第47話 熊野にて 骨は鳴り 桃は焔る(前編)
──熊野・社叢の縁
潮の匂いと榊の青さが喉を洗い、血の金気がそこへ薄く混ざっていた。
注連縄は千切れ、鳥居の笠木に黒い指の跡。
石段は二段、血で滑る。
公介は槍を肩で立て、崩れた結界の縁へ片足をかけた。
骨の内側まで冷える類の静けさ──襲う前の静けさではなく、襲ったあとの“掃除待ち”の静けさ。
「来るの、遅いよ」
声は風の上から落ちた。
樹の上、白木の枝に腰をかけ、片手に紅い鈴。
登貴がいた。裸足の甲に線香花火の火種みたいな赤を残し、唇は色を忘れている。
見上げず、公介は“そこではない”方向へ槍を向ける。
吐息だけで呟く。
「悪趣味やな。……宗像の身体を盗んで、よう誂えてある」
「褒めてる?」
枝の影から、さらに別の影が降りた。
藍の羽織、喉だけ白く、面を半ば掛け、宗像壮馬は木の根を踏まない歩き方をする。
血の跳ねた土を避ける癖が、長い年月で骨に沁みている。
公介は槍の石突で一度だけ地を叩いた。
垂れ下がった注連縄の紙垂がばさと揺れ、悪鬼が三つ、暗がりの奥へ散る。
「俺らの縄張りへよう戻ってきたな、壮馬。……用件、聞いたる」
「戻った覚えはない。奪いに来ただけだ」
壮馬は目を細め、公介の左肩──欠けた腕の付け根に、わざと視線を置く。
「片腕で槍を振るう礼儀は美しい。けれど間合いは縮む。そこで果てるのがあんたの役目か?」
「仕事は選ぶ。……お前のためには死なん」
槍の穂先が、音もなく横へ走った。
喉笛を狙わない。面の縁の布──感覚を鈍らせる“香”の継ぎ目だけを裂く。
藍の羽織に縫い込んだ細糸が切れ、壮馬の匂いが露出する。
軽い、冷えた鉄。そこに、桃がひとかけ、焦げた。
「ふーん」
登貴が鈴をひと振り。
社叢の奥で、死んだと思って横倒しになっていた津島の若い衆が一人、喉を鳴らして起き上がる。
起き上がりながら、目は“こちらを見ない”。鈴の向いた方角だけを見て、そちらへ歩く。
歩きながら、足の裏が皮ごと剥がれ、血が音を立てずに落ちる。
「やめろ」
公介は槍の柄尻で彼の膝を砕き、眠らせた。
骨が鳴る音を、登貴は子守歌みたいに聴く。
「あなた、志貴の妹?」
振り向いた登貴の目は、古い井戸の底の色だった。
石段の影から、咲貴が出る。
狐がついてくる。白い尾が、一本だけ、風の高さを測るように揺れた。
「志貴の妹だから、何?」
咲貴は答え、襟元に結わえた紐を指で確かめた。
喉の前に、さっきまで道反にいた香の層が薄く残っている。
それが“ここ”に似合わないことを自分で知り、紐を一段締める。
「香りはよく出来てる。でも、首の骨はまだ甘い」
登貴が枝から落ちた。
いや、“枝がなくなった”。
落下の途中で、鈴が一度だけ鳴る。空気が詰まる。
咲貴の足が、半歩だけ遅れる。
狐の尾がぱしと石を叩き、咲貴の背へ風を押した。
その一押しがなかったら、鈴は咲貴の喉を切っていた。
「っ……!」
咲貴は躱しながら、登貴の手首に手の甲を当てた。
柔らかい皮の温度。骨に近い所に、細い熱が一本走っている。
触れた指先の“線”が、一瞬だけ、こちらへ移った気がした。
(いまの、なに)
考える間を、登貴はくれない。
足さばきは軽いのに、踏んだ場所だけが濡れていく。
鈴の音が鳴るたび、咲貴の肋骨の間に冷たい指が差し込まれ、一本ずつ数えられるみたいだ。
「狐」
「言われんでも」
狐火が、咲貴の肩越しに踊った。
火は赤くない。濡れた白。音だけが、乾いた紙の裂ける音。
登貴はそれを正面から受けない。受ける前に、自分の影ごと“いなくなる”。
次に現れたのは、咲貴の左後ろ。
白い火は、咲貴の耳のすぐ横で、花のように開いて消えた。
「狐火、借りる」
咲貴が呟き、登貴の手首へ触れた指の記憶を、肩の上で“なぞる”。
触れた熱の“線”が、今度は咲貴の肩口に移った。
白い火が、一輪だけ、咲貴の掌に咲き、すぐにしぼむ。
