第38話 葉燃ゆる泉に 灯を覚ゆれば(後編)


 東の泉を離れると、庭の空気がほんの少し重く感じられた。さっきまでの静けさは、水面の上だけに薄く張られていただけだった。

 木立の葉が擦れる音が戻り、石畳の冷えが足裏へ届く。咲貴の胸の内側にだけ、さっき抱いた温さが残っているのが不思議だった。


 無理に扱わなかったぶん、火の温さが、灯の形へ寄り添ってくる。望の言葉は、まだ胸の底で沈黙している。


 回廊へ戻る途中、待っていた冬馬が、追い越さない距離で歩いた。隣に並ぶでも、背を押すでもない。咲貴の拍を乱さない位置にいる。


「どうやった?」


 冬馬はそれだけ言った。答えを催促するというより、火の匂いを確かめるような声だった。

 案じる響きは薄い。声の端に、こちらの匂いを量る間が刺さった。

 咲貴は息をひとつ整え、必要な分だけ口を開く。


「少しだけ、分かった気がする」


「よかったやん」


 冬馬の語尾に含みがあっても、咲貴は拾わない。回廊の曲がり角ごとに、誰かの視線が一拍遅れてついてくる。それだけで宗像の息遣いが手の内に入る。


 回廊の最後の角を折れたところで、時生が待っていた。手には小さな封がある。


「任務だよ」


 短い言葉なのに、廊下の冷えが深くなる。

 咲貴は時生を見て、小さく頷いた。


「白川も、穂積も、津島も。冥府の門前にも、また人が立ってる」


 言われなくても分かるだろう、という口ぶりだった。


「宗像の沈黙に、裏打ちがいる」


 咲貴は息を吸い、核心に触れない深さで吐いた。


「宗像が宗像であることを、外に見せる」


 時生は、そこで言葉を切った。


 見せる、という語が胸に残った。


 こちらが何かを差し出せば、外は必ず匂いの筋を拾ってくる。拾われた先で向けられる視線は、裂け目ではなく、宗像の内側だ。


 けれど何も出さなければ、外は外で勝手な形を作りはじめる。ならば、その輪郭だけは選ばねばならない。先に前へ出すのは、飾りでも説明でもなく、動かせない事実だけだ。


 冬馬が横から口を挟んだ。


「禁域の縁にある例の裂け目のこと?」


 時生がそうだと頷く。


「道反の境界に、悪鬼が湧いてるのはいつも通り。ただ、湧き方が普通とはいえない」


 宗像のいつもは、市井の非常域のはずだ。それを越えるとなると、咲貴には想像ができない。


「それを、咲貴がやりきらないといけない」


 時生の言い切りの硬さに、咲貴の背に緊張が走る。


「冬馬を付ける。僕は境界補正のバックアップで出る。外が嗅ぎつけてる以上、公介さんは屋敷を離れられない。当主が動けば、それ自体が餌になる。……わかるね」


 咲貴に選択肢などない。ただ、静かに頷くしかなかった。


***


 宗像の装備を整える武器庫は、屋敷のさらに奥にある。

 木の脂が引き、布の湿りが抜ける。満ちるのは鉄と油の匂いだけで、白い壁面が光を返していた。

 防具の類は一切なく、眼前を覆い尽くすのは武具のみ。道具の並びだけで、宗像が最前線だと息の音だけが残る。


 宗像は槍を使う一族だと、咲貴は知っている。槍は踏み込ませないための線を引く。火が暴れる家に、距離を取る技が根づくのは理にかなっている。


 けれど咲貴が手を伸ばしたのは一振りの日本刀だった。鞘は黒く、飾りがない。握りは使い込まれているのに嫌な癖がない。手に取ると重さがすぐに馴染む。


