第36話 うつせみの 影に焼かれて 名を継がむ


 月陰の座は、宗像の中域に設けられた。


 声の間と呼ばれる空間を用いる。屋敷の奥にあるはずなのに、屋敷の匂いがしない。木の脂も、衣の湿りも、炊きの煙も削ぎ落とされ、残るのは石の冷えと、息が通るたびに喉から水分が抜けていく感覚だけだった。唾の匂いが薄くなる。薄くなるぶん、自分の内側にある熱だけが、余計に際立つ。


 会ではなく座と呼ばれるのは、誰かの意見を並べるためではない。王を据え、ただ一人を問うための場だからだ。


 問いとは名ばかりで、実際にあるのは服従の形と異端の摘出だけだと、咲貴はここへ来るまでに聞かされていた。聞かされていたはずなのに、扉の前に立った瞬間、身体が先に理解した。入る前から乾いている。乾いた空気が舌の裏を擦り、喉の奥に、言葉ではなく釘を打ち込む。


 扉が閉まる音は小さいのに、逃げ道だけを確かに塞いだ。


 咲貴は、その中央にひとり据えられていた。


 座の中心に置かれた椅子は低い。王の席だと言われればそう見えるが、人を守るための高さではない。四方から視線を通すための高さだった。腰を下ろした瞬間、背中の熱が椅子の背ではなく空気そのものに受け止められるのを感じた。守りがない、という意味で。


 天井から結界布の淡光が落ちる。灯はない。闇が場を包んでいるのに、満ちるのは暗さではなく、湿りのない静けさだった。静けさの中で、人の呼吸だけが拾われる。誰かが息を吸うと、そのぶんだけ空気が軽く揺れ、次の瞬間、咲貴の背の熱が疼く。呼吸が深くなれば暴れ、浅くなれば骨の裏で刺す。


 篝火が一つ、咲貴の背にだけある。


 誰の名も、誰の香も帯びぬ、焦げるだけの熱。それはまだ咲貴のものではない。背負わされた熱だと咲貴は思う。けれど背負わされたからといって、他人のものではない。息をするたび、火は咲貴の身体の内側で勝手に答えを探し、勝手に答えを燃やそうとする。答えを出せば、火が外へ漏れる。漏れた火を、外の者たちは待っている。


 なぜ自分がここに座っているのか。咲貴は目を閉じ、黙るしかない。


 志貴の不在は、他家にも明かされていない。千年王の赦しも、再構成の眠りも知らぬまま、宗像が新しい王を立てたらしいという事実だけが座に置かれている。何ひとつ答えられないことそのものが、この場では罪になる。宗像は知らせないことで護ると、咲貴は知っている。けれどここでの「答えない」は、矜持ではなく逃げだと見做される。宗像以外の目が、そう決める。


 王の席を取り囲むように、東西と南に座する三家。白川、穂積、津島。


 席はきちんと区切られている。椅子の並びが家の格と距離を刻む。布の端、香炉の位置、足元の敷きの厚みまで、誰がどこへ座るべきかを迷わせないように作られている。迷わない代わりに、逃げる余地もない。


 視線は冷たいというより、測っていた。


 咲貴が宗像の外にいた頃、優しくしてくれた津島の身内までが対面にいる。笑いの形はそのままなのに、目だけが変わっていた。淡光の下に並ぶそれが、ひどく不思議だった。笑い方を覚えたまま、刃だけ磨いた顔。そういうものを人は大人と呼ぶのだろうかと思った瞬間、背の火が疼き、ぼんやりを許さない。


 最初に口を開いたのは白川の女当主だった。声は低い。低いぶんだけ、言葉が床を滑って咲貴の足元へ来る。


「宗像の正当な後継者は、ご病気で?」


 咲貴は答えない。唇の内側を噛む。背の火がわずかに揺れ、熱が空気をひとすじ歪める。その歪みが言葉の代わりになることを、この座の者たちは知っている。知っているからこそ、歪みを見てさらに刺してくる。


「王が変わるとは、お亡くなりになった、ということですか」


 問いが畳まれずに重なる。喉が乾く。乾いた喉の奥で、志貴の名だけが熱を持ってしまう。名を熱くすれば焦げる。焦げれば戻れない。分かっているのに、背の火がその名を呼びたがる。


