第37話 葉燃ゆる泉に 灯を覚ゆれば(前編)
鼻腔へ入り込んだのは、焦げた布の匂いだった。夢の内側に残っていた甘い靄が、その一息で裂け、現が輪郭を取り戻す。
頬が遅れて熱い。刺すような熱が、皮膚の上で止まらず、奥へ噛み込んでくる。
咲貴は目を開けた。
白い敷布の端が、赤黒く縮れている。火は小さい。小さいくせに、息の出入りに合わせて脈を打つ。繊維を舐め、じわりと白を奪い、煙だけを薄く増やしていく。音がない。その無音が、気づいた瞬間の怖さを倍にした。身体が先に怯え、心が遅れて追いつく。
喉が渇き、声が擦れた。
「……嘘」
跳ね起きた拍子に、胸の内側で熱がぐらりと揺れた。眠りの底から溢れたのは自分の火だと、理解が追いすがってくる。意識で掴む前に、身体が吐いたものが布を焦がしている。
「やば……っ、どうしよう……!」
慌ててしまい、思わず掌を動かす。火は素直に跳ねた。嘲っているのではない。焦りを合図と取り違えたみたいに、慌てるほど勢いを得る。火が先に応え、怖さを増幅させる。
ぱちり、と小さく鳴った。
欠片が跳ね、敷布の別の端へ触れる。白が一息で赤黒に染まり、煙が太る。咲貴は反射で後ずさった。退いた分だけ、火が大きく見える。
その瞬間、冷たいものが顔へ叩きつけられた。
ざばっ、と水が飛ぶ。頬も首筋も一気に冷える。熱の輪郭がいったん剥がれ、皮膚が正気を取り戻す。
濡れた髪が額へ貼りつき、視界が滲む。掻き上げて振り向くと、水桶を片手にした冬馬が立っていた。濡れた床を見下ろしているのに、眉ひとつ動かさない。叱っても驚いてもいない。火を止めた者の顔だ。
「寝ながら発火とはな。王の血、洒落にならんわ」
「わたしだって、どうしていいかわかんないんだから!」
冬馬は肩を竦めただけだった。口元をわずかに動かし、短く息を吐く。怒気のない呼吸のまま、焦げ跡へ視線を落とした。指で触れはしない。距離で確かめる。慣れた手つきが、昨日今日のものではない。
「初回にしては可愛いもんや。大事にはなっとらん」
咲貴は息を吐いた。途端、焦げの匂いが喉の奥へ張りつき、咳になりかける。遅れて膝が笑いそうになる。立っているのに、内側だけが座り損ねたみたいに頼りない。
冬馬が水桶を脇へ置き、ぽつりと言った。
「志貴はちっこい時から寝ぼけて、しょっちゅうボヤ騒ぎ起こすから、一心が火の用心係してたわ」
言い方は軽い。けれど声の底が重い。懐かしさと呆れと、あたたかさが同じところで澱んでいる。咲貴は目を伏せ、髪の先から落ちる水滴を見た。床へ沁みた跡だけが黒く残る。火は消えたのに、匂いだけが居座るみたいに。
「よぉ燃えてたで。俺も何回か昼寝で巻き込まれて、びしょ濡れになったことある。でも、それが“普通”やったんや。あいつにとってはな」
普通、という言葉が胸に刺さる。宗像では、その言葉がいちばん残酷になることを、咲貴はこの数日で知り始めていた。
「……見えない敵と戦ってるみたい」
言い終える前に、冬馬が首を振った。
「そう思えてるうちは、まだ大丈夫や。怖がれるうちはな」
一拍置いて、困ったみたいに笑う。笑いは短い。すぐ消えて、目の奥の真面目だけが残る。
「そばの誰かが受け止めて対処するのが当たり前やった志貴なんか、一度も怖さなんか認識せんままちゃうか」
胸の奥へ、その言葉が落ちる。咲貴ははっとした。志貴が火を扱えたのではない。火が暴れても折れない“傍”があったのだと、輪郭が立つ。
「……じゃあ、わたしは、どうしようもないじゃない」
冬馬が一瞬だけ迷った顔をした。その迷いが咲貴にも分かる。
それでも冬馬は言う。
「俺は基本、水かけるだけや。根本から教えられん。けど……教えられるやつなら、おるやんか」
「誰よ」
「狐や」
その名を聞いた瞬間、背筋が冷える。あの夜、志貴を巡って言葉と約束を交わした存在。嫌悪と恐怖の奥に、逃げ場のない現実がある。
咲貴は濡れた指先を握り、短く息を整えた。
冬馬が桶を持ち上げる音が、濡れた床に鈍く返る。
それだけで、さっきまで火がいた場所が現実として固まった。消えたはずの熱の輪郭が、まだ頬の裏に残っている。咲貴は濡れた髪をまとめながら、焦げの匂いが喉の奥へ貼りつくのを感じた。吐き出したいのに、吐けば息が乱れ、火がまた応えそうで怖い。
