第39話 あをによし 仮王の火は 夜に揺れ


 水音が、息づいている。

 湧き出る水は細く、清かで、まるで誰かの寝息のようだった。その泉の奥、淡く光の差す石の御座に、志貴は静かに横たわっている。


 夜より深い黒の髪が泉面にゆるく触れ、風もないのに、さらさらと流れるように揺れていた。


 志貴の身体を包むのは神前の浄衣だ。けれど“衣”という名で括りきれない。人のために織られた布ではなく、神に近いものを傷つけぬためにだけ残された柔らかさがある。

 透ける麻衣が肩先から落ち、うなじを撫で、胸元へかかる線が、炎のゆらめきみたいに形を変えていた。


「……志貴」


 低く、深く、声が零れた。誰に向けるでもない。志貴の眠りへだけ届けばいい、そんな響きだった。


 膝をつき、傍らへ身を寄せる。片手を泉へ差し出し、水面をゆっくり撫でた。もう片方の手は、志貴の長い髪へ伸びる。

 さらりと指先ですくいあげると、一房が頬へ触れた。


 “赦し”の理へ沈んだ千年王の身体は、炎の芯みたいに凪ぐ。熱だけが奥に残ることを、楼蘭の眠りで見せられていた。

 指でそっと梳き、額へ手をあてた。


「……まだ熱いな。ゆっくり落ち着かせたらええよ」


 自分の長い髪がふと垂れ、志貴の頬にかかった。そのとき、まぶたが、わずかに震えた気がした。


 封域に風はない。けれど、ふたりの間だけで波が立つ。密やかすぎて、呼吸の拍さえ乱せない。

 頬を寄せるようにして顔を覗き込み、自分の髪が志貴の鎖骨のあたりへ落ちるのを、ゆっくり確かめる。目を閉じた。この距離でしか渡せない温度がある。


 八雷たちはその様子を面白がり、無邪気な声を散らして騒いだ。


「くすぐったいんじゃない?」

「志貴様、起きちゃうよ?」

「でも、喜んでるよ」

「照れてる」


 八つの夜の眷属は、時に志貴の髪を巻き取り、時に布を整えながら、その身体にまとわりついていた。

 誰よりもこの眠りが神聖であることを知っているのに、誰よりも遊びたがる。


「……志貴様がさ、“出してやれ”って」

「退屈してるの、分かるもんね」

「勝手に動いたら、怒られちゃうから」


 その声に、口角がわずかに上がってしまう。

 焼ける手間さえ、ここでは腹が立たない。


「好きにしぃ。ただし、やりすぎるな」


「やったぁ!」

「“やりすぎるな”だって、“少しならいい”ってことー!」


 ぴょんぴょんとはしゃぐ八雷たち。愛らしくもあるが、その“火”は宗像の山一帯を灰に帰すほどの力を秘めている。


「ほんまに、ほんの少しだけしかあかんで。咲貴は志貴と違う。簡単に灰になってしまうから」


 一斉に首を傾げる小さな炎たちへ、言葉を継ぐ。


「武器になるまでなら許す。けど、志貴みたいに魂に触れたらあかん。約束できるか?」


 八雷たちは不服を露わに沈黙する。


「“咲貴を護れ”と、志貴が言うたんと違うんか?」


 八雷たちはそうそうと頷きあう。けれど不安げに視線を交わす。


「壊してしもたら、志貴に嫌われるってことやろな。……俺は願ったり叶ったりやけどな」


 今度は一斉にまとわりつき、髪を引っ張って不本意だと示された。


「俺は志貴を独占する気やから、何なりと好きにしてきたらよろしいで?」


 八雷たちが、一心の髪の先を燃やそうとして、ぴたりと止まる。


「志貴様が、一心を傷つけたら怒るって」

「えー、一心なんか、燃えても平気だよね?」


 一心は舌打ちしながら、指先で、パチンと一匹をはじきとばす。


「俺にいらんことしたら、志貴に怒られるんと違うか?」


 今度は一斉に志貴へまとわりつき、甘えるような声を出した。


「遊ぶんは後や。早よ、咲貴を手伝ってやって。それが結果的に志貴を護る。……俺は、ここから出るつもりないからな」


 再生が終わるまで、この灯は他の誰にも触れさせるつもりはない。


「志貴様が寂しくなるのは駄目だよね」

「一心がいないと、志貴の光が濁るから」


 外で何が起きようと、ここを離れるわけにはいかない。


「一心、でかけてくる」

「留守番、しっかりね」


 八雷たちはくるりとまわると、封域から飛び出していった。飛び去る風に、志貴の衣が一瞬だけ揺れた。


「……志貴」


 もう一度、その名を呼ぶ。呼びかけではない。この百日間、ひとりで呼び続けるための音だ。