「何があって、宗像が君を王としたのかがわからないと聞いているのです」


 穂積の長老が声を継いだ。丁寧なのに歯がある。丁寧さが、歯を隠すためにあると知っている声だ。


「失礼ですが、王とはそもそも宗像の血筋なら誰でもよかった、という意味ですか?」


 咲貴の指が微かに震える。


 そんなはずがない。志貴の代わりなどどこにもいない。それでも自分は、代わりとして座っている。その痛みが喉の奥で言葉を焼いた。背の火が沈黙を嗤うように疼く。


 静かに、津島の老当主が口を開いた。


「志貴は、宗像の後継として育ってきた。咲貴は違う。それでも、宗像の王というのか?」


 咲貴は息を飲んだ。


 冷たいとは思わなかった。ただ、音が裏返るように驚いた。あの笑いの温度が、同じ口の形のまま刃になっている。刃の向きが変わったのではない。刃は最初からここにあり、咲貴は今日、初めて正面から受けただけだ。


 この座は、そういう場所なのだと背の火が教えていた。


 志貴は、この静寂の中に何度もひとりで座っていたのだと、ようやく身体で知る。王となるというのは、まず皆から焼かれることだった。焼かれても叫ばない。叫べば火が暴れ、外へ漏れる。漏れた火を、他家は待っている。


 答えたくて黙るのではない。黙るしかないから黙る。


 否定の一語は、内側の真実を含む。含んだ瞬間、外はそこを噛む。噛み切れるまで嗅ぎ分ける。宗像の内部事情を宗像の口で一度でも明かせば、その断面は柄になる。柄ができれば、誰でも刺せる。


 志貴は、ずっとこれを分かっていたのだろうと咲貴は思った。分かっていながら、毎回、黙った。


 黙るというのは、何も語らないことではない。内側を血の出るほど押さえつけて、外に形を与えないことだ。言葉を拒むのではなく、言葉になる前の痛みを飲み込む作法だ。


 それを、王の席に座りながら。呼吸のたびに焼かれながら。続けてきた。


 咲貴は初めて、志貴の沈黙が強さではなく、宗像が生き残るための刑罰だったと知ってしまう。


 そして同時に、もっと冷たい理解が胸の奥に落ちた。


 自分が今ここで一語でも漏らせば、その刑罰を志貴だけのものにしてしまう。志貴が黙って背負ってきたものを、外へ売り渡す。


 誰も味方しない。宗像は孤高だ。志貴がずっとそうしていたように、今度は咲貴が言葉なく座る。


 その孤独をさらに薄く剥ぐように、津島の若当主が言葉を足した。


「数日前まで君は、こちら側の席にいた。宗像になれば掌を返すのか、と言われたら、どう答える?」


 淡光の下で、問いは温度を失っている。だから余計に逃げ場がない。咲貴は口を開きかけ、閉じた。開けば燃える。燃えれば、志貴の名まで焦がす。焦がすことを、この座は待っている。


 そのとき、扉がひとつ音を立てた。


 静寂を破る音ではない。欠けていた重みが、遅れて据えられたようだった。


 歩みは遅い。だが揺れない。


 宗像公介が入ってきた。


 宗像当主。志貴を育てた男であり、泰介と双子にして、志貴と咲貴の叔父。冷酷なほどに宗像の秩序を保つ者。


 公介が入ってきた瞬間、空気が変わった。静かになったのではない。咲貴の背の火が、場の重さに合わせて息を調えた。これまでの問いは、刃を立てる音だった。公介の足取りは、刃を置く音だった。


 公介が口を開く前に、場が沈黙する。視線が一斉に動く。予定外の登場に、どの家も戸惑いを隠しきれない。王より遅れて来る黄泉使いは、本来あり得ない。つまり公介は、あえてそれをした。遅れて入ることで、先に積み上げられた問いと、咲貴の沈黙を、そのまま宗像の責任として引き取る。