 冬馬が横から咲貴の手元を見た。


「それで行くんか」


 咲貴は刀を握り直し、視線を落とした。


「槍は……目立つから」


 宗像の双子には曰くが必ずついて回る。姉を廃して王座に就くつもりかと言われないための身の振り方がある。


 今のこの状況で槍を握った瞬間、外は物語を面白おかしく作る。それを、分からないふりはできない。


 冬馬は肩をすくめ、言葉の裏を受け止めたとわかり、咲貴は、口の端だけを引いた。


「準備はいいか?」


 時生が小さな布包みを差し出した。中には小さな護符が入っており、血の匂いがうっすらする。


「折れる前に使いな」


 優しくない時生の言葉が、現実をまっすぐ知らせてくる。


 咲貴は小さく頷き、懐へ入れた。あまりにも素直に受け取ったことに、時生は驚いたように目を見開く。


「わたしも、学習はするんだよ」


 咲貴は踵を返した。もう振り返って時生の様子を伺うことはない。


「気を抜くなよ」


 背後で、時生が笑っている気がした。


「行ってくるよ」


 そこからは背後にある足音は冬馬一人だけになった。


 道反の奥へと向かう道は、歩くほど口の中の湿りが引いた。


 人の生活の匂いが薄くなり、土と石と、古い水の匂いが前に出る。


 咲貴は言葉を落とさず、足だけを進めた。


***


 禁域の縁に近づくにつれ、身を震わせる冷気が満ちてくる。


「これ、何の匂い……」


 焦げた布ではなく、肉が焼け焦げている匂いに近い。硫黄を思わせる生臭さが混じる。血の薄さが、いちばん気味が悪い。


 冬馬がふいに足を止めた。


「止まれ」


 言った瞬間、地面がわずかに沈み、揺れは遅れて返ってくる。道反の土が禁域の底と繋がっているという噂を誇張だと言うには、足の下が動きすぎた。足の下で何かが動き、上へ出ようとしている。


「来たわ」


 裂け目から、ぬるりと黒いものが覗き、悪鬼があらわれた。


 咲貴は唾を飲み込み、柄を握る指にだけ力を寄せた。


「こんなの、知らない」


 皮膚が皮膚の形を保っていないだけではなく、骨が骨の位置にない。何かを真似て失敗した肉の塊が、無理に人の形へ寄せられている。

 獣なのか、赤子なのか分からない声というより音がする。

 目がどこにあるのか分からないのに、こちらを見ているのが分かる。飢えで見られているような心地の悪さが肌にはりつく。


 冬馬が咲貴の前へ半歩出た。盾になる距離ではなく、同列で挑むための位置どりだ。


「まだまだ、数、増えるで」


 冬馬が言った瞬間、裂け目がさらに裂けた。土の下から腕が出る。腕の形をしたものが出る。不自然に多い指が地面を掻くのを見て、咲貴の背筋が粟立つ。


 咲貴はすばやく刀を抜いた。


 鞘走りの音が乾いた空気に鋭く走る。音が走った瞬間、悪鬼がすばやく反応した。


 悪鬼の初動反応は速いのに動きが遅い。だが、遅い動きの中に別の速さがある。違和感が咲貴を攻め立てる。距離の詰め方が狂っているのだ。足は動かないのに、距離だけ削られるような気持ち悪さがある。


「頭で考えたら、やられてまうで」


 冬馬が先に踏み込む。迷いのない動きは、映像のように見えるほど無駄がない。腰を落とし、重心を前へ送る。刃先が光る瞬間、悪鬼の腕が落ちた。落ちた腕からは血が出ない代わりに、黒い煤みたいなものが散り、嗅覚の奥を汚す。