 眠りが深まるほど、志貴の名は軋み、理は世界から滑っていく。


「俺が、消させへんから」


 忘れられていく流れのただ中で、いちばん近い場所から、名を示す。


 そのとき、封域の結界が淡く波を立てた。


「お邪魔だったでしょうか?」


 結界の揺れに混じり、扉がすうと開く。檜の香が、月下の記憶みたいに泉の波紋へすべり込んだ。

 濃紺の衣の影、ヨルノミコトが音もなく立っていた。歩みに連れて揺れる香は、夜の記憶のように懐かしく、遠い。


「外が揺れています。……私も出ましょうか」


 一心は静かに首を横に振る。


「お前がそんなことを言い出すってことは、咲貴に、冬馬と狐でもついたんか?」


 ヨルノミコトが静かに瞳を伏せる。


「咲貴には、厳しすぎるかもしれへん。けど……選択肢はそれしかあらへんやろ」


 咲貴は、空白のまま立ち続けている。その気配が、辛うじて志貴の理を引き留めていた。咲貴が崩れれば、それも途切れる。


「……壮馬さんは?」


「沈黙しています。志貴様の“焔”をまともに受けた影響でしょう」


 ヨルノミコトはただ泉を見つめている。


「志貴様の“焔”は、魂そのものを焦がしますから。……それでも私は、それを静かに拝しているのが心地良い」


「諸刃となりかねん物を、心地良いって?」


「泉が枯れ果てるほどの焔でも、志貴様のものであるなら、焼かれても構いません」


 ヨルノミコトは困ったように笑う。


「夜の目は、見たいものしか見ません。けれど、志貴様の焔は、見たくなかった理まで照らしてしまう。それでも、私にはそれが美しいと映るのです。夜が照らされる瞬間にしか、赦しの影は現れませんから」


「贔屓は相変わらずやな」


「夜の者とは、そういうものです。月光に焼かれることに、慣れておりますので」


「宗像がお前のようであれば済むんやがな」


 そうとは限らない、と喉の奥でつぶやく。

 一心は宗像の進退を口にしない。だが、志貴にはその沈黙が許されない。

 ヨルノミコトが心配そうに、こちらを見る。


「わかってる。……帰りたい場所を失わんようにせんとな」


 泉の石畳へそっと膝をつき、志貴の頬に、もう一度、長い髪をかすらせる。囁きは、声になりきらないまま落ちた。


「お前が護りたいと願うものだけは、俺が、壊させへん。……ただし、今は、や」


 唇が額へ触れた瞬間、泉の水面が音もなく、ゆるやかに円を描く。中心で、まぶたがほのかに震えた。


「もしもの時は、嫌やと泣き喚いても、宗像を捨てさせる」


 世界が、呼吸をひとつ、止めた。その一瞬に、火も、理も、赦しも、ただ志貴の名へ還っていく。泉の奥底に、紅の花が一輪だけ咲いたようだった。


 衣の端が、水の揺れに合わせて淡く持ち上がる。呼応するように、魂がこちらを見ている気配がした。



***


 中継ぎの王となった咲貴は、“転校生”として日常へ放り込まれた。冬馬も“朔”として隣に置かれる。逃げ道のない成り行きだ。


 冬馬は朔として寄り添うと言っても、手を引くわけじゃない。隣に立つ距離を、いつも向こうが決める。咲貴の息が詰まる位置を、わざと外してくるみたいに。


「……同じ学校にされるとはな」


 咲貴の指が止まった、その一拍を見届けてから、冬馬が髪を掻きながら呟いた。


「お前、下手くそか」


 咲貴は制服のリボンを必死に結んでいた。指先がうまく動かない。焦げないように、と身体のどこかがずっと見張っている。


「学校とか、当たり前に行かせるわけね……宗像は」


 声に、苦笑と諦念が混じった。結び終えたリボンから指を離すと、布の端がきゅ、と鳴った。その音が、皮膚の内側へ引っ掛かる。


「力を必要としない環境で制御しろって……今の私には、本気で笑えないのよ。どうやって、学校生活してたんだろ……」


 志貴は、こんなふうに過ごしていたのだ。宗像の名を背負ったまま、何食わぬ顔で教室の椅子に座り続ける。

 咲貴は呼吸を揃え、同じ姿勢を保つことの重さを思い知った。

 気を抜けば、リボンひとつ結べない。指先が布へ触れた途端、香の圧が薄い膜みたいにまとわりつき、神経がそこだけ引き絞られる。肌の奥で熱が泡立ち、息を吸う拍ひとつで、線がずれそうになる。指にかかる力をわずかに変えるだけで、結び目がほどけ、形が崩れる。