 公介は北の宗像の席へ向かった。首座の背後に置かれた後継の椅子が一つ空いている。その空きが、咲貴の背の火をもう一度疼かせた。そこは志貴の影が座る椅子だ。志貴の不在を、形として見せる椅子だ。


 公介はその前で足を止め、咲貴を見た。


「咲貴」


 名を呼ぶ声に熱はない。命令の輪郭だけがある。輪郭だけで、咲貴の背が伸びる。叱責でも慰めでもない。宗像の中で名を呼ばれることの硬さが、骨に入ってくる。


 咲貴は立ち上がり、石の冷えを足裏に受けながら公介の元へ向かった。背の熱が縄のように引かれる。縄は苦しいのに、一本あるだけで倒れない。ここに来て初めて、寄る辺というものが身体に触れる。


 公介はただ椅子を引き、咲貴を後継の椅子へ座らせた。


 その所作は動作を越えていた。咲貴がどこに属し、誰がそれを認め、誰が責任を負うのかを、一息で刻む。宗像が言葉を出さずに済ませるために、所作で済ませた。所作は反論の余地がない。反論するには、宗像の手を払いのけるしかなくなる。


 公介が首座に腰を下ろす。たったそれだけで、ざわめきが半歩退いた。言葉を遮ったのではない。重心が変わったのだ。三家の問いの矛先が咲貴一人に集まっていたのが、宗像という塊へ戻される。咲貴は、焼かれる炉の真ん中から、炉の縁へ引き寄せられたような気がした。


 咲貴の背の篝火がふと揺らぐ。魂がようやく寄る辺を得たように、わずかに鎮まった。


「何が知りたい」


 公介の声音は低い。だが全域に渡って響いた。沈んだ湖にひとしずく落とした音が水面を割るように、言葉が場を変える。


 そして公介は、まず何も答えなかった。


 志貴のことも、咲貴を立てた理由も、一心の不在も、禁域の結界も、冥府への返答も。返答の席そのものを与えない沈黙だった。沈黙は逃げではない。問いの方を無効にする沈黙だ。答えないのではなく、問う資格を与えない。


 耐えきれずに白川が言う。


「宗像は、この座を無視するのですか」


 穂積が重ねる。


「禁域の結界は誰が維持している。冥府への返答は。宗像が沈黙を貫けば、こちらは想像するしかない」


 想像という語が淡光の中で膨らむ。膨らんだ瞬間、咲貴は分かった。この場が求めているのは答えではない。裂け目だ。裂け目があれば、そこへ刃を差し込める。想像とは、刃を差し込むための口実だ。想像の名で配備を動かし、配備の名で宗像の喉元へ手を入れる。それがこの座の本音だ。


 津島の老当主の声が落ちる。


「志貴はどこにいる。それに、一心がいない理由を問いたい。不在を語らないのは、座として看過できない」


 公介がようやく口を開いた。


「正式な返答が欲しいのか」


 刃が入っている。刃は声の強さではなく、言葉の方向にある。


 続けて、公介は息を吐く。深く短く、頭が痛いという吐息だった。


「宗像でしか対処できない内容について、わざわざ答える必要があると思っているのか」


 その一言で空気が一段冷える。問う側の勢いが、目に見えぬところで落ちる。勢いを失えば、刃は踏み出せない。


 公介の目が、刃のように静かに座の三家を舐めた。


「それとも、禁域への配備分配を変えたくて吠えてるのか」


 ざわ、と空気が動く。刃を握った手が、思わず力を緩めた音だ。配備と分配は守りの骨で、そこを動かすということは、死ぬ順番を変えることに等しい。


「志貴について、その問いに答えるつもりはない。咲貴を立てた理由も、他家に説明する必要はない」


 公介は一拍、あえて間を置いた。沈黙のなかで眼差しが三家を舐める。


「それを問うこと自体、無礼であると気づかないか?」


 座が鳴る。


 声を荒げない。荒げないからこそ、言葉が骨に届く。咲貴はその背中を見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。守られている痛みだ。慰められる痛みではない。境界線の内側へ押し戻される痛みだ。