(……できる。できるけど、すぐ消える)
狐が横目で笑う。
「甘い、けど筋がいい」
「才覚なんか、要らないはず」
登貴が、咲貴の髪束を掴んだ。
指先は冷たく、髪の根元で小さく“まつり縫い”をするみたいに絡む。
引き抜かない。ただ縫い止める。
咲貴の目の高さが半寸、固定された。
狐が唸る。尾の根元から毛が逆立ち、社叢の影がざわ、と揺れる。
揺れに乗じて、咲貴は体を落とし、髪ごと後ろへ回転。
「くそったれ!」
登貴の腕を肘で払って抜けた。
髪が十数本、根元から抜けて、樹の根に掛かった。
「痛んだ?──髪の根元は、骨より鈍いのに」
登貴は笑わない。
笑わないのに、声だけが笑っている。
「志貴はね、見ただけで焼こうとした。私は、あの子は嫌い。
あなたは──」
「あなた?」
咲貴が踏み込み、掌底で鈴を折った。
甲の骨が一つ、内側で跳ねる。
鈴の片方が地に落ち、空気が一瞬だけ“無音の金属”に変わった。
「……よけられた。つまらない」
登貴の足下で、土が小さく呼吸した。
彼女が本当に“怖い”のは、その呼吸だと、咲貴は遅れて知る。
呼吸に合わせて、周囲の生暖かい空気が“言うことを聞く”。
彼女は空気に命令する。
命令に従って、空気は咲貴の肺から“息”をひと口だけ盗む。
咲貴の視界が、ひと瞬、白く跳ねた。
「咲貴!」
狐が体当たりで登貴の膝を払った。
登貴は膝を折らない。
折らない代わりに、狐の尾の一本を、指二本で挟む。
挟んだだけ。抜かない。
それで充分、狐の背筋に冬を走らせる。
「……青いね」
登貴の言い草は、誉め言葉でも侮蔑でもない。
青いものは、焼けば甘い。そんな調子だ。
咲貴は自分の爪の色が血に濡れて黒くなっているのを見た。
掌が熱い。肩の白火はもう消えた。
“借り”は短い。短いが、借りられる。
借りるには、触れて、掴む。
掴むには、恐れを詰めないこと。
頭のどこかで、知らない声が“一拍置け”と言う。
「……置けるかっ、こんな地獄で!」
置かせてくれない敵を前に、一拍を捻出するのは、人生でいちばん難しい。
──同じ場 石段のさらに下
槍と刀が、音を立てずに当たった。
金属音が立たぬよう、互いが互いの刃に“やわらかく”触れる。
その方が、よほど怖い。
「……壮馬。一つ聞いてもええか?」
公介が間合いを一尺詰め、半身で穂を回す。
面の布を裂かれて以降、壮馬はほとんど息をしない。
肺の動きが、地面の小石ひとつも揺らさない。
「登貴が“いま”動ける程度に戻ったんは、誰の手柄や」
「彼女の祈りと、俺の工夫」
壮馬は刀の平で槍柄の節目を軽く弾いた。
弾いた瞬間だけ、槍の中を流れていた“香の道”がねじれる。
公介は片手のまま、そのねじれを肩で逃がした。
逃がすたび、左の欠けた場所が疼く。
疼くのは肉ではない。奥にある“記憶の手”が疼く。
「工夫、ね」
公介は笑わない。
笑いかけて、やめる。
「どえらい昔から、数百年単位で、身体を“選別”しに来てたんは、お前ということか。
宗像を見るだけなら構わんけど、手ぇ出したら、肋を一本ずつへし折る」
「折るだけ?」
壮馬は刀を“下げた”。
下げるというより、消した。鞘に戻さず、手からも離さず、ただ“そこにない”。
次に現れたのは、公介の右の耳後ろ──刃の冷えだけ。
公介は、槍を地に落とした。
落としながら、右の肘で刃の“いまいる場所”だけをはじく。
耳の後ろの皮が、紙一枚で“切れなかった”。
代わりに、耳の奥の古い傷が開き、音が少し遠くなる。
「片腕で、それをやるのは愚かだ」
「片腕やから、やるんや」
公介は槍を拾い上げず、柄だけを足で蹴り上げ、その勢いで穂を掴む。
動きの一つずつに、何年も前の“教え”がついてくる。
教えの主は、いま眠っている。
眠っている間は、公介が“代わり”。
代わりでいる間に死ぬとしたら、それも仕方ないと腹を括っていた。
「あんた、全く、死にに来た顔をしていないな」
壮馬の声は薄く笑っている。