 逃げ場も、冷やす手もない。痛みは、外からではなく、いつも内側から這い上がってくる。

 志貴はこれを毎日やっていた。


「わたしは、馬鹿だ!」


 咲貴はしゃがみ込んで、喉の奥から声を叩きつけた。

 双子で、隣に立っていながら、何を見ていたのか。苛立ちが熱を連れて上がってくる。


「そら、間違いない」


 返事が早すぎて、咲貴の息が半拍、戻れなかった。

 笑いも慰めも挟まらない。言葉だけが乾いて落ち、胸骨の裏で硬い音を立てる。


 舌打ちは喉まで上がった。火が跳ねる、と遅れて気づいて、奥歯で噛み殺す。噛んだところだけ、熱が残った。


「けど、今のお前、なかなかいい顔やで」


 褒め言葉のはずなのに、咲貴の肩は軽くならなかった。

 触れも支えも来ないまま、言葉だけが置かれる。置かれた場所が熱を持って、背中の皮膚が薄くなる。褒められた、とは言い切れない感触だけが残った。


「いくで。出来損ない」


 額の真ん中を指ではじかれ、咲貴は唇をかんだ。

 冬馬は振り返りもしない。言い放っておいて、さっさと玄関を出ていく。置き去りにされたのは言葉だけで、咲貴はそれを踏まないように立つしかない。


 登校初日。ボヤ騒ぎを起こさなかっただけでも、上出来だった。それでも、誰にも馴染めないまま日が暮れた。


 黄泉使いの末端の血筋は“宗像”という名を恐れ、遠巻きにする。教師は異様に丁重すぎて、生徒たちは距離を取った。咲貴は“宗像”という名の重さを、皮膚の内側で感じ取る。


「……さすがに、落ち込むわ」


 結局、隣に残ったのは冬馬だけだった。その事実が、慰めより先に刺さる。項垂れるしかない。


「お前、気ぃ遣いすぎちゃうか」


「どういう意味?」


 冬馬に対して思うところはあるが、口にするだけでも馬鹿馬鹿しいとも思う。


 咲貴と冬馬は宗像本家へ続く帰り道を並んで歩いていた。霊域の夕暮れは香が満ち、微かな風が匂いの筋を揺らす。香が濃いほど、火は静かにしていなければならない。気を張り過ぎて、滅入ってしまう。


「咲貴、避けろ!」


 冬馬の声とともに、闇から何かが跳ねた。


 黒衣の影は、人でありながら、もう人ではない。肢は関節が逆に折れ、目元は皮膚ごとただれ、口元には噛み潰した骨がこびりついていた。

 呻きとともに牙が伸びる。首筋へ迫る気配に、咲貴の身体が先に固まった。


「や、……やめッ!」


 悲鳴の途中で、冬馬の刃が閃く。炎を纏った刀が黒衣の者を斬り裂いた。香が爆ぜ、異形が崩れ落ちる。焦げた匂いが鼻へ刺さり、咲貴は息を吸い損ね、喉の奥が詰まる。


「……今の、何……」


 咲貴の肩を抱えたまま、冬馬が呟く。


「……冥府の特殊部隊……いや、違う。あいつらやったら、こんなに甘ない」


「どうして、わたしが……狙われるの?」


 声が震えるのを止められない。


「大丈夫か」


 背後の気配が先に香を運んできた。宗像の当主の匂いだ、と身体が知る。


「これが、宗像本家の日常や」


 振り返るとやはり公介だった。いつの間にか、ではない。こちらが気づく前に、当主はいつもそこに立つ。咲貴の肩へ置かれた掌は、支える形をしているのに、退路だけを正確に塞いだ。