「宗像は、王を輩出する唯一の血統だ。王は宗像からしか出ない。それはお前たち自身が最もよく知っていることだろう」


 視線が穂積を刺す。刺された側が言い返すより先に、呼吸を整え直す。息を整えるということは、刃を引くということだ。


「宗像の血筋であれば誰でもよいのか」


 その問いに、公介は刃のような静けさで応じた。


「王を生み得ぬ家が、王を測るとは不敬にもほどがある」


 誰も言葉を返せない。


 公介はゆっくりと座り直す。それだけで、空気が落ち着く。許されたのではない。宗像の線を越えれば、禁域の現実が揺らぐと悟ったからだ。


「王となれば、それこそが宗像である証左。それ以上の理由が必要とは思えんな」


 咲貴の背の火が静まっていた。恐れではない。小さな火が守られていると感じたときの、安堵に近い沈黙だ。


「これが、宗像としての返答だ」


 締めくくられた瞬間、三家はもはや異議を唱えなかった。唱える余地を、宗像が与えない。


 椅子が軋む。衣擦れが重なり、三家が立ち上がる。足音が乾いた空気に吸われていく。その背になお言いたげな息が残るのが分かる。残る息を、宗像は見ない。見ないことが宗像の礼儀だ。


 扉へ向きかけたとき、咲貴は口を開いてしまった。


 止めようとして止められなかった。背の火が喉を押す。数日前までこの場の外側で息をしていた自分の甘さが、遅れて噴き出した。


「待ってください」


 淡光が咲貴の唇を白くする。


「掌を返すのかと言われたら、否定できません。数日前まで、私は他家側にいました」


 三家の足が止まり、振り返る。集まった目が咲貴の火に触れる。触れられた瞬間、火が息を荒くし、言葉を連れてくる。


「でも、宗像になった途端に変わったわけじゃない。最初から宗像でした。ただ、知らずにいただけです」


 津島の老当主が動かないまま言う。


「咲貴は今、宗像の名で我々を退けている。それを傲慢と言わずに何と言う」


 咲貴は息を吸う。吸った息が喉の奥で乾く。乾いた息で言葉を出せば割れる。割れた言葉は裂け目になる。知っていながら止まれない。


「宗像は、傲慢に映るかもしれない」


 床に落ちて跳ねた音が、誰の胸にも刺さる。謝罪ではない。肯定でもない。けれど、この場に要る語ではなかった。


「でも、宗像には皆を守るために語れないことがある。些細なことであれ、明かさない。明かせない。それを理解しろ、というのは勝手だと分かっています」


 白川が言う。


「何も聞かず、黙れということですか」


 咲貴は頷かない。頷いた瞬間、形が固定されるのが怖い。


「勝手に想像するな、と言ってるんです」


 そして口が滑った。滑った瞬間、引き返せない。押し出したのは守りたい意志ではなく焦りで、焦りはいつも触れてはいけない語を選ぶ。


「特別任務の間、私が預かることが、それほどまでに不服ですか」


 預かる、という語が場に落ちた。


 淡光の下で、三家の視線が同時に重なった。代行。中継ぎ。不在。断片が勝手に繋がり、物語が完成する速度を、咲貴は目の前で見せつけられる。


 ざわ、と座が鳴った。


 空気が動いたのではない。意味が先に動き、遅れて呼吸が追いついた。咲貴の言葉は刃ではなかった。刃にならないからこそ、裂け目として残った。切り取られた断片が、各家の胸の内で勝手に組み上がっていく。その速さに、咲貴自身が遅れる。


 白川の女当主は指先を重ねたまま目を細める。穂積の列で誰かが、喉の奥で短く息を漏らした。津島の若当主だけが、すぐには動かなかった。咲貴を見る目に、刃を当てない距離を残したまま、言葉を選んでいる。


「なるほど」


 低く落とされた声が、淡光の底で転がる。


「宗像は、王を空席にしたわけではない。預けただけだ、と」


 言い換えが置かれた瞬間、咲貴の背の火が一段、強く疼いた。違う、と言いたかった。違わない、とも言えなかった。預かるという語を選んだ時点で、言い換えは許容されている。