「狐が、助けてくれる?」
冬馬は頷かない。頷きは肯定になるからだと、咲貴はこの数日で学んでしまった。代わりに桶を置き、手の甲で濡れた袖を払う。
「東の果てにある禁域の庭の泉、知ってるやろ」
命令ではない。けれど逃げ道を残さない言い方だった。知っているだろう、の奥に、宗像の内側で共有されている段取りが透ける。咲貴はその透けを飲み込み、息だけを整える。
「あそこでなら、狐が答えを返すかもしらん」
答え、という語が喉の奥の釘に触れた。答えは救いじゃない。咲貴には危険だ。
敷布が焦げた程度で済むうちはいい。次が壁なら、屋敷に被害が出る。
咲貴は唇を引き結び、頷いた。返事ではない。決めた、という所作に留める。
「……分かった。行く」
冬馬が一拍、目を細めた。そして、ほんの少しだけ、表情に影がさした。
***
廊下へ出ると、屋敷の冷えが足裏へ刺さった。濡れた髪が首筋に貼りつき、そこだけが妙に温かい。温かさがあるぶん、火が居座りたがる。咲貴は意識を逸らすように歩いた。
東の果ての庭へ向かう道は、奥へ潜るほど山の匂いが引いていく。木の脂も衣の湿りも遠ざかり、残るのは石の冷えと、乾いた葉の擦れる音だけになる。
目的地に着くと、曇天が重かった。光はあるのに温度がない。風がないのに、葉が一枚だけ揺れた。揺れは遅れて止まり、止まったあとに静けさが戻ってくる。
泉はそこにあった。
澄んだ水面が鏡みたいに空を映す。覗き込めば覗き込むほど、自分の内側が覗かれる気がした。
泰介がよく訪れていた、と聞く。似ているという父の名を思い浮かべるだけで、口の中がかさつく。そのかさつきに火が寄るのが分かる。
咲貴は小石を拾い、泉へ投げた。
波紋が広がらない。石は音も立てず、すうっと吸い込まれていく。水面が揺れないのに、胸の内側だけがざわついた。揺れているのは水ではない。咲貴の火だ。
「いる気がしたんだけどな……」
独り言が落ちた瞬間、空気の密度が変わった。
音でも匂いでもない。皮膚の内側だけを掻かれるような存在感が背骨を撫でて通り過ぎる。振り返るより先に、首筋が冷えた。
木立の陰に、望がいた。
片目にかかった髪。輪郭が此岸から半歩ずれているみたいに気配が薄い。薄いからこそ、視線が当たった瞬間に逃げ場がなくなる。
咲貴は唾を飲み込み、喉が鳴らないよう舌を押し当てた。
「……何か用か?」
望の声は柔らかいのに硬い。問われた瞬間、咲貴の身体が先に固くなる。
「望、お願いがあるの」
息をひとつ飲み、言葉を押し出した。呼んだ名が本当かどうか、咲貴にも分からない。それでも名だけは落とさない。
「火の制御方法を、教えてほしい」
望は瞬きもしない。咲貴を見ているのに、皮膚の上だけを見ていない。視線が、もっと奥へ沈んでいく。
「わたしには先生がいないから」
声が震えたが、震えを殺さず言い切った。
「自分で制御するしかないだろう」
望の視線が泉へ逸れる。水面ではなく、その奥を見ているのが分かる。
望は低く囁いた。
「志貴は制御などしていなかったはずだけど」
胸がひゅっと冷える。冷えの奥で火が反発する。
「その火を、一心が受け止め続けていただけだよ」
淡々としているのに、胸の奥が痛む。事実が刺さるから、余計に問いたくなる。
「……志貴は、火を制御しないってこと?」
望はすぐに答えない。泉の上を、風がないのに葉が一枚だけ滑るように落ちた。落ちても水面が乱れない。乱れないから沈黙が目立つ。
望の声が少し遠くを見る。
「志貴は燃やされることを、選んだ」
胸の奥を冷たく貫く。強さの言葉じゃない。傷の言葉だ。咲貴は宗像の座の乾きで、それを理解してしまっている。
喉の釘に触れないよう息を吸い、次の問いを慎重に置いた。
「宗像に、火を制した人はいない?」
望が一歩、泉へ近づく。足音がないのに距離だけが詰まる。
「いたよ。志貴の……前の、その前の紅の王」
水面を指ささない。代わりに言葉の向きを泉へ揃える。
「彼はここで火を制した。水の中で、火を知ろうとしていた」
淡く息を吐く。その吐息が水面を乱さないのが、逆に異様だった。
「泉に葉を浮かべて、その先だけを燃やす」
望は、葉の先だけを燃やす。水へ触れさせず、揺らがせずに。暴れを押さえつけるのではなく、境界を覚えさせる。宗像の槍の作法みたいに、ここから先へ行かせない。