「気持ち悪……」


 咲貴は思わず呟き、すぐに自分を戒めた。


 悪鬼が咲貴へ向きを変えただけで空気が重くなり、歪んだ理が頬をかすめる。


 咲貴は刀を構え、冬馬と同じく腰を落とした。


 次の瞬間、悪鬼が跳んだ。


 斬りあげながら、蹴り飛ばした。見たことがないクラスの悪鬼との闘い方が掴めない。


「一撃でとはいかないよね」


 反射で横へ転がる拍子に土の匂いが鼻へ入る。受け身を取り、弾んだ重みの中で、悪鬼の腕が咲貴の肩を掠めた。


 掠めただけで熱が跳ね返った。

 肩が焼けたわけではないのに、身体の内側が一瞬で熱くなる。熱が皮膚の下を逆走し、呼吸の芯が一拍だけ乱れた。

 咲貴は歯を食いしばり、肩を抱いた。


「毒か、避けないと……」


 構え直した刀が意思をもつように動いた。

 振るうというより、勝手に動いたみたいに感じた。視界の端で冬馬の型がちらつく。型を見た瞬間に身体が拾う。認識する前に、もう動きが終わっている。


「なんで……」


 咲貴の刃が悪鬼の首のあたりを断つ。

 刃は肉を断ったはずなのに、手応えが途中でほどけた。斬れているのに、何も終わらない。

 相手は死なず、壊れない。ただ裂け目が裂け目であるかぎり湧き続ける。


 冬馬は焦る様子もない。


「咲貴、ちょっと邪魔」


 咲貴は後ろへ跳び、距離を取った瞬間、悪鬼の腹のあたりが裂け、そこから別の腕が伸びた。腹が腕を吐き出した。無数の腕が地面を掻き、また別の悪鬼が這い出る。


「動き止めたら、死ぬで」


 冬馬が咲貴の前へ出た。低い声だが、叱ってはいない。生き延びる段取りを知らせている。


「宗像は宗像のあり様があるんやで。お前、津島のままで、勝てるわけないやろ?」


 悪鬼が同時に動く。動きは遅いのに距離をあっさりと縮められてしまう。

 咲貴は生まれて初めての恐怖を、初めて正面から見た。


 志貴には指先の炎一発があるが、咲貴にはそれがない。


「どうしたら……」


 止めた息の奥で熱が爆ぜる。

 視界が一瞬白く反転した。香炉のときの反転に似ている。倒れる、と咲貴は思った。


 倒れたら終わる。終わるのは自分じゃない。


 膝をつきかけ、寸で踏み止まった。境界を守れ、と身体が言う。


 そのとき、空気が逆巻いた。


 悪鬼の匂いとも土の匂いとも違う。香でも火でもない。皮膚の内側を掻く存在感が背骨を撫でた。あの夜、契約を結んだときと同じ匂いが、戦場の端に差し込む。


「助けが必要かい?」


 望の声だった。


 咲貴は振り返らない。その問いが胸へ針を打つ。必要じゃない、と言っても嘘になる。

 咲貴は意地でも言葉で答えたくなかった。

 代わりに懐へ手を入れ、時生から渡された護符にかみついた。喉の奥へ刺さるのは冬馬の血の味。

 嫌だったのに、身体が求めた。さらに、もう一枚、護符にかみついた。


 咲貴の周囲に血の匂いが一気に立ち、反応した悪鬼が寄ってくる。その前に、咲貴は舌の裏へ血を落とした。

 鉄の味が広がった瞬間、内側の熱が落ち着いた。身体が飲み込むべきものを飲み込んだからだ。反動が一段だけ下がり、視界が戻る。悪鬼の動きがスローモーションのように見えた。


