第46話 桃花に飢ゑし 燼華の影
──冥府・黒離宮 地底回廊。
冥府の四天王を封じる最深の獄。
最初に割れたのは、音ではなく色だった。
黒一色の廊に、湿った朱が髪の毛一本ほど滲み、石床の鎖が赤い汗をにじませる。
次の刹那、檻の扉に下がる季の札のうち一枚──「夏」がぱきりと蝶番から落ちた。
遠くの鐘が三つ、重さを変えて鳴る。
「非常! 黒の檻、下層二、夏の封解除。門番は持ち場を死守せよ。……赫夜を、呼び戻せ!」
白階の司──冥府律を統べる現王の蒼白な声が、地底へ降りてくる。
だが、回廊の空気は、鐘の数では揺れない。
檻の内側で、少年の声がひとつ、笑った。
「迎えはないの?」
四つの影が、順に現れた。
春夏秋冬の影四名が歩む。檻の中の“本物”にかわって命を運ぶ、代行の長だ。
「僕の影、一歩前へ」
最前にいた夏の影は、黄の布で包んだ黒塗りの櫃を抱え、夏の檻の前で膝を折った。
「夏の王・燼華様……白階の勅命にて、現在、第三皇子赫夜様が呼び戻されております。お召しになり、直ちに、上へ行かれますか?」
布がほどける。中には黒外套。
表は墨、裏だけが朱から緋へ滲み、裾の角は煤金に擦れていた。喉元の留め具は黄土の色で、僅かに温い。
「僕の王衣?……貸して」
檻の内側から細い笑い。
外套を差し出すと檻の隙間から伸びた細い指が、男の喉をそっと撫でる。
「呼吸もついでに、貸して」
夏の影の胸がすうと凹み、息が戻らない。
燼華は嬉しげに鼻先をふるわせ、そのまま額へあてた指で、ひと筋だけ香糸を抜いた。
名の縫い目がほどけ、男の目から“誰でもない”色が滑り落ちる。
鐘の尾が喉奥で折れ、耳膜に針が落ちた。
次いで、世界の音がすっと沈む。
「不出来。君は僕のお願い、何にも出来なかったから、もういらないよ」
少年は肩をすくめて笑った。
「……おもちゃより壊れるの早いんだもん」
ひたりと、ひたりと裸足で歩く音。檻の外へ、少年が歩み出る。
「それに、僕の服に気安く触れないでほしかったよ」
言いながら、燼華は王衣をさらりと肩にかけた。
「王衣は、僕の温度でしか温まらないんだよ」
柔らかい声のまま、わずかに身をかがめて、香りだけを食べた。
血はほとんど流れない。理から先にほどけていくからだ。
「……味がしない」
彼の部下は千年近く尽くしてきたが、燼華は切り捨てた。
糸が切れた人形のように静かに横たわる背に、そっと足をのせる。
「ねぇ、僕の靴は?」
慌てて、春の首座が燼華のショートブーツを支度する。
「うちのを使わないでよ、燼華」
すぐ隣の檻の中からする女の声に、はは、と少年は笑う。
隣の檻から、春が赤い爪先で鉄をがちと叩く。
春の首座が、檻の内側へ彼女の王衣を差し出した。外套は黒、胴裏だけ緑青が風に渦を描くショートマントだ。
「賢い子ね」
口元だけ笑って、春は囁く。声は艶やかで、嫉妬に甘い。
「ねぇ、燼華。耀冥かしら? こんなことができるのは耀冥よね?……はぁ、殺してやりたい。力いっぱいねじり潰したいわ」
向かいの檻で、秋が無言のまま視線を落とす。彼もまた王衣を受け取っていた。
長いハーフケープの裏は銀白に薄い年輪、音を吸う布だ。
「保存が悪い。……味わいを寝かせる“墓”が必要だね」
「統計的に不合理だ。我々に接敵するのは禁忌と記されているはずだ」
冬がぼやくように言い、襟を正す。
高い立襟のロングコート、胴裏は玄黒に青霜。声は温度を持たない、純粋な論理の音だ。
「耀冥が、暇つぶしに封を外した? 遊びたくなったのよ」
春が細く笑う。
「次は一番のお気に入りの私かしら?」
「花夭は最後じゃない? 耀冥、面倒くさいの嫌いだから」
