第48話 熊野にて 骨は鳴り 桃は焔る(後編)
──社叢の風がひとつ裏返る。
石段は二段分に血がすべり落ち、鳥居はその先で影を落としていた。
さらに奥には社叢の闇が息を潜め、梢の枝が高みに揺れている。
互いの距離は数歩。
だが、刃の間合いは、瞬きのあいだに零へ。
「冬馬はどうした?」
壮馬が、咲貴の額すれすれをかすめて踏み込む。
一閃。
抜いたのは刀身の“気配”だけ。
声は低く抑えられていたが、その芯には金属を裂くような苛烈な風が潜んでいた。
登貴を独りにした──その罪を、壮馬自身が許せない。
ゆえに、咲貴を挑発し続ける。
「やはり志貴優位は、やめられないか。……朔は、本物の側から離れられない」
その言葉が、ほどけかけた糸をきつく縒り直した。
咲貴の胸の奥で、結び目が疼いた。
──数刻前、道反。
熊野急襲の続報を聞き、咲貴は即座に向かうと決めた。
狐は、王の意志であるならばと否定しなかった。
「熊野へ行くなら、俺はお前の朔を降りる」
一拍遅れて、冬馬が言った。
その声色には迷いも気遣いもない。
冷たさすら、凛とした一刀のように。
「他を失っても、志貴死守の優先順位は変えられへん。何を護るかと問われたら、俺は“志貴”やと答えるしかない」
冬馬は目を伏せ、一つ息を吐く。
「お前は“志貴を護るための王”やったはず。道反を出て、熊野を救うと言うなら、役割の放棄と同じに見える。少なくとも、俺にはそう映る」
「だから、“朔として護る価値”がないって?」
咲貴は額に手を当て、静かに笑った。
宗像はどうしてこうも思想が極端なのか、と嘯きながらも、即座に言い返す。
「志貴なら、熊野を見捨てたりはしない。自分だけが護られたと知って、傷つくのは誰?……志貴よ」
咲貴は宗像の長羽織を脱ぎ捨てる。
その衣に染みついた香気が、一瞬だけ夜気に揺れた。
宗像が“高潔”と呼ばれる所以は、ただ理を説いたからではない。
比類なき強さを以って、誰もが護られてきたからだ。
「四天王なら当然、志貴を狙ってくる。……冬馬、本音を明かさないのは、自信がないからかい?」
後ろで狐がくすくすと笑う。
冬馬は苦虫を噛み潰したように口を閉ざした。
「四天王を相手取れば、無傷で済むはずがない。傷や穢れは契り相手にも響く。咲貴へ届けば、志貴へも波及する。……だから外す。そう言ってしまえば良いのに」
──ゆえに、咲貴を怒らせ、あえて朔を外させる。
背に負うなら全力を出せない。
ならば、公介のいる熊野へ行かせる。
狐はその本音を代弁し、肩をすくめた。
「緊急時に言葉足らずは、命取り」
そして二人を見比べ、パチンと指を鳴らす。
「朔がつかない宗像の王は、ごまんといる。僕が預かって護ってきた王の方が多いくらいだ。その中には、宗像泰介もいる」
狐は咲貴の髪をひと房すくい、柔らかく笑った。
「冬馬を朔にした君と、僕を相棒にした泰介。はてさて、どちらが本当に強いと思う?」
咲貴はふっと笑う。
狐に気遣われるとは、と肩を落とした。
「……もう、好きにして」
志貴優位は変わらない。
その事実を、咲貴は声にせず喉の奥で確かめた。
「始まりも、終わりも……血が通わない」
志貴と一心を思う。
契りの在り方があまりにも違う。
仮の契約、一季の王──公介の言葉の意味が、骨に沁みるほど理解できてしまう。
「わたしも……同じか」
繋がりを断つことに、躊躇すらない。
これがなくては駄目だと心が叫ぶこともない。
互いが“一番”で始まったものではないからだ。
朔の契を外す所作は、あまりに短い。
首の緒を一息で解き、掌を合わせ、結び目の形を指で折る。
あっけないほどに容易い。