だがその笑みの奥に、焦りが一条、隠し縫いのように走る。
焦りは登貴の方角へ向いている。
あの女を独りにした時間こそ、壮馬がいちばん嫌う単位だ。
「登貴を独りにする時間こそ、一番の地獄だ」
「早う終わらしたいんは、同意や」
公介は穂先を地すれすれに走らせ、壮馬の足袋の親指だけを裂こうとした。
裂けない。裂けない方が正解だ。
刃は土を切り、土が“香”を吐く。
壮馬の足が、その香を踏み、位置が半寸ずれる。
(なるほど、香で針路をずらすんか。……嫌な術や)
公介は舌打ちした。
欠けた左の場所に、汗が滲む。そこが熱い。
熱が焦げる前に、決める。
咲貴の跳ねっ返りは、後先考えることなく、単独で道反を飛び出したに違いない。
冬馬もまた、わかりやすいほどに"迷わず選択した"ことだろう。
公介は小さく息を吐いてから意を決した。
「──泰介」
独り言のように呼ぶ。
呼びながら、右の前腕に刻んだ古い痕を爪でかいた。
皮が割れ、血が一文字、浮く。
血は散らない。線になって流れない。
線が“誰かの名”の形を借り、腕から立ち上がる。
壮馬が目を細める。
「召喚? ここで?」
「ここやから、や」
公介は自分の足下に円を引いた。
公介が血で描いた円に影が立ち上がる。
次の瞬間、声だけが先に来た。
「──呼んだ?」
軽い調子の声とともに、男が影から歩み出る。
「ちょっと、無茶だと思わない?」
肩の力を抜いた、明るい声。
同じ顔。同じ骨。違う匂い。
「……宗像泰介」
壮馬の声が僅かに低くなった。
「僕に、会いたかった?」
公介が冷たい石なら、泰介は濡れた絹。
笑うと、首筋の血が踊る。
「説明なしでいきなり戦場はひどいよね。……で、お久しぶり、壮馬くん?」
泰介は自分の腕を見下ろし、皮膚に滲む血文字を撫でた。
“任せた”の二文字が、撫でられた指の下で、すっと消える。
「早く新しい身体に切り替えないと腐る──そういう縛りでもあるの? 君のほうは」
壮馬は首の角度だけ変えた。
泰介の顔の“軽さ”は、宗像の血でも稀だ。
「“俺の登貴”を壊した奴に、まだ礼をしていない」
「十年前の話だよ。長く寝ててくれて助かった」
泰介は笑いながら、背中の空へ手を伸ばした。
何も持っていない背から、何かが“来る”。
掌の中に長い柄の影が形を取り、重みが落ちる。
宗像の槍ではない。白い金具の柄と、刃のない筒。
宗像に古く伝わる“異形の器”──刃を持たず、空虚そのものを刻む武器。
筒の口には血で描いた印が八つ。
指が触れるたび、ひとつずつ“開く”。
「宗像死守、まだやってるの? ……ほんと、骨董品みたいな連中だね」
狐が泰介を胡乱げに見た。
泰介は片目だけ細くし、ニコリと笑う。
「辛くも死を逃れた身が、どう役立つのか、ここでお見せしよう」
狐の口角がわずかに上がる。
懐かしい喧嘩友だちに、面倒な再会へ付き合わされる時の目だ。
「咲貴」
泰介は呼び、咲貴の額に自分の額をそっと当てた。
額と額の間に、汗の匂いと榊の青と桃の焦げが混ざる。
「君にしかない才がある。知ってる?」
咲貴は息を飲む。
泰介の笑い方は、公介と同じで、まるで違う。
「身体能力、技量、穢れへの耐性。その全部で僕が上。
僕が公介に勝てないのは、血で“扱える札”の数だけ。
同じこと、志貴に対する君にも言える。……足りない分は、触れて掴め」
「掴む?」
「短時間なら、誰でも“写せる”。志貴さえも。
ただし代償は君の体だ。持って行かれそうになったら、離しな」
泰介は咲貴の右手を取り、自分の胸板に押し当てた。
胸の奥で、何かが“走る”。
走った線が、咲貴の掌の内側で、別の線に繋がる。
世界の輪郭が一瞬だけ鋭くなり、音の埃が払われる。
「……っ、熱」
咲貴は手を離し、肩で息をした。
肩の内側で、何かが点いたり消えたりする。
狐の尾が軽く触れ、静める。
「教えるのはそこまで。現場は戦場。……お待たせ、壮馬くん」