 咲貴は刀を握り直した。


『大丈夫』


 志貴の声がした気がして、咲貴はあたりを見回す。


 握り直した手の中で重さが変わる気がした。刀の重さではない。握っている形そのものが、別の形を思い出そうとしている。


 宗像の槍の形。


 拒もうとした。だが、拒めば身体が死ぬと直感する。百日を守り抜くためならば、受け入れるしかない。


 踏み込んだ瞬間、足運びが刀のものじゃなくなった。腰が落ち、肩が前へ出る。手の中の重さが、まっすぐ前へ伸びる感覚に変わる。刃が刃であるまま、先が長くなる感覚だ。


 掌が熱くなった。


 あたり一面に白い光が走った。


 走った光は刃だった。刃が槍の形を取って現れる。長い柄に、まっすぐな穂先。破魔の気配をもつ宗像特有の武器。


 咲貴は息を止めた。


 布都御霊、という名が喉の奥まで上がってきて、飲み込んだ。けれど目の前の形は確かに、宗像の古い伝承の匂いを持っていた。


 冬馬が横で、小さく息を呑む音がした。


 咲貴には答える暇がない。寄ってくる悪鬼を薙ぎ倒し、胸を貫く。


 貫いた手応えが、今度は違った。


 柔らかいのに硬い理の抵抗が、槍の線で裂け、悪鬼の形が落ちる。


 咲貴は槍を振るった。


 振るうというより刃先で線を引くように、境界をなでた。刃先に触れた悪鬼が裂け、煤になって散る。散った煤が空気の匂いを汚す。


「……何で、できる」


 喉の奥で言葉にならない息が鳴る。

 志貴がいないのに、王の槍が手にある。答えはひとつしかないのに、まだ言葉にしたくない。


 望の声が、戦場の端で静かに落ちた。


「やはり、宗像の双子は面白い」


 その言い方が、あの夜の甘やかしと同じ匂いを含んでいて背が冷える。面白い、は祝福じゃない。

 咲貴は槍を握り直し、望の言葉を無視してふるい続ける。


 冬馬は背後を守り、増えかけた悪鬼を斬り落としている。冬馬と咲貴の動きが、ようやくリズムをつくりはじめた。


 溢れ出すより、消滅する数が増える。だが、減っていくのに裂け目はまだ呼吸しており、もっと厄介なものが出ようとしている。


 地面が沈み、遅れて返る重みが今度はうねった。さらに、裂け目が大きく開く。

 そこから這い出た悪鬼は、形が整いすぎている。整っているぶんだけ気持ち悪い。


 目がある。口がある。歯が並んでいる。並びが人間のそれに近いのに数が多い。多い歯が笑い、涎みたいな黒い液を垂らす。落ちた液が土へ染みると、土が焦げたように白くなる。


 冬馬が低く言った。


「また、等級上位かいな」


 咲貴は槍を構え、息を吐く。

 火は暴れるためにあるんじゃない。境を守るためにある。

 泉で聞いた望の言葉が、今ようやく血肉になる。


 無我夢中で踏み込む。槍の刃先が悪鬼の喉へ伸びた瞬間、悪鬼が消えた。

 消えたのではなく、場所がずれていた。空間が縮み、悪鬼が咲貴の側面へ現れる。脇腹に黒い歯が迫る。


「何て、動き!」


 咲貴は槍を引いた。とっさに引いた反射で柄の先が悪鬼の顎を打つ。衝撃が腕へ返り、骨が痺れ、視界が一瞬だけ白く反転する。


 咲貴は歯を食いしばり、舌の裏の血の味を思い出した。宗像は倒れかけたら、立つためのものを入れる。懐の残りの護符に手を伸ばし、迷わず噛み切った。鉄の味をはみながら、槍を突き出した。