咲貴は天を仰ぎ、冷たい夜の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
「冬馬、ずっと言いたかったことがある」
今度は、まっすぐ冬馬の目を見据える。
「わたしの名前は、津島咲貴。これが、アイデンティティなの」
冬馬の眉がぴくりと動いた。
「志貴には一心がついてる。あの人が無策なわけがない。もし真に志貴が危険なら、公介さんも離れないし、壮馬さんも迷わず道反に攻め込んでいたはず。……言ってる意味、わかる?」
咲貴は指先を歯で噛み、滲んだ血を狐に差し出す。
「熊野が狙われたのは、“わたし”が我慢ならず飛び出すと踏んだから。『咲貴なら殺せる』と甘く見積もられたからよ。──番狂わせは、熊野でしか起こせない」
狐は血を舐め、咲貴を背から抱いた。
「あんたは道反で、志貴だけを護っておけばいい。わたしは、志貴が護りたいものを、すべて護る」
数秒の沈黙。
「もう、行くわ」
「あぁ、気ぃつけて」
それだけで互いに背を向けた。
後味は悪い。
だが、それで良いと二人とも振り返らなかった。
──そして今、熊野。
咲貴は壮馬を睨み返した。
「格下に挑むの、好きだね。……一心を見て、尻尾丸めて逃げた小物の癖に」
「今度は狐か。勝つためなら、何でもあり。──宗像は節操がない」
「いやいや、宗像だからこそ、できる伝統芸なんだけど、ご存知ない?」
背後から泰介が小馬鹿にしたように笑う。
その声音は軽くとも、視線は壮馬を逃さない。
距離は遠いはずなのに、間合いの緊張が場を覆っていた。
「咲貴」
白い尾が石を叩いた。
その一打ちで、空気の層が震え、狐の躯はふくらむ。
骨がひと鳴りして軋み、白銀の毛並みが夜気に火を散らすように逆立った。
梢に届くほどの巨体。
黄の瞳に映るのはただ一人──咲貴。
「望という名がある」
「そうだったね、望──」
名を呼んだ刹那、登貴が“空気”を掴んだ。
「何っ……」
背骨の中の滑車が外れたように、呼気の仕組みが一瞬で止まった。
横隔膜が痙攣し、胸骨の奥で乾いた鈴がひとつ鳴る。
肺が縮み、肋骨がきしむ。
焦げの匂いが舌根を痺れさせ、視界が白い粒子に揺れた。
「咲貴っ」
望の前足が石段の一段目を半寸ずらし、咲貴の前に巨大な肩を落とす。
鈴は望の肩毛を、刃こぼれ一つ分だけ裂いて止まった。
「邪魔だよ、望」
登貴が唇の形だけで告げる。
望は答えない。
「僕は、君に名を呼ぶ資格を与えた覚えはない」
尾で土を払うと、地の“香”の筋が一列めくれ、登貴の進路が半寸ずれる。
「行く」
咲貴はその“ずれ”を掌でなぞった。
触れるだけでわかる。
結び目の位置、ほどける縫い目。
(……三拍)
咲貴の“写し”は接触から三拍だけ持続する。
四拍目で器がきしみ、五拍目に至れば落命域。
指の内側で、志貴の焔が一瞬だけ点灯する。鼓動と同期する三拍──一、二、三。
四拍目には魂の縁がひゅっと跳ね、血管の奥に針を刺されたような痛みが走った。
「もう一歩……ッ」
咲貴の息が引きつる。
頬の薄皮が剥がれ、滲む汗に血が混じった。
「大丈夫。様になってきてる」
背後から泰介の声。
刃のない筒が風の理を削ぎ、壮馬の刀の“存在”をひとつずつ殺していく。
「壮馬くん、君の刀は甘いままだね」
ささやきが鋭い。
壮馬の顔には、笑いでも焦りでもない、ひび割れた仮面の表情だけ。
「当代の王とやり合って、失敗が続く。──その器じゃ、せいぜい二年だ」
泰介の声は皮肉でも冷笑でもなく、ただ事実を述べる響き。
その無情さに壮馬の眼がわずかに揺れる。
「気の毒に」
登貴にブレーンがいたのは驚きだったと、泰介は軽く笑いながら進む。