「炎にとっての理は、境を守ることだと、そう語っていた」
望が指を鳴らす。
音は小さいのに、空気が一度だけ変わる。ふっと風が吹き、泉へ一枚の葉が落ちた。落ちた瞬間、葉の先端が淡く朱に染まり、香がほのかに立つ。燃えているのに水面が微塵も乱れない。燃えることが乱れになっていない。
「……すごい」
望が目を細めた。笑ってはいない。確かめるような顔だ。
「これは“紅”の火のように生きた火じゃない。だから、できる」
胸に引っかかる。けれど今は噛みしめる余裕がない。
咲貴は膝をつき、縁に落ちていた葉を一枚取った。指先が冷える。掌にのせ、そっと温める。
何も起こらない。
「火は命じゃないけれど、命と等しい。自分を焼く覚悟がなければ、応えない」
咲貴は目を閉じる。
志貴を思い浮かべかけて、やめた。冬馬の顔も、公介の声も浮かぶ。浮かんだ瞬間、火が誰かの形に応えようとする。誰かの形で燃えれば、それは咲貴の火ではなくなる。
それでも身体が焦る。百日が肩に乗っている。
ぱち、と小さく鳴った。
葉の縁が朱に染まる。胸が喜ぶより早く、炎が暴れた。葉を呑み、ひと息で火だるまになる。水面の静けさだけが変わらない。その変わらなさに、咲貴だけが置き去りにされる。
「宗像の血とは恐ろしい」
嘲りはない。歴史を見てきた者の冷えがあるだけ。
咲貴は唇を噛み、もう一枚取った。指先の震えが止まらない。止めようとするほど火が応える。
同じ手順で掌にのせ、温める。
また一瞬で燃え上がる。今度は水面の上で火が跳ね、熱が頬へ来る。反射で身を引けば息が浅くなる。浅い息が火を煽り、煽られた火がまた息を奪う。
咲貴は歯の奥で息を押し殺した。
「志貴みたいに……」
漏れた言葉に自分でぞっとする。真似る、と口にした瞬間、火が他者へ向かう。向かった火は掌から離れ、制御の手前で暴れるだけだ。
「君は“誰の火”を灯そうとしているの?」
その問いが胸の底で何かを砕いた。
守る形じゃない。折れない形の火が要る。そうでなければ、守りの言葉すら口にできない。
「誰かのように、では燃えない。君は、どうしたいの?」
言葉を探した瞬間、喉の釘が痛む。痛みが、あの夜の焦げの匂いに繋がる。火が勝手に溢れた瞬間の怖さが、掌へ戻る。
咲貴はもう一枚取った。
今度は誰の姿も思い浮かべない。思い出したのは、布が焦げたあの瞬間の自分だ。怖くて、どうしようもなくて、それでも止めたくて、息を乱し、煽ってしまった愚かさと必死さ。
怖さが生んだ火。
けれど、その火がなければ守れないものがあると、身体だけが知っていた瞬間。
咲貴はその瞬間を、掌へ落とす。
ぱち、と鳴った。
葉の先が、小さな灯みたいに脈打つ。暴力的な火ではない。静かに、境界を探る火だ。水面が、ほんの少しだけ息をした気がした。乱れない。ただ、火がそこに居ることを許したように見える。
「……なるほど。君の火は、“赦す”より、“抱く”ほうが向いているのかもしれない」
その違いが胸の奥で形を持つ。赦せるほど強くない。けれど抱くなら、火を抱いたまま折れずにいられるかもしれない。誰かを傷つけない灯であれ、と願うことくらいはできる気がした。
葉が水面へ落ち、火が溶けるように消える。残ったのは焦げの匂いではなく、薄い温さだった。
「……火を抱くなんて、わからないよ」
望は頷かない。頷けば確定になる。代わりに、泉の向こうで微かに笑ったように見えた。
「“志貴になる”ことを諦めることだよ」
胸の奥が熱くなる。いままでで一番痛い、と遅れて思う。
咲貴は泣きそうな顔で、それでも逃げない形で笑った。望の目がふと揺れ、すぐに視線が逸れる。
「……火は美しいが、残酷だ」
望の声音が何かを封じる。泉の水面が淡く光ったのは、風のせいではない気がした。
「赦す火より、抱く火のほうが、宗像に向いていると理解しておくことだよ」
言い終えた瞬間、望の姿が火の残り香みたいに薄れ、空間へ溶けた。残ったのは水面の静けさと、掌の温さだけ。
志貴のように赦せなくてもいい。
この火が、誰かを傷つけない灯であるように。
咲貴はその願いを言葉にせず、胸の内側へ沈めた。
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