 悪鬼が悲鳴を上げた。それはもう声ではなく、裂け目が閉じるときの音だ。閉じかけた裂け目がしぶとく歪み、最後に煤を吐いて消える。土の下の脈が一拍だけ静かになる。


 静かになった拍の中で、咲貴は膝をつきそうになったが、目いっぱい立ち上がろうとした。冬馬が咲貴の肩に手を置いた。それは重いのに押さえつけてくる感触はない。


「無理に立つな」


 咲貴は槍を見下ろした。白い光が少しずつ薄れている宗像の槍。宗像の象徴を握ってしまった。そのことに、咲貴は打ちひしがれていた。


 望の気配が近づいた。


「やれるじゃないか」


 慰めでも祝福でもなく、ただ事実を言う声だ。咲貴は声の方を見なかった。


「……さっき、助けが必要かって聞いたね。護符がもうない」


 望が淡く笑う気配を残した。笑いの気配だけが空気の端に刺さる。


「君はもう決めているね。手を貸してもいいが、どうなるかはわからないよ」


 言葉は脅しじゃない。咲貴はその現実を、座で味わったばかりだ。


「さぁ、どうぞ」


 望が爪をたてた腕から滲む血に、咲貴は迷わず口をつけた。


「護符とは別物ということか。……もういい、十分すぎる」


 身体の軽さがあっという間に戻り、傷は一度チリリと痛んだだけで跡形無く消え去る。


「志貴より手際がいい。……呼ぶなら、いつでも」


 くすくすと笑っている気配が遠のきながら、望は最後に一言だけ落とした。


「真似ごとは、感心しない」


 その一言で背の火が小さく疼く。


 真似事と言われた瞬間、心臓を鷲掴みにされたような痛みが走る。

 昔から一度見たら出来てしまう。便利で怖い性質が、今さら喉元に触れてくる。咲貴はその性質を誰かに告げたことはない。


 冬馬の視線が口元にあることに一つだけ息を吐き、咲貴は袖口で唇に残る赤をぬぐう。


「長居は別の問題を連れてくるから、帰るで」


 咲貴は槍を見下ろし、白い光が消えるのを待った。消えたあと、手の中には刀だけが残った。


 帰り道の途中、咲貴は一度だけ喉の奥で息を鳴らした。

 次はもっとうまくやると、声にしなかった。声にしないまま胸の内側へ沈める。


***


 屋敷へ戻る道は、来るときより冷えていた。

 冷えたのは外気だけではない。咲貴の内側が、いまさら遅れて寒気を覚えはじめていた。


 望の血の熱に押し上げられていたものが、血の味が引いた瞬間に底へ戻り、震えだす。戦場で怖がる暇がなかったぶん、帰路で身体が帳尻を合わせようとしているのが分かる。


「……怒られる?」


 冬馬は歩調を変えない。速くも遅くもない。咲貴の息の刻みを乱さない速さで、道反の硬い土を踏む。


「……ようやったと思うけど」


 踏みしめるたび、土の下から遅れて返る脈が、まだ完全には静まっていないのが分かった。裂け目は閉じたわけじゃない。悪鬼が噴き出してくる速度が遅くなっただけだ。それだけでも宗像には意味がある。