「志貴がどれだけ狙われ、どれだけ危うい場所で生きていたか……お前が今、それを体験してるだけや」


 最後の“だけ”が、肩に置かれた掌と同じ場所へ落ちた。

 慰めの形をしていない。震えは寒さではなく、言葉が骨に当たった反動だ。肩に置かれた掌の重さが、そのまま内側へ沈み、皮膚の裏を撫でるように冷えていく。触れられているのに、守られていない感触だけが残った。

 怖さは引いたはずなのに、喉の奥の冷えだけが、遅れて残った。

 その冷えを追い払おうと息を整えるたび、火の芯がくすぐられ、口の中が乾いていく。


「宗像が狙われるのは知っていたけど……昼間でも?」


 口にした途端、咲貴は自分の甘さに気づいた。昼か夜かなど、狙う側には関係がない。


「のべつまくなしや。宗像の血肉は、喉から手が出るほどの価値がある。劇的に化けさせる、“賢者の石”扱いや」


 当主の声音は淡々としていた。言葉の切れ目が短く、息の逃げ道だけが消えていく。


「……それの王ともなれば、こうなると?」


 そう言いながら、咲貴は自分が“王”と呼ばれている事実を、今さら喉で噛んだ。


「……一心が露払いしてたから、志貴は二割も認識してなかったやろけどな」


 二割。

 数字にされた瞬間、咲貴の喉がひゅ、と鳴った。胸が縮むより先に、呼吸が擦れる。

 その二文字が舌の裏に貼りついて、剥がれない。志貴の周りに、燃えた匂いのしない“焼け跡”があったのだと、遅れて分かる。咲貴の腹の奥で悔しさがくしゃりと折れ、別の痛みに変わって残った。明るい場所へ出されたみたいに、肌がひりつく。


 一心は、血の並びでいえば従兄ゆえに近い。けれど、その近さが、咲貴に届いたことはない。

 目が合っても、合ったという手触りだけが残る。冷たい視線が一枚、置かれて終わる。咲貴へ向いたことのない温度のまま。


「一心は……志貴だけだよね」


 口に出た瞬間、胸の内側がきゅっと縮んだ。

 しまった、と思うのが遅い。言葉はもう空気に乗って、戻らない。


 ふいに、冬馬と公介の視線が集まった。冬馬の目は一拍で戻ったのに、公介の目だけが残る。残ったまま、咲貴の輪郭をなぞっていく。唾を飲もうとして飲み損ね、喉の奥が乾いたまま鳴った。舌が上顎に貼りついて剥がれない。


「えぐいほどの依怙贔屓。……さすがに悔しかったんか?」


 “悔しい”という単語が、咲貴の皮膚を内側から叩いた。火ではない場所が、じり、と疼く。


 幼い頃から志貴はいつも一心に抱き上げられていた。咲貴は、それを見上げたことしかなかった。


「……悔しいというより、寂しかった」


 口にした瞬間、喉が痛んだ。声にすると、寂しさが形を持ってしまう。


「“津島の子”って言葉はさ、それだけで、自分が外側にいるって分かっちゃうから」


 口にした途端、空気が一段冷えた気がした。

 公介は否定しない。

 否定しない沈黙が、宗像の形をそのまま咲貴の胸へ押し当てる。息を吸うほど、押し当てられた輪郭がはっきりしていく。


 それでも、今なら分かる気がした。一心が志貴だけに寄り添った理由を。

 咲貴は、目の前に落ちた異形の残骸を見ないようにして、足元だけ見た。


「志貴には、これが日常だったんだね……」


 こみあげてくる嗚咽が喉をふさぐ。泣きたくないのに、息が勝手に震えた。

 冬馬が隣にそっと寄り添う。だが、いつも通りの距離のままだったことが可笑しくなる。


「志貴は、咲貴が思うほど不幸やなかったと思うで?」


 慰めの声ではなかった。だから余計に、逃げられない。


「狙われることなんかより別のことに気ぃ取られてたくらいや。……ずっと、咲貴みたいに技量や才覚が無いって嘆いてばっかり」


 咲貴は目を見開く。


「運動神経も、センスも、皆無やった。……知らんかったやろ」


 知るはずがなかった。志貴の美しい火だけを見て、勝手に“強い”と決めていた。剥がれるのは思い込みだけのはずなのに、胸の内側まで痛い。


「王の力を使わなければ二流以下。そんな自分を、志貴は嫌ってた。だから血に頼りたくなくて、必死に訓練してたんや。一向に上達することはなかったけどな」


 公介が静かに続ける。


「宗像らしいのは、咲貴やと俺は思ってる。……一心も、な」


 褒め言葉のはずなのに、背中を押される感触がない。代わりに、役目を渡される重みだけが落ちてくる。咲貴は拳を解く。握っていたものがほどけても、肩の上に置かれた掌の重さは消えない。