花夭と呼ばれた春の本体は不満の代わりに、鉄格子を爪先で軽く蹴った。音だけが艶やかだ。
「怖い、怖い」
燼華はけらけらと笑い、自らの肩にひらりと掛けたままの外套を整える。
表は黒、胴裏が陰火を抱き、縁の鉄錆色の糸が鈍く光る。喉元の土用の留め具が小さく鳴り、王衣が呼吸を合わせる。
「腹ごなししなくちゃね」
壁際の看守が震えるのを、燼華は見逃さない。指をぱちんと弾く。
秋と冬の首座が、看守をとらえて、少年の前に跪かせた。
「燼華様、私はお邪魔いたしません! けして!」
獰猛な獣の前に投げ出されたような顔。恐怖は悲鳴のあげ方を忘れさせる。
「可愛い子」
王衣の襞がふわりとなびく。
次の瞬間、看守の骨が自分の季節を思い出したかのように軋み、体温がずれる。
少年が首筋へ顔を寄せ、ひと嗅ぎ。
「いただきます」
噛まずに、嗅いで、摂る。
衣が灰になって舞い、中身は名前の形を失って崩れた。
燼華は鼻先をしかめ、舌を小さく鳴らす。
「ん……甘くないや。やっぱり、桃じゃないと駄目なんだね」
秋が淡く目を細める。
「甘いわけがない。ひたすらに不味そうだ。……これは“記録”に残す価値がない」
「赫夜が戻ってしまうぞ。お前は、遊びすぎる」
冬の声は感情を欠いた警句だ。
地上から報が落ちてくる。
「何としてでも、赫夜様を呼び戻せ!」
黒離宮の天井からは、夜烏が羽音を殺して飛び、白蛇が石の割れ目へ散っていく。
「煌承も毎度、運がないよね。……赫夜、近くにいないみたいだよ。可笑しいね」
燼華は腰を抜かしたままの看守からさらに一人を選び、胸倉を軽く摘んだ。
外套の内側を見せるようにひっくり返す。胴裏は死んでいる。光らず、温度も動かない。
「不味いから、これで終い」
看守の首へ王衣の端をさらりと触れさせ、匂いだけ抜いて、残りは捨てた。
ぐちゃりと崩れ落ちた身体を軽く跨いだ。
「第二皇子・煌承──冥府律を司る白階の主人に、伝令してくれる人いる? 四天王の影は今、解散。本体が順次、上へ出るよー。はい、かけあし!」
一番遅い人しか喰わないから、と少年は笑みをたたえる。
春が檻の中で片足を組み、花風の胴裏をちらりと覗かせた。
「耀冥、無計画に暴れて来いって言ってる気がするわね」
秋は棺のような声でぼそりと言った。
「悪食の黒は、何を食わせるかまで献立するんだ。……骨までやられるぞ」
冬は短く頷く。
「順序に意味があるのか、ないのかもわからん。だが、手順は守れ」
「気まぐれじゃない? 僕が一番たくさん耀冥の血肉食べたから褒められてるのかもね」
燼華は肩を回し、鈍った身体の重みを楽しむように笑った。
「何事も、まずは良い食事からだよね。うまいと言えば、間違いなく、宗像でしょ?」
黒の回廊の燈が一つ、二つと落ちる。
裏地が熾きの呼吸を刻み、燼華の足取りは軽いのに、通った後は焼け香が尾を引いた。
幾つもある無数の扉の鍵が、内から開く音はしない。王衣が扉へ触れるたび、軽い音で弾け飛んでいく。
「門番隊、白階を護れ! 早く、ここへ赫夜様を──」
上の声は途切れる。どこかで、燼華の指先が触れ、重要な結界が簡単に弾け飛んでいた。
燼華は振り返らない。残る三つの檻から、それぞれが一言だけ投げられた。
「黒の血は氷河より冷たいから気をつけなさいな」
「生死も棋譜も無情、それがやり口だ」
「仕置き程度じゃ終わらんやもしらんぞ」
燼華はくすりと笑い、「つまらないよりマシだよ。ゾクゾクしちゃう」とだけ返し、回廊の上を見た。
「四季に毒を孕ませたのは、そもそも耀冥なんだから、退屈しないよ」
階段を駆け上がりながらつぶやき、遅いよね、と秋の影の肩を指で弾いてニヤリと微笑む。