 屋敷の門が見えた頃、咲貴は自分の掌を見た。


 刀の柄が濡れている。護符を噛み切ったときの血の匂いが、まだ指の隙間に残っている。


 屋敷の外側にあるざわつきは咲貴を疲弊させるには十分すぎた。


「気にすんな」


 門を潜ると屋敷の匂いが少しだけ戻った。木の脂、布の湿り、炊きの煙。なぜか胸に刺さる。ここが守りの場所だという事実がよくわかった。


「怪我はないか」


 廊下の角を曲がると、時生が待っていた。

 時生が咲貴の頭に手を置き、目だけを見た。


「無事かと聞いてるんだ」


 時生の問いに、屋敷の気配が一段深くなる。咲貴は頷かず、言葉だけを選んだ。


「言われたことは、してきた」


 時生の目がわずかに細くなる。


「報告はあとだ。先に、当主のところへ行こう」


 当主と言われた瞬間、背の火がひとつ息を整えた。責任の在処を指す呼び方だ。


 冬馬が横へ寄り、声を落とす。


「大丈夫や。何も問題ない」


 冬馬の言葉が胸に引っかかり、咲貴はその引っかかりごと息を整えた。


 声の間へ向かう廊下は相変わらず寒々として、視線を落とすと、喉の乾きがいっそう目立った。


 扉の前で、時生が一度だけ手を止めた。低い声が冷めた空気へ落ちる。


「今日のことは、事実だけでいい」


 咲貴は返事をせず、呼吸だけ整えた。


 扉が開くと、淡光の下に公介がいた。首座に腰を据え、手を膝に置いている。逃げ道を塞ぐような宗像の当主の匂いがする。


 他家の席にも人の気配がするが、今夜は幕が降りており、誰が配置されているかは見えない。それが、かえって不安になる。


 公介の視線が咲貴を差した。咲貴から漂う火の匂い、血の匂い、言葉の匂いのすべてで判断されるのだと、遅れて理解する。


「座れ」


 命令が短いぶん、冷たく響く。

 咲貴は宗像の後継の席に腰を下ろした。座った瞬間、背の火がわずかに鎮まる。当主の手の内側へ収まったからだ。


「時生」


 公介が呼ぶと、時生が一歩前へ出て、冬馬は咲貴の背後へ移動した。


「裂け目の詳細を聞かせろ」


 鋭く、低い声が現場の形を、言葉の角度だけで切り取る。


「湧きは止めきれていません。ただ、吐き出す呼吸は安全圏まで遅くなり、いまは沈静しています。完全閉鎖には至りません」


 視線が咲貴に戻された重みで喉がひりついた。咲貴は戦場の事実だけを掬うように口を開いた。


「私が線を引いて、冬馬が数を削ぎました」


 線、という語が口から落ちた瞬間、胸の奥で小さく鳴る。宗像では、槍を指す言葉だからだ。


 公介は眉ひとつ動かさない。一拍、咲貴の言葉が途切れた。だが、事実だけを述べろと時生が言ったことを思い出した。


「宗像の槍を使いました」


 室内の空気が一段冷えた。背後で冬馬が小さく息を吐いたが、言葉を足すことはない。

 咲貴は槍の名を避け、形だけを差し出した。

 公介の視線が咲貴の掌へ落ちる。いま掌に槍はないのに、そこへ向けられている気がする。

 頭の痛みを飲み込むような公介の吐息に、咲貴の胸がわずかに痛む。


「次は、前線上位者の許可を取れ」


 切って捨てられた言葉が床へ落ちるみたいに重い。公介は視線を動かさず、続けた。


「冥府の門前に立った者の件は、俺が処理する」


 言葉は冷たいが、どこか救いがある。話題を切り替え、槍を握った瞬間に生まれた外の物語を、宗像が内側で握り潰す。


「冬馬、今夜は本家を閉ざせ」


 視線が冬馬へ投げられる。

 命令は冬馬へ向けられているのに、咲貴の胸へも刺さる。宗像の内側では、誰に向けた命令も皆へ効く。

 冬馬は苦笑いのまま頷き、短く応じた。


「整えろ」


 公介は、見せる現実と、見せない現実を分けろ、という合図だ。公介の視線が咲貴へ戻る。


「今日、狐を使ったか」


 咲貴の吸う息が引っかかる。否定は嘘になる。肯定は外へ出せば餌になる。

 咲貴が言葉を選び切る前に、公介が話の首を落とす。


「次からは、俺の許可を取れ」


 命令の形で終止符を打つ。

 咲貴は頷きで返す瞬間、胸の底で小さな痛みが弾けた。


「今日の任務は、等級上位の悪鬼と報告にある。宗像が出て、事なきを得ている。状況の精査は、宗像の内側で処理する」


 公介が淡々と告げた。

 判断や評価の類は外へ渡さない、という言葉だと咲貴も理解した。


「咲貴は、今夜はもう休め。水桶と冬馬を付ける」


 ボヤ騒ぎまで見抜いたように、公介は淡々と続けた。


「かしこまりました」


 咲貴にかわって、冬馬が短く答える。


「皆に、言っておく。宗像に対する余計な詮索は不要だ」


 ささやかなざわめきが起こるが、公介の咳払いひとつで消え、不可侵の空気だけが残る。


***


 部屋へ戻る廊下は、さっきより現実の匂いが濃かった。屋敷の匂い、布の湿り、人の気配。どれも火を煽る匂いではないのに、胸が少しだけざわつく。


 咲貴は自分の部屋の前で足を止め、掌を見た。指の隙間に残る血の匂いが薄くなっている。薄くなった代わりに、戦場で嗅いだ煤の匂いが鼻の奥に居座っている。煤は、痣のように消えない匂いだった。それを抱えたまま宗像は生きる。咲貴もその列に入った。