「志貴、阿呆なのかな……。あんな美しい火を扱えるのは、あの子だけなのに」


 志貴の火は、灯台の灯みたいだった。誰かの道を照らし、静かに揺れて、痛みさえ包み隠してしまう。


 咲貴の手元に灯る火は、それとは違う。抉り出した自分の奥から噴き出してくるような火。

 誰かを癒すためのものではない。咲貴の内側を燃やして、焦がして、それでも残ってしまうような火だった。


「……綺麗じゃない、よね」


 呟いて、ふっと苦笑する。


「でも……これが、わたしの灯なんだよね」


 指先に残る蒼の痕。それが、志貴とは違う“自分の火”だと、ようやく受け入れられた気がした。


「志貴が、私を買ってくれてるならやらなきゃね」


 その言葉に、公介が目を細める。


「さっきのはびっくりしたけど……次は大丈夫」


 そう言って、咲貴はポケットから和紙に包まれた飴玉を取り出した。志貴のは赤。咲貴のは、蒼。それを迷わず口へ放り込む。


「おい、それ!」


 冬馬が慌てたように叫ぶが、咲貴は受け止めず、言葉を切り捨てるみたいに並べた。


「私は、使えるものは全部使う。狐でも、冬馬でも」


 確認するように指先を鳴らす。蒼白の火が、手元にしっかりと灯る。


「咲貴……“使う”って言い草はよせ」


 冬馬の声が、かすかに震えていた。触れている場所が分かってしまいそうで、咲貴は見ないことにした。


「そうも言っていられない。期間限定なら、尚更、やりたい放題でいかなきゃならないんだから」


 日が沈みかけていた。けれど、咲貴の香は、確かに灯っていた。



***


 蒼の灯が、咲貴の口の中で砕けた。

 甘いはずの飴の香が、霊域の夕暮れに溶けるより早く、別の匂いへ変わる。

 鉄でも、硫黄でもない。宗像の火の系譜に属しながら、どこにも収まらない匂いだ。望は、その反転を“嗅いだ”だけで足を止めた。


 香の層に裂け目が生まれるのは珍しくないけれど、そこを通ってくる気配の質が違う。

 宗像の火は、いつも筋がまっすぐで、揺れない。祈りの形をしたまま、世界の縫い目へ戻っていく。


 望は笑っていなかった。状況は笑うほど軽くはない。宗像の香が、いつもの形からわずかに外れるのを捉えて、口元だけを緩めた。


 香の裂け目の最深で、白銀の面が淡く揺れた。面の内側は暗いはずなのに、灯はやけによく見える。見たいものしか見ない夜の目が、勝手にそこへ焦点を合わせる。


 蒼白の火が、咲貴の指先で揺れて、消えようとしない。消えない灯は、いつだって厄介で美しい。


 宗像志貴の炎は、目に馴染みすぎていた。香の筋も、揺れの癖も、もう数えられる。

 美しすぎて、壊れもしない。

 触れれば焦げ、焦げてもなお、祈りの形を崩さない。あれは赦しの火だ。

 赦しは、香を鎮め、世界は静かになり、夜は沈黙するしかなくなる。

 静けさは悪くない。けれど、それだけでは夜が長い。


 咲貴の火は、違う。まだ名を持たず、枠に収まらない。未熟で、未完成で、暴発寸前。それでも、王の器へ寄ろうとしている。

 香の縁が、火に押されて軋む音が、面の奥まで届く。


「……愉快なものだね」


 声は裂け目の内側でのみ鳴った。外の風には混ざらない。


 志貴は“使う”と言わなかった。

 火を祈りとして扱い、祈りのまま燃やし、最後まで、踏まなかった禁足地がある。それを、咲貴は自覚すら持たずに踏む。


「宗像の王が、“使う”と言った」


 吐息のように言葉を落とす。神を、人を、理を、選り分けることなく手札へ並べる匂いがする。


「志貴は賢い。力の構造が何をもたらすか、わかっていた。だからこそ、あの子は赦しを選んだ」


 面の内側で、瞳が細くなる。嗤いでも、軽蔑でもない。ただ、測っている。


「では、君は……何を灯す?」


 咲貴の火は、癒す火ではない。誰かの傷口に宿る火だ。

 己の傷を呑み、人の憎悪を呑み、それでも灯そうとする。毒のように焦がし、焦げを残したまま、消えない。


「……選ばれぬ火ほど、世界を焼く」


 望は、蒼白の灯から目を逸らさなかった。選ばれぬ火が焼くのは、敵だけではない。系譜も、契約も、そして宗像の“形”そのものだ。咲貴がそれを理解していないことが、なおさら厄介で、面白い。


