第45話 みづかがみのしじま とどく紅


──宗像・道反の静域


灯はない。香だけが満ち、畳は白く沈む。

志貴は眠っている。呼吸は静かで深い。薄衣の下で、桃の香がかすかにめぐる。


一心は寝所から一間あけて座した。

彼の目の前には、黒塗りの浅い水盆──底に白砂。

水は薄く張られ、揺れない。見るためだけの器だ。意図なく触れれば、白砂が舞い上がり簡単に濁る。


「志貴……」


一心が名を呼ぶ。

水は澄む。白砂が線となり模様を描く。その合間を覗くようにみる。


「……ええ夢だけみとき。起きたら、文句でるやろけど、なんぼでも受けたる」


声は落として、息だけでいう。

掌の内側で、言葉にならない小さな火が、胸骨の裏でゆっくり燃えた。


盆の面が、ごく浅く鳴る。

別の層がひとひらめき、森の闇が水に立ち上がった。

表は鏡、裏は夜。


「何や……。まだ、呼んでないけどな」




***



──宗像・禁足の森の奥


月は薄く、苔は湿っている。石は冷たく、音は沈む。

香だけが移ろい、風は葉の縁を撫でてすぐに消える。


磐座がある。

──あの石は、昔、一人の女を封じた場所だ。

苔の縁に、乾いた紅が斑に残る。

自然のものではなく、誰かに置かれた色だ。


咲貴が立っていた。掌の火は細いのに、色が揺れている。

息は整っているが、足裏の力はわずかに逃げ、指先はかすかに冷たそうだ。


影が、夜の向こうから歩いてきた。

藍の羽織に銀の縫い。目元を隠す面。片手に長柄の杖。

足音は湿りを踏まず、足元の影だけが夜をひと筋濃くする。


仮面をはずした長身の男の袖がひとたび払われ、藍が闇を吸い、銀が点で切れる。


袖口から徳利が現れた。

男は磐座の角へ紅酒を傾ける。ゆっくり、惜しげもなく。

北へ、次いで西へ、東へ、そして南へ。

最後の一滴が、南で切れた。

ひとしずくごとに苔が濡れ、石は血のように色を飲んだ。


男は徳利を持ったまま、洗練された動作で顔を上げた。

咲貴に目を向けながら、その視線の奥は別の場所──水鏡のこちら側を、正確に射抜いている。


磐座は紅に沈みきった。


そして、唇だけがわずかに動いた。



──届くぞ



音はない。だが、言葉の形は確かだった。

わざと、唇を読ませるような仕草。


咲貴の掌の火が、ほそく跳ねる。

森の色が一枚はがされたように見え、遠くのどこかで、薄い鐘の音がした。



***


── 宗像・道反の静域


静かな寝息がわずかに乱れ、喉の奥でひゅ、と細い音が生まれる。

志貴の白い唇の端から、血が一筋すっと流れた。甘いはずの香に、煤がひと筋まじる。


一心は掌で受けた血の温度を確かめ、指先でそっとすくい、舌にのせる。


流れ込む香は志貴のもの。

だが、火は赦しではない。知らない焦げが薄く混ざっていた。


盆の水は、森の景を淡く返す。

苔むす磐座。藍の袖。銀の縫い。紅酒。面の影。唇の形。



「……やっぱりお前か、息、長いこっちゃな」



口元にわずかな歪みが生まれる。笑いにも見えるが、笑いではない。



「逆巡り……」



一心は水鏡を睨みつけた。



「四方を逆に踏んだな。作法違い。──合図か。ええ挨拶やないか」



水面に触れないまま、指先で空気だけを押した。波紋は立たないが、鏡の底がわずかに深くなる。



「おもろいやないか。やれるもんなら、やってみぃ」



水鏡の向こうで、赫夜の肩が影だけずれる。

徳利は音も残さず宙ではじきとび、紅酒の香だけが夜に残った。



「よう手間取らすわ」



志貴の睫が震えた。

赫夜の手にあった徳利は砕けた。紅の液体はもう落ちない。

だが香の層に、細い棘が一本混ざって、しばらく抜けない。


一心は志貴の喉元に指を寄せ、呼吸の浅さだけ撫でる。



「邪魔しよって」



吐息ほどの声。怒りは静かで、澄んでいた。



「──ヨルノミコト」



呼べば、水の面に墨がひろがる。

次いで、しなやかな声がそこから立ち上がった。