 白川が続ける。


「それならば、我々が知るべきは一つだ。いつ返されるのか」


 問いは穏やかだった。穏やかであるがゆえに、逃げ場がない。


 公介が、咲貴より先に動いた。


「その質問は成立しない」


 声は低い。怒りではない。線を引くときの冷えだ。


 場の視線が、再び咲貴へ集まる。公介は視線を引き受けない。


「宗像の決定は、ここにある」


 公介は首座に置いた手を、軽く叩いた。音は出ない。それでも、全員の目がそこへ落ちた。


「それ以上でも以下でもない」


 津島の老当主が、わずかに口角を動かした。笑いではない。刃を引く前の癖みたいな、形だけの動きだった。


「宗像が責任を負う、これまで通りだ」


 公介は肯定しない。否定もしない。肯定も否定も、相手の言葉を認める行為になるからだ。宗像は認めないことで線を作る。


 白川の女当主が視線を落とし、穂積の列が衣擦れを立てる。その一連の仕草が、今日の勝敗を告げる鐘の代わりだった。


「分かった。今日のところは、ここまでにしよう」


「閉会だ」


 公介の声が重なる。二度目の閉会は、宣言というより確認だった。異論を挟む隙は残されていない。


 扉へ向かう背中が、乾いた空気に吸われていく。去り際に残されたものは、言葉ではなく匂いだった。探る匂い。傷口を嗅ぐ匂い。宗像の沈黙に針を探す匂い。


 扉が閉まる。音が消えたあと、声の間には宗像だけが残った。淡光の落ち方が変わり、さきほどまで張りつめていた空気が、ゆっくりと戻ってくる。


 咲貴は息を吐いた。吐いた途端、喉の奥が痛んだ。乾ききった場所に水を落とした痛みだ。痛みの奥で、さっき自分が落とした言葉がまだ床に張りついているのを感じる。拾えない。拾ったら、また指が汚れる。


 時生が一歩、前に出る。


「君は、本当に余計なところで正直だな」


 責める調子ではない。呆れと警戒が混じった声だ。けれどその警戒は、咲貴に向けたというより、咲貴の口から落ちた言葉の行方に向けられている。


「分かってるか。今の一言で、外は勝手に物語を作る。宗像は沈黙で線を引いてきた。その線を、君が自分で薄くした」


 咲貴は頷かなかった。頷けば肯定になる。肯定すれば、その薄さが宗像の承認になる。


「……志貴も、こういうのを」


 言いかけて止めた。止めた瞬間、胸の奥が刺すように痛む。言葉を飲む痛みが、ようやく分かる。分かった時点で、遅い。


 時生が、咲貴の視線を真正面から受け止めた。


「志貴は、こういうのを、じゃない」


 淡い声音で、刃だけが立つ。


「志貴は、ここで何度も同じ問いを受けた。そのたびに言葉を落とさなかった。落とせば、宗像の内側が汚れると知っていたからだ」


 汚れる、という語が咲貴の胸に沈む。火傷に灰を押しつけられる感覚がした。灰は冷たい。冷たいから、熱の形がはっきりする。


「志貴は耐えていたんじゃない。守っていたんだ」


 時生はそこで一度、言葉を切った。


「黙るのは逃げだと見えるだろう。だが宗像の黙りは違う。外の刃に、内側の核を見せないための護りだ」


 咲貴の背の火が、ふと動いた。暴れではない。呼吸が合わないときの小さな乱れだ。乱れの理由が、自分で分かる。志貴の黙りを、今日、初めて腹の底で理解してしまったからだ。理解した瞬間に、さっき落とした一語が、どれほど高くついたかが見える。