「私は、志貴が戻らなくても構わないよ」


 香の層が、ざわりと揺れた。揺れたのは世界ではない。望の内側に沈んでいた古い楽しみだけが、息をした。


 赦しの火は、整うのが早い。揺れがほどける前に、形だけが先に揃ってしまう。

 望は、その早さを退屈だと思っていた。

 千年王の焔が満ちるほど、夜は手を伸ばす場所を失う。沈黙のほかに、居場所がなくなる。


 望は静かに言い切る。


「咲貴。君の火は、まだ名を持たない。だが、忌避されぬ毒は、いずれ王冠になる」


 面の奥の瞳が、蒼白の火を見据える。泰介にさえ見出せなかった“毒の火”。宗像の中で育つはずのなかった灯をみつけた。


「君は、蒼を忌避しないのだね」


 香の裂け目に降り立つ気配を、望は自分で呼ばない。呼ばずとも寄ってくるものを、望は追い払わない。


「試すのも悪くはない。“志貴なき宗像”を、毒によって保てるか」


 言葉の最後に、薄く笑いが混じる。面白くなれば、なおさら、寄り添うことすら、悪くない。


「……あの男が、どこまで抗うか」


 面がふっと闇へ消える。そこに存在しなかったかのように、香の裂け目だけが閉じていく。

 咲貴という名を、宵の中に残したまま。



***


 記録層の光は、冷たい。


 黒鉄の座は無機質な光環に覆われ、そこに座る者の影だけが濃く落ちる。

 紙も墨もない。香を束ねた記録が、空間に層として沈殿し、必要なものだけが引き上げられる。


 男は指先で、その層へ触れた瞬間、蒼白の灯が像となって立ち上がる。薄い炎だ。薄いのに、消えず、全く系譜が見えない。


「“宗像志貴”ではない……。だが、これは」


 声は氷のような音で落ちた。男の瞳は、像の揺れから一拍も外れない。背後で控える記録者たちの気配が、息を潜める。


「毒の灯、か……」


 指先が像の縁をなぞる。記録の層は応えない。照合の刻みが、どこにも噛まない。


 像の蒼白が、光環の内側へ収まらない。収まらないまま、薄い脈だけを打つ。男は息を吐き、指を止めた。


「……律の外にいる。だから消えん」


 男は背後を振り返らない。振り返る価値のあるものだけが、視界に入る。今、価値があるのは蒼白の灯だ。


 宗像志貴の炎は、美しすぎた。美しい炎は、記録に残せる。予測できるものは、退屈だ。


 男は薄く息を吐く。


「ようやく、来たな。“記録に残せない火”を持つ者が」


 指を鳴らす。軽い音が、光環へ吸われた。

 記録者たちが姿勢を正す気配だけが返る。


「このまま、観測を継続せよ。“正統なき宗像”が、どこまで暴走するか見届けてやる」


 背後から、控えめな声が上がった。


「本当に、二人目の王格でしょうか?」


 男は答えなかった。像の縁へ視線を落とし、層位の刻みを一つずつなぞる。

 まだ噛み合っていない。名は、照合が終わってからだ。揃わないものへ先に札を貼るのは、記録者の悪癖だ。


 沈黙ののち、男が短く笑う。笑いは温度を持たない。


「王か否かなど、些末なことだ。宗像が規格外なことは織り込み済み。今ある問題は」


 言葉を切る。その切れ目に、記録層がわずかに鳴った気がした。像の蒼白が、一瞬だけ脈を打つ。


「……“宗像志貴ではない”という事実だけだ」


 男の瞳は、地上の香の裂け目の奥で揺れる“仮王の火”を見据え続けた。目に残るのは、拾うべき層だけだった。残らないものは、焼け跡すら残さない。


 蒼白の灯は、まだ名を持たない。

 だからこそ、観測の価値がある。

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