第33話 朝まよひ ふたたびの夜を くぐりゆけ
風が、異様な熱を孕んでいた。
泰山の峰にただよう香が、狂っていた。
峰の空は低く、雲は重い。湿りを帯びた灰色が稜線へ貼りつき、夏の名残を抱えたまま動かないのに、肌へ触れる風だけが焼けるほど熱い。冷えるはずの高度で、熱だけが道を失い、香を抱えたまま押し上げてくる。吸い込んだ息が喉の奥でざらつき、吐いたはずのものが胸へ戻るみたいに重く残った。
呼吸が噛み合わない。吸っても、どこかで余る。肺の内側に薄い膜が張りついたようで、熱いのに冷える場所がある。
「思うより、悪いな……」
公介は苦々しく舌打ちをした。舌の上に渋みが広がり、それが泰山の熱なのか、胸底の苛立ちなのか、見分けがつかない。
「なかなかに、厄介だよ」
楼蘭は公介へ振り向きもしない。ただ静かに手を翳したまま、指先の角度すら変えずにいる。
指先からすうと霧が生まれた。霧は渦を巻き、暴れ出した香の波へ白い輪郭を与え、縁を縛るように封じ込めていく。薄いのに芯だけが冷たい。その冷えが香の輪郭へ噛みつき、風の熱をいちど黙らせる。だが、縛られた香は底でまだ身をよじり、封じの縁を叩き返した。霧の端がふっと跳ね、結界の縫い目の音が皮膚に触れてくる。
「……ああ、だめだ。そんな風にしては、身体がもたないよ。どうしたものか。制御には、ほど遠い」
楼蘭の声は淡く、言葉の切れ目だけが乾いている。封じの外は押さえられているのに、封じの向こうで受け皿が裂けようとしている。
視線の先、咲貴が倒れていた。
だが、それは単なる失神ではなかった。
少女の周囲にあるのは、剥き出しの理。宗像の王格が、蒸気のように噴き出している。湯気ではない。香が熱に化けたものだ。甘さと鉄の渋みが混じった匂いが肺へ入り、舌の奥に焦げの名残を置いていく。
公介の掌が冷えた。熱に当てられて冷えるのではない。身体が先に怯え、血を引いた冷えだった。
香炉も火も、もう意味をなさない。世界そのものが香を媒介にして、咲貴という器へ王格を落とし込もうとしている。
咲貴の胸が小さく跳ねるたび、熱が膨らみ、膨らんだ熱が香になって戻り、香がまた肺へ入る。整える前にまた満ちる。満ちたまま形が定まらない。その不定形の圧がいちばん危ういとわかっているのに、喉が乾くばかりで、唾ひとつ落ちてくれない。
「幼い頃から、これの扱いに慣れている志貴とは違うから仕方ないとはいえ……厳しいね」
楼蘭が咲貴の手首へ指を置いた。指先の冷えに触れた瞬間、咲貴の指がわずかに反る。痛みなのか、熱が引かれるのか、その境が曖昧な反応だった。曖昧さに救いを見たくなるのに、見た途端に手が緩む気がして、公介は目を逸らさない。
「アレを起こして盾にせよ、とはよく言えたものだ」
楼蘭はようやく公介を見た。目の奥に薄い影が沈んでいる。
「使者がきたのか?」
「来たよ。ただ、言伝の意味はわかってはいても、これはこれで至難の業すぎて、頭が痛い」
楼蘭は咲貴を指差した。
咲貴には、未完のままの王格を納める器の構造はあっても、扱う術がない。けれど、それでも流入は止まらない。
息を吸えば香が入る。吐けば香が戻る。その往復のたび、縫い目が軋むように震える。喉の奥が砂を噛んだみたいにざらつき、胸が薄く痛む。選ぶ余裕など、最初からこちらにはなかった。
志貴の眠りが、すべての発端だった。
志貴が宗像の王位を放棄し、千年王として理の再構成に入ったことで、空位となった座が、双子である咲貴へと無作為に接続された。
無作為という言葉は便利だ。だが、舌に残る渋みがそれを許さない。理は偶然の顔をする。偶然の顔をしながら、人の急所へ触れる。
Veilmakerの狙い通りの流れだ。
双子は、世界の理においてひとつの魂の分割体と認識される。それをさも世界の道理であるかのようにして、志貴を上書きする存在として咲貴をもちあげる。
名を思うだけで、背の皮が薄くなる。風は熱いのに首の後ろだけが冷え、触れていないはずの指がそこを撫でたような不快さが残った。何もいない。そのことがいちばん気持ち悪い。公介は肩を揺らさず、息を整えた。揺らせば裂け目ができる。裂け目は匂いになり、匂いは理を呼ぶ。呼ばれた理が向かう先は咲貴だ。