 部屋に入ると、水桶が二つ置かれていた。置き方が几帳面で無駄がない。火が出たときの動線が計算されている。


 冬馬が部屋の隅に腰を下ろし、手を膝に置いた。寝るのでも、見張るのでもない。咲貴の呼吸の拍を、勝手に整える位置にいる。


「さっきの槍」


 冬馬が唐突に言いかけて止めた。


「……言うたらあかんか」


 咲貴は首を横に振って、言葉を減らしたまま答えた。


「怖かった」


 冬馬が少しだけ驚いたように目をぱちくりさせてから、遅れて小さく頷いた。理解の形だけがそこにある気がした。


「宗像の槍を握ったら、内も外も物語作るしな」


 内も、という言い方が重い。宗像の内側でも物語は生まれる。物語は役目に変わり、その役目が首輪に変わる。


 咲貴は敷布の端に指を触れた。焦げ跡がまだ残っている。その事実が胸の奥で妙に痛い。


「冬馬」


 名を呼ぶと、冬馬が顔を上げた。


「私、今日、動きを……」


 言いかけて止め、言葉を選び直す。


「真似たんだ」


 冬馬の眉がほんのわずかに動いた。そこには驚きはなく、見ていた者の落ちつきがあった。


「あれ、昔からか」


 冬馬の声には決して責める色はないが、咲貴は素直に頷けなくなっていた。曖昧に逃げるのではなく、必要な分だけ言葉にすべきだと唇をかんだ。


「小さい時から、一度見たら、身体が勝手に出来てしまうことがある」


 冬馬はそれ以上聞かない。


「それ、誰にも絶対言うな」


 咲貴は息を吸い、吐いた。吐きながら胸の底で小さく笑ったのに何も言葉が出てこない。

 冬馬の声が柔らかいほど、咲貴は返事を喉の奥へ沈めた。


「もう、寝ろ。回復が優先や」


 眠る間の火は怖いのに寝なければ回復できず、必要な時にまた視界を反転させかねない。

 咲貴は敷布へ横たわった。


「休ませてもらう」


 目を閉じる直前、泉の水面を思い出す。葉の縁だけを燃やす修練。水を乱さず、火を境界へ置く修練。静かな場の話だと思っていた。けれど今日、戦場で境界を作れた。作れてしまったから、布都御霊を呼び出すことに繋がってしまった。それが境界の外へはみ出したようで怖い。


 咲貴は胸の奥で小さく自分に言い聞かせた。


 境界だけを護ればいい。


 言葉にしないまま、息の拍で唱える。


 しばらくして、鼻腔に焦げた布の匂いが忍び込んだ。夢と現が、また境目を揺らす。


 頬に刺すような熱は、今度は来ない。来る前に冬馬が動いたのか、水の匂いが空気に混じり、布の端が濡れる小さな音がした。


 咲貴は半分眠りの底で思う。


 志貴はこうやって生きてきたのか。胸の奥が、冷たい針で一度だけ縫われた。

 だけど、泣いている場合じゃないと、息だけを整えた。


 眠りは浅い。浅い眠りの縁で、誰かの気配が一瞬だけ触れた。


 望の匂いとも冬馬の匂いとも違う。宗像の屋敷の匂いでもない。もっと遠い。もっと底にある。水の底のような匂いだ。


 咲貴は目を開けない。目を開ければ、そこに誰かを見てしまう気がした。


 代わりに胸の底で、問いを残す。


 あの槍は、自分が呼んだのか。

 それとも、もっと古い双子の何かが、咲貴の掌を借りただけなのか。


 問いは答えにならないまま、眠りの底へ沈んだ。

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