「咲貴には、またもや、僕がいる。……また失敗するんじゃない?」
その瞬間、泰介が土を軽く蹴る。
火の筋が地を走り、焔の蛇のように迸った。
「登貴!」
呼びかけと同時に、壮馬は地の“香”を三つ書き換える。
だが、登貴は止まらず、一足深く踏み込む。
「咲貴!」
望の肩がさらに前に出て、咲貴の半身を覆う。
毛並みは冬の湖面のように清冽で冷たい。
「志貴さえ護れたら、咲貴が死んでも構わない──それが宗像だろ?」
壮馬は刺すように言い放つ。
その冷酷な理屈に、咲貴は舌で唇の血を拭い、短く返した。
「わたしすら殺せてないのに、何様?」
その横顔を、望が冷たい目で横切る。
宗像を語るな──その眼差しが言葉に勝る力で突き刺さった。
咲貴の異能は、宗像の中でも異端だ。
触れた者の異能を一時的に写し取る。
指先で掴み、体内を巡らせ、微細に調律する。
格上の異能を写せても、通常はその器が崩れる。
だがら咲貴は、意志ひとつで暴走する力を抑え込んでしまう。
望は確信していた──この娘は、宗像の誰よりも優れている、と。
「ただの補完要因だったくせに……」
登貴の声に、焦りが混じる。
それが何よりの証だった。
咲貴はすでに一方的に押し込まれる存在ではない。
間合いを、じわじわと互角に保ち始めていた。
割られた鈴の代わりに、登貴は足元を睨む。
土が呼吸をはじめ、波打つように膨らむ。
「もう、馴れた」
咲貴はその手首を掴む。
先の動きを読み切って。
流れ込む登貴の術の形式。
その途端、紅の血がはじけるように疼き、志貴の香が迸った。
「志貴……?」
刹那、紅の千年王の炎が眼底に灯る。
志貴の意識が、すべるように咲貴へ近づいてきた。
まるで双子を救うために、眠りから伸びてきた手のように。
咲貴の指先に、光の刃が集まり始める。
《志貴を穢す気か、阿呆》
一心の声が、頭蓋に雷鳴のように落ちた。
熊野に届くはずのない声が、確かな“禁止”として焼きつく。
《八雷、任せたで》
声がすっと遠のく。
その代わりに応じたのは──咲貴に会いに来た八雷だった。
あの夜、八雷は結び目を一つ噛んでいた。
人の形を取らず、火球のように燃えながら掌へ現れる。
言葉もなく、そのまま咲貴の胸に飛び込んだ。
稲妻が蔦のように皮膚を這い、結び目を留めてゆく。
焼き切れかけた器を、楔のように支える。
傷口はみるみる塞がり、四肢と首筋に紅の痣が走った。
まるで稲妻の蔦が絡みついたように。
望が低く唸り、喉を鳴らす。
「境界を越えるな。君の身体が弾け飛ぶ」
咲貴は胸元を握りしめ、荒い呼吸のまま堪える。
数千本の針が一点に沈むような痛み。
だが、歯を食いしばって耐えた。
「八雷がいなかったら、どうなっていたことか!」
望が声を荒げたのは、珍しいことだった。
咲貴はその毛並みに包まれながら、苦笑を零す。
「悪くないね」
戦況は、膠着していた。
だが、泰介は口角を上げていた。
壮馬は想定外の消耗に、わずかに焦燥の影をにじませていた。
「ねえ、壮馬くん。どうして宗像槍の終の型を習得できないのか、僕はずっと不思議だった」
泰介の声音は淡々としていた。
だが言葉のひとつひとつが、壮馬の皮膚を鋭利に裂く。
「宗像登貴──記録上は五百から六百年前の嫡出。その王格を支えた朔。寿命に縛られぬ“黄泉の鬼”は、出自を隠すには格好の隠れ蓑……ねえ、本当に“こちら側の血”を持っている?」
問いかけに応じたのは壮馬ではなく、登貴だった。
泰介を止めるかのように、焔の尾を引いて飛ぶ。
「それが回答ね」
泰介は微笑みながら、すべてを受け流した。
「十年前はもっと強かった。今は受け流せる……弱っているのかな?」
蹴り飛ばされた登貴を、壮馬が抱き留める。