「……予想していた以上に早いな」
口にした途端、喉がさらに乾いた。ここで決めてしまえば、もう形は戻らない。志貴の帰り道を塞ぐようで、胸の奥に薄い痛みが走った。
楼蘭が、咲貴の手を取る。
「このまま放っておけば、咲貴の身体か、あるいは魂の方が先に壊れるよ」
「……これを見越してあんにゃろ」
公介の声は硬い。硬さの底に怒りより先に悔しさが沈んでいる。
「そう。“君のあの甥”は、ここまで織り込み済みだよ」
楼蘭は微笑んだ。
けれど、それは知っていて見逃す者の微笑だった。先を見通す者が、敢えて誰かを送り出すときの笑み。苦く濁っているのに、表情だけが柔らかい。その柔らかさが、公介の胸をさらに苛立たせる。優しさのふりをした正しさは手を縛る。縛られたまま走れと言われる。
「ねぇ、公介さん。あなたは“朔”のシステムをどう思う?」
唐突な問いに、公介の眉が動く。
「“王を安定させるための片割れ”。双子の片方が王となったとき、もう片割れを朔として立てれば、理の揺らぎが抑えられる。うちの古文書にはそう残されている」
言葉にした瞬間、古い紙の匂いが鼻の奥へ蘇る。触れれば手が汚れると知りながら捨てられない頁が、宗像にはある。汚れた手ででも護らねばならないものがある。汚れを誰にも見せずに済むなら、なおいい。
「見せてくれるか?」
公介の声が、思ったより低く落ちた。
楼蘭は古文書を差し出す。
「王を望月としたら、片割れは朔月とする。どこにも、王と獣。狐と狼の記載は当然のようにない」
「宗像の記載とは、まるで、違うわけやわな……」
「狐が望、狼が朔。宗像の何がどうなってるのかは存じあげないけれど。逆手にとって、百日だけ、“王と朔”を起動してみる気はある?」
「……なんや、結局、そこに落とし込まされるんか……」
公介は天を仰いだ。雲は低いのに手が届かない。怒りを投げても返ってこない。返ってこないから怒りは胸の底へ沈む。沈んだ怒りは、あとで刃になる。その刃が自分へ向く前に、いまは決めるしかない。
「……ほんまに、腹立つな。一心、ぜんぶ読んだうえで俺らに無茶を強いるつもりやからな」
「王格を押し込もうとする側と、百日だけ凌ぎたい俺たち。そう割り切るなら、あの男のやり方は最善だよ。ただ、それは“誰か”が傷を引き受ける前提だけれどね」
「それは百日を防ぎきれたら、の最善やろ? 王格を落とし切られたら、忘れられた名と、呼ばれる名が交差する。……そのとき、世界が選ぶのは一つだけや」
言い切った瞬間、香がひくりと痙攣した。喉の奥で、砂の味がした。名の縁が擦れるときの味に似ている。
「最悪のケースでは、志貴が残るか、咲貴が残るか……。ある意味で、あの男はVeilmakerより厄介になるかもしれないね」
楼蘭の声は穏やかなのに刃のように薄い。躊躇しない男の冷えが、掌の冷えと重なって皮膚に残る。正しい冷えほど、肉に刺さって抜けない。
「一心を敵にしたくはない。だけれど、咲貴を百日限定の生贄にするつもりもないで、俺は……」
公介は静かに目を閉じた。その背後で、霧がはじけるような音がした。乾いた割れ音に、結界の縫い目が耐えているのがわかる。霧が割れるのは香の熱がそこへ触れたからだ。封域が耐えている間に決めねばならない。決めた後、誰が傷を引き受けるかを。
「……冬馬を呼ぶ。百日限定で、宗像特有の“王と朔”で起動するって、本人に直接伝えなあかん」
「リスキーな選択するわりに、時生ではなくて? 冬馬にする理由は?」
「今の咲貴には、同調しすぎない時生の方が、まだ“朔”として支えになれる。情を差し挟む余地はないとわかってる。けど、冬馬をつけてやりたいんや」
喉の奥が渋い。理屈の綺麗さより、守りたい顔が先に浮かぶ。守りたい顔が二つあるから、理屈はいつも遅れる。遅れても、口は言葉を押し出す。押し出さなければ咲貴が壊れる。壊れた後で理屈を揃えても、意味がない。
ふうん、と楼蘭は椅子に腰掛け頬杖をついた。
「狐は?」
「呼ぶ。……あいつは“宗像の存続”しか興味ない。なら、利用できるやろ」
「Veilmakerの流れを組むかもしれない相手を引き込んで、どんな理屈で押し切るの?」
「正攻法で判断できる段階は、もう過ぎてるやろ。今となってはVeilmakerの方がまだ俺たちには優しいかもしれん」