「夜分に失礼いたします、一心様」



水鏡の縁に、ぽたりと香のしずくが落ちた。

一心はその波紋を目で追い、ゆるく顎を引く。



「見てきたんやな。──要点だけ言え」



「承知いたしました。……赫夜様らしき男が、禁足の磐座にて咲貴様と接触。一心様がお嫌いな紅酒を注がれたかと」



水面には、夜の森と磐座が映っていた。

その紅だけが異様に濃く、まるで水が色を拒むように揺れる。



「……それは、見えた」



ヨルノミコトは一礼し、間を置いて続けた。



「次に、壮馬の動きです。登貴の名をもつ女と血による古き誓約を取り戻し、妹御の肉体を捧げ、紅を立て直す、と」



一心は水盆の縁を爪で軽く弾く。

波はすぐ崩れ、底の白砂がひと筋だけ濃くなる。



「懲りんことやな……まぁ、志貴から切り替えたことだけは褒めたるわ」



一心はそっと指先を離す。



「それから──」


ヨルノミコトが言葉を選ぶ。



「八雷の動きが、妹御の『夜哭の殲滅』と呼ばれる火に影響を受けております」



一心は膝の上で指をひとつ折り、視線を志貴の唇に移した。紅はすでに薄くなっている。



「この連動性は、志貴様の再構成に無関係とは言い切れません」



その一言に、一心の眉がわずかに動いた。

言葉の尻に合わせて、香の温度が半度だけ下がる。


志貴は静かに眠っている──が、唇の端にかすかな紅が再びにじみはじめた。



一心が緩やかな動作で目を伏せた。

それだけで、ヨルノミコトの背に緊張が走る。



「確認やが、壮馬が登貴を隠してる場所を特定できた、ということで間違いあらへんか?」



ヨルノミコトは静かに尋ねられただけで、片膝をついていた。

首を垂れた彼の額に脂汗が浮かぶ。



「さぞかし、うまいこと、情報ばら撒きはったんやろなぁ」



一心は『報告が遅い』とは口にしなかった。

だが、目は口ほどに物をいう。



「ご存知なのは……白の千年王と公介のみです」



一心はすぐには何も答えない。

判断を誤ったか、とヨルノミコトは手に汗を握った。



「お前はいつも正攻法やな。……冥府にもう一度流してやれ」



え、とヨルノミコトが顔をあげた。

冥府が彼らにつくかもしれないのにと、口にしかけて、はっとした。

──もう一度

一心は今そう言ったのだ。



「冥府が一枚岩やったことなんかないやろ?そもそも、壮馬退治はこちらの仕事でもないし」



志貴の身体の内にあった宗像の王玉を、壮馬に抜き出させる策を講じたのは、間違いなく目の前にいる男だった。それを思い出し、ヨルノミコトはぞっとした。



「ヨルノミコト、返事」



畏まりました、と慌てて答える様子に、一心は小さく息を吐いた。



「冬馬」


水鏡を覗いた一心の口元がわずかに吊り上がる。



「実際にその目でみたアレはどうや?」


「古禁の刃が応じる様は禍々しく、宗像の流れを組む御仁の在り方からはほど遠く……」


言い淀んだヨルノミコト。

一心はそれを鼻で笑う。



「正直に言うてみぃや。……許したる」



「……冥府の四天王に近いかと」



ヨルノミコトは唇をかんだ。



「そらよう鳴る牙や。まぁ、志貴が戻れば黙るやろ」



はははと、一心は乾いた笑いで返す。



「よろしいのですか?」



ヨルノミコトの問いに一心が首をかしげる。




「彼は、志貴様の狂信者です」



「構わん。……今の位置からわずかでも動こうものなら、手酷くはじかれること、アレが一番ようわかってはるんと違う?」



一心は眠る志貴の横顔に目をやる。



「敵か味方か、こちらはどちらでも、可や。長い暇つぶしには良いエッセンスになるやろ」



宗像一心という男に真っ向から迫り得るのはやはりあの赫夜しかいないと、ヨルノミコトは思った。



「一心様、もう一つお伝えしておくことが。……狐が静かすぎます。一尾も揺れません」



水面が一度だけ凪ぐ。尾の影すら立たない。