 公介が短く息を吐いた。


「人心を掴むなと言ったはずだ」


 咲貴は肩をすくめることもできず、ただ立ったまま、その声を受ける。


「掴もうとしていなくても、掴めてしまう者がいる。それが一番、始末が悪い」


 叱責ではない。断定だ。宗像の内側に立つ者への、現実の提示だった。


 そこへ、影が一つ、淡光の端から現れる。


 冬馬だった。


「もう済んだことやろ」


 場に似合わない軽さで言うが、声の底に遊びはない。


「志貴がおらん時点で、何言うても騒ぎは出る。咲貴が言わんでも、誰かが勝手に言うてたはずや」


 咲貴は思わず冬馬を見る。


「皆、似たり寄ったりの状況は想定してたやろしな」


 冬馬の声が落ちる。軽さを装うのをやめた声だ。


「ただ、想定以上のスピードで動くんやろな。さっきの一言で、外は全部、咲貴基準で考え始める。志貴の不在より、一心の不在が前に出てまう方が、俺はまずいと思うけどな」


 時生が頷く。


「言葉ひとつの重み、わかった?」


 咲貴は喉の奥の釘に触れないように息を吐く。吐きながら、胸の奥で一つだけ誓う。次に飲み込むのは、逃げの沈黙じゃない。志貴が守ってきた沈黙の形だ。


「はい」


 返事は短いが、逃げなかった。


 公介が近づき、咲貴の頭に手を置く。力は入れない。撫でるでもなく、押さえるでもない。ただ、そこに手があるという重さだけを伝える。


「宗像へ、ようこそ」


 その言葉は祝福ではなかった。帰属の確認だ。確認の重さに、背の火が小さく息を整えた。まだ灯にはならない。それでも、罰として焼かれるだけの熱ではなくなっていた。


***


 声の間を出た廊下は、思ったより冷えていた。


 淡光が届かない分、壁の白さが剥き出しになり、屋敷が本来持つ硬さだけが残っている。足音が吸われず、きちんと返ってくる。戻ってくる音が多いほど、ここは外に近いのだと知れる。