そう言って、公介は最後にもう一度、咲貴の方を見た。迷いを置く場所は先に塞いである目だった。塞いだ上で立つ。立てば戻れない。戻れないままでも、戻らないと決めた者の目がそこにある。
「志貴が戻るまで。……その間だけ、俺が全部、責任とるわ」
志貴と一心を欠いた宗像の生存戦略。
一心のように“志貴”だけに特化した戦略ならここまで悩まない。
日本全体の黄泉使いを維持していくためにも、どうすべきか考えないといけない。
志貴を失うのは論外。
咲貴を犠牲にするのも違う。
宗像を壊されるのも腹が立つ。
「宗像も、志貴も、咲貴も、全部、俺が護る。たとえ、理が捩れても。それが俺のやり方や」
声は張らない。張れば割れるのは香だ。香が割れれば理が崩れる。公介は張らずに置いた。胸の奥でだけ、固いものがひとつ鳴る。鳴った音は消えない。消えないなら、最後まで持つ。
風が吹いた。
香がかすかに撓み、咲貴の指がぴくりと動いた。
けれど、それが“目覚め”だったかどうかは、まだ誰にもわからなかった。
ただ、狂っていた香が、ふたたび“夜のかたち”を撫でるように、静けさの名を取り戻しつつあることだけが確かだった。
***
冬馬が可及的速やかに、泰山へ呼び出された。
名を失いかけた宗像、その縁に触れるために。
空は低く垂れ込めていた。夏の熱を孕んだ雲が、山の稜線に爪痕を刻むように居座っている。
冬馬は足音ひとつ立てずにそこにいた。泰山の庭、楼蘭の封域。咲貴を担いで戻ったあの日以来、足を踏み入れるのは二度目だった。
音もなく、風だけが通りすぎる。
湿った風に焦げた匂いが混じる。宗像の結界の香とも違う。泰山の霧が焼けた縁の匂いだ。冬馬は喉の奥でそれを一度嚥下した。飲み下したはずの匂いが胸の底に残り、そこをざらつかせる。ざらつきは、名の縁が擦れるときの感触に似ていた。擦れたぶんだけ薄くなる。薄くなった穴から、志貴の名が遠くへ浮いて見える。
「……呼び出したのは、俺や」
木の根を踏むような硬い声。
現れたのは公介だった。
泰山の風すら沈める、宗像の黒と紅の長羽織。
羽織を見た瞬間、背筋が勝手に伸びた。服ではなく、場の理を押さえる鎖みたいな重さがある。鎖の音がしないぶん、余計に重い。
冬馬は目を逸らせない。逸らせば、ここへ来た意味まで失う。逸らさない代わりに唇の裏を噛み、呼吸を整えた。噛んだところの苦さが喉へ降り、胸のざらつきと混ざった。
「咲貴の容態、そんなに悪いんですか?」
「……悪いな。制御不能って意味でな」
公介は真正面から冬馬を見据える。冬馬はその眼差しに、わずかに息を詰まらせた。
責められているわけじゃない。けれど、逃げ道が焼けていく。目線の圧が、言い訳の形を先に灰へ変える。灰の匂いが風の焦げと重なり、喉がからからに乾いた。
「冬馬。お前に、“朔”をやらせる」
「……は?」
しばらく、意味がわからなかった。呼ばれたくない役目を、きちんと呼ばれたみたいに、胸の奥が叩かれる。手のひらが急激に冷えた。逃げたい、と立ちたい、が同時に来る。どちらも嘘じゃないから息が詰まる。
「咲貴が、志貴の代わりに宗像の王として立つ。百日限定や。それを支える“朔”が、お前や」
「……なんで俺なんだよ。俺より優れた時生がいる。……どう考えても、俺やない」
自分の声が少し荒れているのがわかった。止めようとしても止まらない。泰山の空気は冷たくはないのに喉だけが冷える。冷えると、言葉が刃になる。刃の先が自分を切るのも、わかっているのに止められない。
「お前の言いたいことは全部、わかってる」
公介は一歩、冬馬に近づく。その声音には、かすかな痛みすらあった。壮馬の裏切りは伏せられてはいたが、冬馬だけはもう知っている。
その痛みを冬馬は拾ってしまう。拾った瞬間、口の中が乾く。父の名が喉の裏へ貼りつく。言葉にすれば濁る気がして、濁った香の先で志貴が遠ざかっていく気がした。遠ざかる背中の輪郭だけが、いつもよりはっきりするのが怖い。
「志貴を守れなかった責任、誰が取るんや。壮馬の息子として。……志貴のバディとして、王の器を近くでみてきたお前自身として。ここで、逃げるわけにはいかんやろ?」
「……俺は」