「静かすぎる時がいちばん悪い。何企んではるんやろなぁ。……そやなぁ、尾が一本揺いだら報せ。二本で噛め。三本なら焼け」



「御意」




「《Veilmaker》の目は?」



「宗像の結界を舐めるように周回。……散らしますか」


「そうやなぁ、目、外せるなら、世界が少しばかり傾いても構わん。黒の檻でもいじくるか?」


「四つの禍事は厄介かと存じますが……」


「禍事、うまいこと言うやないか。あれらは退屈に指をかけとるやろ?」



一心はわずかに間を置いてから、片方だけ口角を持ち上げた。



「檻の封をひとつだけ外せ。それだけで、おもろいことになるやろ」



「すぐに」



言葉が走るたび、静域の下で、音もなく箍が絞られてゆく。

一心の動き一つで、冥府の上層は眉間に皺を寄せ、四天王は牙の縁を舐め、退屈の数え方を変える。


ヨルノミコトが一拍置いて言う。



「……赫夜様は」


「赫夜」


「申し訳ございません。……赫夜は、磐座を媒介に、志貴様へ干渉するつもりでしょうか。それとも、妹御との連動を鍵とするのでしょうか」


「昔から変わらん手ぇや」


「いかがいたしますか?」



一心は、志貴の唇の端の紅を親指で拭い、指先を見つめる。

それを舌にのせ、目を伏せて、一拍だけ黙った。



「決まっとる。遊びですまんようになったら──赫夜も咲貴も斬る」



ヨルノミコトは短く息を呑み、深く頭を垂れた。


水鏡の底で森の影がひとしずく揺れ、磐座の紅がゆるく滲む。



「俺がやると言うからには、やるで」



布の陰から八雷がのぞき、志貴の頬を心配そうに見つめる。

一心は視線だけ落とした。



「お前ら、そのまんまで志貴に触れたらあかん。泉で咲貴の氣を落としてからや」



八雷はびくりと縮み、火の玉に戻る。

小さな灯は枕元で丸くなり、香だけ吸って、眠る者に触れぬよう努めた。



水鏡の底で、森がもう一度だけ揺れる。

うつる景色に咲貴はいない。

赫夜が、磐座の縁を指で一度だけ叩く。音は石に吸われた。

視線が鏡のこちらの暗がりをなでる。

去り際、唇が意図的に動く。



──隠せ。



夜だけが、袖の中へ沈む。




一心の眉間に深く皺が入る。



「好み、よう覚えとるやないか」



掌の内側で、黒を孕んだ火が小さく強くなる。

けれど床は軋まず、香は乱れない。


志貴の唇の端の赤は、もう薄い。白布の一点だけが濃く、夜の灯のように見える。

一心は、そっと布の皺を直す。



「紅酒は飲まん」



ヨルノミコトが静かに頷く気配がする。



「あの者は、確実に、見せるために注ぎました」


「俺の知っとる石に、わざわざ紅酒仕込むとは性格悪い奴や」



遠くで雷がひとつ転がる。

檻の牙は静かに研がれ、上層は枷の数を数え直す。

壮馬は血で祈り、冬馬は刃で歌い、咲貴は名を読む。

赫夜は石に赤を注ぎ、袖で夜を笑わせる。


一心にとって、それらはどれも些末だった。

守るべきものは、ただひとつ。


指先を、志貴の耳もとへ落とす。触れない。息だけ落とす。



「……お前は俺のもんや。隠す時は、俺に勝てる奴なんかおらへん」



志貴の睫が、夢の底で一度だけふるえた。

桃の香は静かに満ち、焦がす色はまだ言葉を持たないまま、夜の底へ沈んでいく。


水鏡はひと息で澄む。

そこに映る志貴は、ただ静かに眠っている。



「……上等や、赫夜」



声は小さい。

けれど、夜の隅々へ、刃のような線で届いた。




──百日は、まだある。

赦しか、呪いか。

そんな答えはいらない。

志貴さえ無事なら、それでいい。




「磐座の件、狐も嗅ぎつけとるやろ。……今以上に見張れ」



ヨルノミコトの気配が消えた。



志貴の呼吸は深く、桃の香がゆるやかに流れている。百日の眠りは、まだ中ほどだ。



「百日が足りんのなら、世界のほうを延ばしたらええ」



鏡は澄み、夜だけが延びる。

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