その腕の硬さは、庇護か執着か。
「持ち時間の差は──致命的だね」
泰介が視線を投げると、望はそっと目を逸らした。
登貴が紅の千年王になれなかった時、確かに何かが壊れた。
宗像という家を災難に陥れる歪みが、そこから始まったのだ。
「そろそろ、槍を使う頃合いかな」
泰介が空を仰ぐ。
社叢の縁、夜の縫い目がひとつほどける。
「来たね」
ヨルノミコトが一歩で降り立ち、薄桃の御幣を差し出す。
端だけ黒ずみ、冷えた香りが揺れる。
「一心様よりお預かりしてきたものです」
泰介は深く頷き、御幣を受け取った。
刃のない筒をそっと放し、背の空へ手を伸ばす。
「月讀の刃、我が血に応じよ」
影の裂け目から、白金の柄が“来る”。
宗像槍──王家に伝わる千鳥十字槍。
ずしりと掌に収まり、金具が汗で鳴った。
泰介は肩を鳴らし、軋む筋肉を確かめる。
「何をするか、もうわかるでしょ? ……逃げ切れるかな」
印が七つ、指先に撫でられて開く。
最後に血が触れ、八つ目が音もなく沈む。
筒に刻まれていた“空虚”は、印に引かれて穂先へ移る。
理を外す角は、今は槍にある。
「宗像槍・終の型──『花の宴』」
壮馬の肩がわずかに震え、唇から血が滲む。
「十年前と同じ」
泰介の声が夜気に重なる。
当時、壮馬はそこにいなかった。
だが目撃していたならば、知っているはずだ。
「ここからは、こちらの番だ」
泰介は槍を一振り。
空気が裂け、火と水が同時に揺らぐ。
壮馬は登貴を背に庇った。
その刹那の動きに、咲貴は息を呑む。
壮馬が足をわずかに引いている。──逃げの算段。
「千年王だけでも、舞手だけでも成立しない。だから“宗像泰介”を殺しておきたかった、って顔だ」
泰介は笑い、槍を振って重みを測る。
「“花の宴”は反動が強い。僕でも連発は無理。だから、“宗像一心”にも継承させておいた」
金具がカチャ、と鳴る。
泰介は深く構えを取り、焔を纏った花弁が周囲に散り始める。
「残念ながら──君にとっての脅威は絶えない」
登貴が放った火球を、泰介は槍で弾き落とす。
その仕草は息をするほど容易く、圧倒的だった。
「咲貴、三拍だけ志貴を写して、僕に渡して。合図をしたら、すぐやめること」
望が肩で押し、石段に半寸の板を作る。
咲貴は跳躍した。
『志貴──』
夜の壁が歪み、いるはずのない双子の指先に触れた錯覚が走る。
胸の奥で紅の命式が組み上がり、糸が一本ずつ紡がれる。
泰介はその糸を咲貴から引き摺り出す。
「もういい!」
合図と同時に“志貴”を手放す。
だが触覚は残り、胸郭に瓦を積まれたように息が塞がる。
咲貴は膝から崩れ、土に頬を打ちつけた。
望が抱き込むと、ようやく呼吸が戻る。
巨体の毛並みが逆立ち、反動の痛みが走った。
「よくやった」
泰介は槍先で真紅の糸を縫い、束ね、輪にする。
「これは発動したら最後。壮馬くん、知っているよね?」
泰介は槍を回す。
無駄がない。演舞の刃だ。
遠のくのに、花弁の擦過音だけが耳元に残る。
「春を寿げ」
桜ではない。桃の花。
焔を纏った花弁が触れるたび、焦げた布と肉の匂いが立ちのぼる。
避けようもない──風のない宙を舞い、登貴の全身を焼く。
「登貴!」
壮馬が羽織で覆おうとするが、登貴が拒んだ。
呆気に取られた壮馬がわずかに隙を作った。
泰介は見逃さない。
「狙うは登貴だけ。──縛」
槍先の“空虚の角”が登貴の理を刈り落とす。
百八の糸が魂の結び目に集まり、動きを封じる。
「……壮馬、疲れた、もう眠りたい」
笑わない声。だが救いのような響きを帯びた登貴の声だった。
「駄目だ!」
壮馬が踏み込む。
刀と槍が触れ、乾いた貝殻が砕けるような音が散った。
