が彼にそうさせたのかはわからない。ただそれが、デュシュマンというひとの強さであり、魅力だった。


「さて肝心の、ふたつ目だ」

 その時、ダンクルベールの顔から、すべての皺が抜けた気がした。

「スーリの退院日が決まったよ。再来月の頭だ」

 言われた途端、何かが、溢れていた。

「よかった」

 とめどなかった。


 あの闇の中、誰よりも活躍し、そして生命いのちの危機に瀕した、一匹の鼠。先頭に立ち、気を配りながら、皆を導き続けた、あかい肌の暗殺者。

 狂気と錯乱に支配された刑務官からティナを庇って、相当量の血を失ってしまった。意識を取り戻したのは早かったそうだが、心身の疲労も相当以上あったのだろう、起き上がったり立ち上がったりするのは、まだ大変なようだ。現在も面会謝絶である。


 ティナを見た。やはり、ぼろぼろと泣いていた。

「スーリ君、帰ってくるんだね」

「気を揉ませたな。今、リハビリ中だ。それが終わるまで、もうちょっとの辛抱だ」

「帰ってきたら、うんと褒めてやるんだ。あのこはね、私を守ってくれたんだ」

 ティナが言えたのは、そこまでだった。


 声を上げて、泣いていた。ずっと、スーリ。私のスーリ。


 ずっと、悔やんでいた。表面には出していなかったが、たまにそれが見えた。人をたぶらかし、おとしめ、脅かす人喰ひとぐらい。それを、守ってくれた、庇ってくれた嬉しさと、生命いのちを危機に晒してしまったことへの後悔が消えてくれることはなかったのだろう。


 時折、思うことがあった。この人でなしの、精神的な脆さ。

 傲慢で残忍、尊大で冷酷。それはあくまで、表面上のものにしか過ぎなかった。

 人を愛し、愛されることを求める、人ならざるもの。人がいなければ生きていけない、人でなし。どれだけの時を、悲しみやつらさと共に、生きてきたのだろうか。

 それを理解できることなんて、きっとできないだろう。


「ボドリエール夫人、そして、シェラドゥルーガ。もっと、恐ろしいひとだと思ってたよ」

 別棟から出たあたりで、デッサンが言った。

「ひとりの、人間だよね」

 いつの間にか描き上げていた、燃え盛る髪のシェラドゥルーガ。そして、穏やかな顔のティナ。

「俺もはじめてお会いした時は、こわかったです。ちょっとした“悪戯いたずら”とかも、色々されましたし。でも夫人は、そして今のティナさんは、ほんとうに、ただひとりの人間です」

「ペルグラン中尉がそういうなら、間違いないや」

 笑ってくれた。


「どう接すればいいんだろうかって、ちょっと、悩んだんだ。なんにもいらないね。ティナさんはティナさんだ。とびっきりの美人さんで、仕事ができて、剽軽なひと」

「そうですね。夫人の頃から、ティナさんは、そんなひとでした。人のことが大好きな、人でなし。いっつも笑顔で迎えてくれた、凶悪殺人犯。とんでもなく頭がいいけど、出し抜かれるとむきになって、へそ曲げて。そんな感じの、ほんとうに人間そのままの、人間です」

 思ったことを、思ったままに言っていた。デッサンも、合点がいったみたいだ。


「でもちょっとだけ、寂しいことがあるんですよ」

「何か、あるのかい?」

「夫人がティナさんになって、変ったことが、ひとつだけ」

 それはきっと、今日、夫人であることを知らされたデッサンは、知らない話。

 だからあえて、言おうと思った。


「あのひと。親父のこと、我が愛しき人って呼んでたんです」

 にやけて言った言葉に、デッサンの顔が赤くなった。


「わぁお。そういう関係だったんだ」

「そういう関係なんですよ。あのふたり」

「そんな二人称、聞いたことないや。流石はボドリエール夫人だね。あの姿かたちとあの声で、我が愛しき人って呼ばれたら、僕だってたまらなくなっちゃうよ」

「ですよね。だからほんとうに親父も、意地っ張りというかね」

「そこばっかりは、見習っちゃ駄目だね。ペルグラン中尉」

 言われて、ふたりで笑ってしまった。


 早く、くっつけばいいのにな。あのふたり。


(つづく)

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