泰介は刃のない筒を握り直し、軽く振った。
空気が筒の口で歪む。
歪みは刃ではない。刃より“嫌”な、空虚の角。
「君が“あの化け物”の飼い主だったとか、笑えないよ。
僕、娘たちと過ごす時間を奪われた分、取り返す」
壮馬の目の奥で、何かが小さく削れた。
削れた欠片は言葉にならない。
言葉があれば強い彼も、言葉を失うと骨で動く。
「登貴」
壮馬は名前を呼んだ。
呼びながら、地の“香”の筋を三本、引き直す。
登貴は頷かない。頷かないまま、足だけを半歩、泰介のほうへ向ける。
鈴を失った手が、空の音を“撫でる”。
撫でられた音が、泰介の耳の内側で反転する。
「お父さん!」
咲貴が叫び、前へ出た。
狐が肩を押す。押しながら、低く笑う。
「足場は作ってある」
「足場?」
「一拍。……今や」
咲貴は一歩、踏み出した。
その一歩は普通の一歩だ。
だが足裏の下に“用意されていた”板が一枚、滑り込む。
狐がさっき尾で叩いた場所。
そこに、白い“閂”の気配が薄く残っている。
咲貴は右掌を前に出し、見たことのない白の式を“なぞった”。
ほんの瞬きの長さ。
指先で“白”を掴んだ瞬間、咲貴の肺にあった息が逆に吸われた。
白は冷たいはずなのに、骨の髄を焼くような熱で内側を走る。
視界の輪郭が一瞬だけ異様に澄んで、登貴の動きが算盤の珠のように止まって見える。
──見える。
才覚を借りるとは、こういうことか。
どこを焼けば、どう崩れるかがわかる。
迷いなく“赦す”ように裁ける視線。
それは、志貴が持つ眼差しそのものだった。
(……志貴の……)
咲貴の胸に、恐怖と誇りが同時に噛み合う。
この視線を持ってしまえば、もう志貴の孤独がどんなものか、わかってしまう。
けれど同時に、自分もそこへ立てるかもしれない──そんな錯覚が、肋骨を内側から軋ませた。
「へぇ、うまいもんだ」
泰介の口元が、ゆっくり上がる。
公介の気配は、もうここにない。
彼は“保存”へ退き、泰介が“現場”になった。
「やっぱり面白い」
壮馬の刀が、音を置き去りにして来た。
筒の口で受けると、刃は刃でなくなる。
鉄の硬さも、切断の理も、そこから抜け落ちる。
泰介の武器は“空虚”──物質を斬るのではなく、理そのものを斬り外してしまう。
槍であれ刀であれ、そこに込められた秩序を無効化する。
だから“斬った”瞬間に、相手の技がただの鉄片へ落ちる。
「壮馬くん、君のはほどけやすい。糸目が粗いんだ。縫い直す前に──」
泰介と咲貴の耳に、重い足音が近づいた。
社叢の外、石段の下の下。
死神の鎌の音に、熊野全体が一度だけ息を止めた。
夜烏が低く鳴き、白蛇が葉の裏で震える。
──そして、社叢の奥。
枝に抱かれて眠っていた桃の実がひとつ、裂けた。
甘い匂いが夜に溢れ、骨を焼く匂いと混ざりあう。
それは古い記憶の再演──黄泉比良坂で伊邪那美命を退けた桃の、赦しと焔の匂い。
「──報す。道反、夏座と穂積冬馬、交戦に入る」
声と同時に、熊野の空が冷えた。
風が海の塩を置き去りにし、山の影だけが濃くなる。
泰介は目だけ動かし、笑みを消した。
「……急ぐよ。あの子、志貴のためなら何でもやる」
壮馬の喉の奥が、ほんの少しだけ鳴った。
それは笑いではない。焦りでもない。
ただ、“予定が動いた”という音だ。
登貴が一足、深く入る。
咲貴は“白”の閂の手触りを忘れないうちに、もう一度触れて掴む。
指先の線が、別の線へ繋がりかけて──途切れた。なお、欠けているものがある。
「なぜ、いつも……あと一歩が届かない」
肺が焼け、膝が一瞬だけ揺れた。
その瞬間、枝の上で眠っていた桃の香が、風の皺で、またひとつ、破れた。
誰かの胸骨を焼く匂いに似て、熊野の夜を一瞬で変えた。
「今は、ただ……信じるしかない」
──宗像の夜、夏と冬、白刃を交ふる。
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