泰介の刃は理を無に返し、壮馬の技を鉄片へと堕とす。
「咲貴、宗像の今上は君だ。始末を」
泰介の眼差しは鋭く、けれど責任を託すように咲貴へ向けられていた。
視界を覆っていた花弁が一瞬で消える。
代わりに泰介の腕が痙攣した。
柄が掌から滑り、血が逆流するように節が白く浮かび上がる。
「咲貴、今だ──燃やせ」
泰介はなおも一度、槍を振るう。その一閃が壮馬を押し退け、咲貴の掌に槍が渡る。
「──終宴」
咲貴の声が響いた瞬間、槍先は最後の糸をひと目ほどき、ひと目結んだ。
「汝、永訣の鳥となれ」
登貴の魂に貼られていた“面”が、ぱきり、と音を立てて割れた。
「よせ、やめろ……!」
壮馬の顔が崩れる。
半狂乱の縁、血の気が失せ、ただ執着だけが残る。
「邪魔ばかりするな!」
彼は自ら腕を切り裂き、血で地に記号を描いた。
「見せやがれ、未来を!」
叫びと同時に、左目に爪を突き立てる。
血が滲み、瞳孔が開く。
その眼に──無数の道が広がった。
咲貴が千年王へと至る道。
志貴が眠ったまま王樹に縫い留められる道。
泰介が再び殺される道。
一つひとつの未来が、蜘蛛の巣のように網膜へ焼きつく。
「……なんで、あいつが玉座に。……やられた」
壮馬の喉が乾いた笑いを吐き、次の瞬間には狂気の声に変わる。
「お前が——耀冥……やっと、視えた」
耀冥——黒脈の王統。
Veilmakerの帷でも名を落とさない絶対強者。
壮馬は掌から血が滴り落ちる様をただ見ていた。
忘れ去っていたはずの過去が脳裏に蘇る。
敗因が何であったかを悟り、嘲笑する。
「Veilmaker、そこにいるのか」
壮馬は刀を捨て、空気の裏側に手を差し入れた。
そこに帷があった。
Veilmaker──帷を織る主の指が、縫い目をこちら側へ差し出していた。
壮馬は一瞬躊躇した。
だが、すぐに口角に笑みをのせた。
「俺の目が欲しいんだろ? ……今なら、くれてやっても良いぞ。それが、奴への一番の嫌がらせになるからな」
帷の奥から、優しい調子の酷薄な笑いが返ってくる。
『大歓迎だよ、誰も見つけられなかった黒の公子殿』
黒糸が虹彩の縁に沈む。
瞬きをするたび、極小の針音が角膜の裏で鳴り、脳に触れた。
視界が「向こう側の光」に取り替えられていく。
「黒の公子?……そういうことか」
望が苛立ちを隠さずに唸り、咲貴の前に身を入れた。
「咲貴、動くな」
咲貴が駆け出そうとするが、望の牙が襟首を咥え、足を止めた。
「追うな。あの帷の内では名が書き換わる。名は魂の取っ手だ。名を奪われれば、器ごとすり替わる」
尾が咲貴を後ろへ払う。
咲貴は、もう一度だけ志貴の視線を借りたい衝動が喉元まで上がったが──
《これ以上、志貴を削るな。……それに、もう遅い》
頭の内側に、一心の声が響いた。
咲貴は登貴の残した“香”の筋を逆撫でし、壮馬の足場を半寸ずらす。
泰介の槍が、その半寸に角を入れた。
布を裂くように、帷の縁だけを断つ。
それでも壮馬はやり切った。
肩まで帷に身を投げ、残った顔だけがこちらを振り返る。
「余さず奪い尽くされて堕ちろ——宗像」
静かな呪詛を遺し、帷が閉じた。
社叢に深い呼吸が戻る。
焔は消え、桃の香りだけが、遅れて喉に降りてきた。
──音が退き、春の温度だけが土の底で息をしていた。
登貴を構成していた魂の核は、もう跡形もない。
ただ、終わりの温度だけが残った。
あまりに無抵抗で、かえって気色が悪い。
「疲れた──」
そう言い残した声が耳に残る。
長き蹂躙の果てに、ようやく終われるとでも言うように。
宗像を、津島を、数多の黄泉使いを苛み続けてきた登貴。