 咲貴は歩きながら、背の火を意識しないようにしていた。意識した瞬間に火は応える。応えれば、さっき口を滑らせた語がまた浮く。


 預かる。


 その語は、もう咲貴の口を離れている。離れた言葉は、持ち主の意図を待たない。


 角を曲がったところで、冬馬が足を止めた。


「来てるな」


 声は低く、断定でも警戒でもない。ただ、気配を拾った者の言い方だった。


 時生が袖の中で符を切る。結界ではない。聞き耳を塞ぐだけの、最低限の仕草だ。


「早いね」


 廊下の先、開け放された回廊に、使いの影が立っていた。宗像の紋を帯びていない。だが他家の者でもない。中立の伝令役。言葉だけを運ぶ存在だ。


 その男は膝を折ることなく頭を下げた。


「白川より。座の後、外へ出た途端に、問い合わせが増えています」


 増えている、という言い方が正確だった。単数ではない。すでに流れができている。


「内容は」


 時生が問う。声は淡々としているが、問いの角度が鋭い。


「宗像志貴の所在。次いで、後見の不在理由。そして」


 男は一拍置いた。置かなくてもいい間を、あえて置く。


「預かりという表現について、です」


 咲貴の喉が鳴った。音は出ていないのに、身体が先に反応する。


 冬馬が、咲貴のほうを見ずに言った。


「もう形を変えとるな」


 男は続ける。


「白川では、宗像は王を留守にしたまま代行を据えた、という言い方が出ています。穂積では、宗像は内部で分裂しているのではないか、という憶測が広がり始めました」


 言葉は淡々としている。だが淡々としている分、加工が済んでいるのが分かる。


「津島は?」


 咲貴が口を開いた。自分の声が思ったより低く、少しだけ安心する。


「津島は」


 男は視線を伏せたまま言った。


「返却期限、という言葉を使い始めています」


 その瞬間、背の火が確かに動いた。


 罰の熱ではない。苛立ちに近い、浅い揺れだ。


 返却期限。預かる、という語に、対になる語が当てられた。対が揃えば、物語は完成する。完成すれば、外は次に刃を探す。刃はいつだって、境界に入るための名目を欲しがる。


 時生が息を吐いた。短く、音を殺した吐息だ。


「座が閉じて、まだ半刻も経っていないのに」


「座の中で使われた言葉は、外では倍速で走ります」


 伝令役はそう言って、さらに続けた。


「冥府からも、一通。正式ではありません。ですが、王代行の所在確認という名目で、門前に人が立ちました」


 冬馬が舌打ちをした。


「笑えん」


 冥府は宗像の沈黙を知っている。だからこそ、言葉の端だけを拾う。端を拾って、こちらの内側へ靴先を差し込む。


 咲貴は柱に手をついた。冷たい。現実の冷えだ。預かる、という語が、もう咲貴の手を離れて別の意味で動いている。


 時生が伝令役に言った。


「白川には、返答は出さない。穂積も同じ。津島には」


 一瞬、言葉を止める。


「期限を切るのは、返す意思がある者だけだ、とだけ伝えて」


 男が頷き、踵を返す。足音が遠ざかったあと、回廊に残ったのは三人だけだった。


「咲貴」


 冬馬が、今度は正面から名を呼んだ。


「これ、もう間違えたとかやないで。ここからは、どう立ち回るかや」


 咲貴は黙っている。言い訳が浮かばないのではない。浮かんでしまうのが怖い。浮かんだ瞬間、また言葉を足してしまう。


「百日、好きにしてええって言うたけどな」


 冬馬の声は責めない。だが軽くもない。


「好きにしてええのは、黙るか、動くかの選択だけや。どっちも代金が要る」


 時生が、静かに続けた。


「預かったと言った以上、君は管理者として見られる。宗像を扱う者としてね」


 咲貴は柱から手を離した。背の火がじわりと安定している。揺れを押し殺した熱ではなく、覚悟の形に近い熱だ。


「私が、黙って立ちます」


 口にした瞬間、自分で分かった。言ってはいけない語だった。宗像でそれは支配になる。支配は、志貴の火を明け渡すと同意だ。


 二人は即答しなかった。その沈黙が答えだった。


 時生が言う。


「次に君が口を開くときは、言葉を選ばないといけない」


 咲貴はゆっくり息を吸った。座で焼かれた熱とは違う。いまは、火を背負ったまま前に出る段階だ。


 廊下の奥が静かに鳴った。結界がひとつ調整される音。


 志貴が不在のまま、宗像は動き始めている。


 そして咲貴は知った。


 百日は猶予ではない。期限を切られた戦場なのだ。


***


 回廊を折れたところで、足音が増えた。


 軽い足取りではない。急いでいないのに、体温だけを持ち込むような歩き方だった。乾きの中に湿りを落とすのではなく、乾きの中へ別の熱を差し込む歩き方。


 淡光の届かぬ影から、大柄な男が現れる。


 津島聡里だった。双子にとっては母方の従兄で、一心の幼馴染でもある。


「おい」


 低くて太い声が、乾いた廊下を一度だけ殴って音を戻す。


「てめぇら、うちのに、無茶ばっか強いてねぇだろうな」


 咲貴は息を詰めた。守られてきた声だと分かるのに、その守りがこの場所では値札にも刃にもなり得る、と身体が先に知ってしまう。


「聡里兄さん」


 名を呼んだ瞬間、膝の裏がほどけそうになった。ほどけるのが怖くて、足指に力を入れる。ほどけた瞬間、背の火が外の熱に噛みつくかもしれない。


「大丈夫かよ」


 聡里は駆け寄らない。急がずに距離を詰める。火に近づくときの慎重さがある。咲貴の腕を取り、ゆっくり立たせる。手の熱は強いのに、背の火が暴れない。罰の熱が、他人の熱に噛みつくのをやめる。だから余計に、危ないと思った。ここで安堵してしまえば、宗像の線が薄くなる。


「一心がいたら一心に言ってやろうと思ったのに、いねぇのかよ。じゃ、時生さんに言うか」


「文句は直接、一心へどうぞ」


 時生の声は淡いのに硬い。聡里の熱が、そこで一度止まる。


「じゃ、怖ぇけど、公介さんに一言」


 聡里は息を吐き、公介のほうへ指を向けた。指先がぶれない。怖さを隠していないのに退かない。


「志貴、志貴って言うあんたらと違って、こっちは咲貴を護ってきたんだ。咲貴は津島の優秀な後継だ。いずれはうちの首座にだって座る。それを、代用品みたいに扱われちゃ困る」


 淡光のない廊下で、空気が一度だけ鳴った。


 咲貴の背の火が刺すように疼く。


 守るつもりで言ったのだろう。けれど首座は、この場では守りではなく値札になる。預かったと口にしてしまった裂け目に、さらに釘を打つ語だと、咲貴は遅れて理解する。外は倍速で走る。いまの一言は、返却期限と同じ棚に並べられる。