「いらない」
春夏秋冬は元より四人だけ。彼らの拘束ゆえの仮部隊だ。
「借り物の四季は片づけたって問題ないんだからさ。もっと本気だしてよね? 逃げるのが遅いから食べちゃったじゃないか……」
結局、看守も春夏秋冬部隊も、皆、燼華の胃袋の中。
「誰も伝令にならなかった。……本当に、つまらない」
燼華は頬をふくらませてみせ、すぐに、ははっと笑った。
「ねぇ、僕、かけっこしてたつもりだったのに。遅すぎるんだよ、皆」
足音が遠のき、鐘の尾がどこかで千切れた。
ふと、思い出した事があり、少年は足を止めた。
桃の香だ。
燼華はかつて一度だけ、神桃の香を嗅いだことがある。
皮の産毛が舌に触れた刹那、蜜に鉄の金気が混じる──そして指一本で視界が反転した。“黒”の指先によってだ。
「耀冥がいないなら、あれが食べてみたいんだよね」
燼華は、さらに上へ向かった。
「……あれ?来ないの?僕が本物の燼華だよ?」
黒の離宮から出た所で燼華は首を傾げた。
衛兵はとんでもない数がいるのに、皆、近づこうとしない。
正確には近づけない。上からの指令が、見逃せと低く回っていた。
無闇に接敵すれば檻の連鎖破綻が起きる──統計は、煌承の手元にあった。
黒離宮の鐘はまだ鳴り、白蛇が赫夜の腕を探して地の裂け目を走っていた。
冥府は大警報を続け、白階の司──第二皇子・煌承は禁呪札を抱えたまま、厄災が去るのを待っている。
王位に就いてなお第二皇子と陰口を叩かれるのは、兄であり第一皇子の耀冥が抜きん出た才能をもつ黒の千年王だったからだ。
白階が騒ぐたび、囁きは同じ──懐黒。
燼華は呆れ果てたように笑って、その場から姿を消した。
「耀冥が戻ってきたはずだ。そうじゃなきゃ、選別したように檻は壊れない。最高に面白い!」
王衣の襞が陰火を抱え、夏の嗅覚だけが楽しそうに膨らんでいた。焼け香と金気の尾を引いて。
──同じ刻。
宗像・道反の廊に、夜烏の黒羽と白蛇が同時に落ちた。
「冥府より報す。黒離宮、夏座の足枷解け、本体、地上へ向かう」
「熊野に壮馬・登貴の急襲。悪鬼は前回の十倍以上! 津島に死亡者が出ています!」
伝令は互いの影を踏み、同時に頭を垂れた。廊の空気が一拍、沈む。
「……こんな時に!」
公介の声は低い。表情は険しく、唇をかみしめている。
「道反を固めろ。──咲貴、冬馬、時生。志貴の静域は最大の禁結界で死守。外敵は押し出せ。……俺が熊野へ出る」
「待って。二人で──」咲貴が言いかけ、
「あかん」と冬馬が遮った。
「ここが落ちたら全部終わりや。……公介さん、頼む。行って」
公介は頷き、踵を返す。灯の影が彼の背を呑み込んだ。
その背へ、時生が歩み出た。
「……今の百を殺しても、後の千と万を取る。非道だと思うだろうが、許してくれ」
時生は静域の敷居へ膝をつき、掌を置いた。
細い光が畳の目に沈み、命の香が糸になって最奥へ走る。
「この身を担保に結界を張る。志貴の静域へ触れようとするものがあれば、僕の転送結界で吹き飛ばす。……ただし、僕が生きている間だけだ。意味わかるね?」
言い終えると、爪の先が鈍い灰に染まり、一本、白く色を失った。
こめかみの髪が細く一本、雪の糸のように変わる。
咲貴は息を呑み、冬馬は眉を寄せた。
「時生、すまんな」
公介は振り返らず、ただ掌を一度だけ上げて闇へ消える。
白蛇が石の隙へ戻り、黒羽が灯の上で小さく廻った。
静域の奥、志貴の寝息は深い。
遠い地からの鐘がひとつ鈍く鳴った。
夜は、まだ長い。
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