憐れむ必要はない。だが、その余韻は確かに在った。
「登貴次第では、決め切れたかどうか……」
泰介が片膝をつく。
肩で息をし、血が衣を濡らす。
「……痛いな」
咲貴もまた膝が抜け、尻餅をつく。
視界の縁が雪のように乱れ、魂のほころびが零れかけていた。
望の鼻面がこめかみに触れ、冷たい息が首筋を撫でる。
解けかけた魂の輪郭を、どうにか留めてくれる。
「……上出来すぎるよ、咲貴」
泰介は槍を伏せ、ふらつきながら歩み寄る。
笑みを浮かべて肩を叩いたが、その指は震え、瞳の奥には疲労が沈んでいた。
「望、助かった。ありがとう」
望はふいと顔をそらし、鼻で笑っただけだった。
「これを一心に」
泰介は胸元から包みを取り出す。
ヨルノミコトが御幣を受け直し、深く一礼する。
「一心様からの言伝は、もうひとつ──『早々に、生きて帰れ』」
「毎度努力はしてる」
泰介は苦笑し、血の印を拭う。
振り返ると、咲貴が仰向けに転がっていた。
「……登貴は砕いたのに、壮馬さんを逃した」
咲貴の声は冷え、胃を握られるように重かった。
「少し違う」
泰介は短く答え、槍を背の空へ戻した。
「彼は自らVeilmakerに喰わせた。もう“壮馬”はいない。……そう理解していい。望、君の意見は?」
望は人型に戻り、静かに告げる。
「そんなところだね。さらに付け加えるとするなら、壮馬は未来視の異能を秘めていた。黒の千年王の系譜をVeilmakerが手にした。厄介が増えた、ただそれだけ」
三人の表情は、同じ苦さを帯びた。
「事実は変えられない。……戻ろう。陽が昇る」
泰介の声に、咲貴は石段を掴み立ち上がった。
膝は笑い、望の肩を借りる。
「熊野を護れたことになる?」
「今夜は、ね」
泰介は外気を吸い込み、目を細める。
「僕は戻らなくちゃ……」
保存の座から長く現世に立ち続ければ、生身は削れる。
咲貴は唇を噛み、声が詰まる。
「そんな顔しない。君は強かったよ。さすが、僕の娘ちゃんだ」
泰介の柔らかな声に、咲貴の涙腺が震えた。
けれど──「ここに志貴がいたなら」と零すことは飲み込むしかない。
「今夜、熊野を死守して、登貴を看破したのは君だ。事実は、それだけ」
じゃあね、と泰介の輪郭は霞んでいく。
石段の上で、風がひと筋さかのぼる。
遅れて、公介が陰から顔を出した。
惨状を見渡し、鼻を鳴らす。
「頭痛いな……歩く爆弾は健在やな、泰介め。……でもまぁ、ようやく会わせてやれたから良しとするか」
大きな手が咲貴の髪をぐしゃりと撫でる。
痩せ我慢は限界を越え、大粒の涙が頬を伝った。
「お前の方がパパっ子やったもんな」
津島にいた咲貴は、泰介と最期の別れすら許されなかった。
公介はそれを知っていた。
「まぁ、死にきってはおらん。数年したら、ひょっこり帰ってくるわ」
「でも、“花の宴”したから……」
「終の型、やっぱり使いおったか……」
公介は深く息を吐き、腰を落とした。
「あれを出した時から、厄介なことになるんはわかってたんやけどな」
帷の向こうで、誰かがまた新しい縫い目を選んでいる。
壮馬が覗いた未来のどれかへ、咲貴は必ず辿り着く。
「……救援に切り替えなきゃ。熊野は、わたしの本拠地。嬲らせはしない」
咲貴は涙を拭い、真っ直ぐ前を見据えた。
「熊野のみんなを助けに行こう」
公介の背を軽く叩き、ふうと息を吐いた。
(志貴から借りず、写さず、それでも護る。──それが“津島咲貴”だ)
風下で割れた桃が甘く腐りはじめる匂いが、夜気に溶けて残っていた。
──宗像の夜は、まだ名を失っていない。
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