 咲貴は聡里の腕の中で息を吸った。宗像として、ここで一度だけ言葉を選ばねばならない。選ばねば、志貴の帰り道にまた釘を打つ。


「聡里兄さん、やめて」


 咲貴は声を落とした。落とした声のほうが届く。


「わたしは、宗像だよ」


 聡里の眉が動いた。反発でも困惑でもない。ただ、咲貴の声の硬さを聞き取ろうとする顔だ。


 咲貴は続けない。続けた瞬間に説明になる。説明は餌になる。言い切って黙り、喉の奥の釘に息を触れさせないようにした。


 聡里は一拍だけ口を噛み、吐いた息で勢いを作り直した。


「分かったよ」


 その返事が、咲貴の背の火をもう一段、静かにした。救いは慰めではない。咲貴の線を、他人が踏まなかったことだ。


 公介が、面倒くさそうに言った。


「津島は咲貴を返せってことか」


 聡里が噛みつきかけるより先に、冬馬が言葉を差し込む。笑わず、軽くもしない声だ。


「聡里、咲貴のこと可愛いのは分かる。でも、場違いは喰われるで」


 聡里の目が冬馬に移る。怒りではなく、理解したくない顔だ。理解したくないのに、理解してしまった者の顔。


「よくわからんが、とにかく、役目が済んだら咲貴は返してもらうからな!」


 聡里はもう一度、公介へ指を突き出す。公介は返事をしない。返事をしないまま、その指先を視界の端で受け止めている。許可でも拒絶でもない、宗像の沈黙だ。


 聡里は咲貴へ向き直り、声を落とした。


「それから、咲貴。お前の家は津島だ。いつでも帰ってきていい。分かったな」


 抱きしめられる。骨がきしむほどの腕なのに、背の火は罰の熱をやめ、焼かれる熱ではなく、ただ生き物の熱として呼吸を整え始める。


 咲貴は笑いそうになって、笑えなかった。笑えば、ここが慰めの場になる。慰めの場になった瞬間、座の乾きが嘘になる。嘘になった乾きは、次の刃で必ず裂ける。


 だから咲貴は、抱きしめられたまま、胸の奥だけを整えた。


 帰ってきていい。


 宗像の火の外側にある言葉なのに、いまの咲貴には火傷の上に貼られた薄い布みたいに効く。効くからこそ、危ない。効いたと認めた瞬間に、外の言葉が内側へ入ってくる。


 公介が、咲貴のほうへ一歩だけ寄った。


「聡里」


 名を呼ぶ声は低い。だが、その低さのなかに線がある。許すための声ではない。許しているように見える隙を作らない声だ。


「それ、うまくあやしてから返せ」


 命令ではない。だが拒否でもない。宗像の内側に咲貴を置いたまま、外の腕が触れることを一度だけ見逃す声で、咲貴はその温度の線引きに胸が詰まる。


 聡里は舌打ちで返した。反抗ではなく、照れと負けん気だ。


「またな」


 聡里の足音が遠ざかる。遠ざかりきる前に、咲貴の背の火が一度だけ小さく疼いた。火が、外の熱を恋しがったのではない。外の言葉を欲しがったのでもない。自分が揺れたことに苛立っただけだった。


 時生が、咲貴の横に立った。寄り添う距離ではなく、刃が入ってこない距離を作る立ち方だ。


「咲貴」


 声が低い。


「次は、戦略的に黙ることだ。君が黙ったら、外は勝手に想像する。でも、想像の形を宗像が選べるようになる」


 冬馬が頷く。


「お前が言葉を増やせば、外は刃を増やすだけや。言葉を減らせば、外は刃を迷う。その迷いが、宗像にとっての時間になるんや」


 咲貴は喉の奥の釘に触れないように息を吸い、吐いた。乾きはまだ痛い。痛いから、思い出せる。


 自分は王の席を温めるのではない。


 百日という戦場を、宗像の作法で渡る。


 咲貴は、口を閉じたまま頷いた。


 頷きは返事ではない。線を内側へ戻すための、無言の所作だった。

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