喉が詰まった。逃げたかったわけじゃない。ただ、壮馬を父に持つ自分には資格がないと、ずっと思っていた。
胸の奥へ熱いものが落ちて、すぐ冷えた。熱と冷えが同じ場所でぶつかり、ざらつきが増す。志貴の隣に立っていたはずの自分は何もできなかった。その重さが背中から剥がれない。剥がれないから、呼吸をするたび重い。重いまま、言葉を出すと刃になる。
冬馬は視線を落とした。土と苔の匂いが、焦げと混じり、胸の底へ沈む。沈んだ匂いの奥で、志貴の桃の甘さが遠い残り香みたいに浮いた。浮いた瞬間、目の奥が痛んだ。
「……俺なんかが、もう宗像にいちゃいけないんじゃないかって。……そう思って、覚悟していました」
「だから、“命令”にしたる。逃げ場がなくなるように、お前のためにな」
冬馬の目が見開かれる。
命令という音は冷たい。冷たいのに、その冷えが冬馬を立たせるための冷えだとわかってしまう。迷いを抱えたままでは百日を越えられない。越えられないまま咲貴が壊れるか、志貴が戻る場所がなくなる。そこまで見えてしまうから、足が止まる。止まった足に、焦げの匂いが絡みつき、逃げる方向を塞いだ。
「俺が命令してやる。志貴を傷つけた家の責任として、咲貴の“朔”を務めろ。それが、お前に課す罰や」
「……そんなふうに言われたら、逃げられへんやないか……ほんま、ずるいわ……」
「ずるくて悪かったな。お前に、拒否権はない」
公介はいつものように優しい笑顔を浮かべた。その笑顔が優しいままなのが、冬馬にはしんどかった。優しいのに逃がさない。逃がさないのに憎ませない。胸で受ける前に喉でつかえ、つかえたものが熱にならず冷えにもならず、ただ残る。
「俺はどっちも護る。親代わりとして、それが俺の役目や」
冬馬は、しばらく動けなかった。けれどやがて、唇を噛んだまま、小さく頷く。
頷いた瞬間、胸の底のざらつきが少し沈んだ。消えはしない。沈んだまま固まる。固まれば折れにくい。冬馬は自分の手を一度だけ開き、また握った。握り直して、そこに何もないことを確かめる。それでも立つと決めたことを確かめる。
「咲貴は力を扱いきれん。破綻するまで、もう秒読みや」
公介の声が低い。低いまま、土の冷えを含んでいる。
冬馬は喉を鳴らせなかった。鳴らしたら、乾いた音が自分の弱さみたいに散る気がした。
「俺は……バディというより、咲貴に流れ込んで溢れ、暴れるもんを、一時的に自分の身体で受ける役割って理解で間違ってませんか」
言いながら、背筋に薄い寒気が走る。寒気は風ではない。言葉にした瞬間、形がついた。形がつけば、引き受ける場所が自分の中へできる。できた場所が冷え、そこへ熱が流れ込む想像だけが先に刺さる。
「それで間違いない」
公介は躊躇なく言った。躊躇のない声ほど、逃げ道を焼く。
「咲貴は狐を扱えるようにならんと、この先、どうにもならん。……繋げるか?」
繋げるか、と言われた途端、冬馬の指先が熱を持った。持った熱がすぐ冷え、冷えたところが痛い。痛みは、覚えておけと言っているみたいだ。忘れるな、と。
「繋げって、命令と違うんですか」
「違わん。お前に、咲貴のための犠牲になれと強いてるみたいなもんや」
公介は一度だけ、言葉をそこで止めた。止めた沈黙に、焦げの匂いが深く入ってくる。
「……志貴やなくて、咲貴のな」
冬馬の胸の奥が、小さく鳴った。鳴った音は外へ出ない。出ないまま、内側を削る。削れた粉がざらつきになり、舌の上へ残る。
「正直に言うてもええなら、志貴以外のために使われるんは、勘弁して欲しい」
言った途端、喉が痛む。言ってはいけないと思っていた言葉が、いちばん先に出た。出た瞬間、泰山の風がひとつ、遠回りをした気がした。
公介は笑わない。叱りもしない。ただ、眼だけが少しだけ細くなる。
その細さが、冬馬の腹の底をさらに乾かした。乾いたまま、志貴の残り香だけが胸の奥に浮いている。浮いている香は甘いのに、触れると痛い。
「……それでも、咲貴が壊れたら、志貴が戻る場所がなくなる」
公介が、今度は違う温度で言葉を置いた。置かれた言葉は軽くならない。軽くならないから、冬馬の中で沈む。沈んだ場所に、冷えた土の感触が重なる。
志貴の隣にいられた日々は、ただの任務だったはずなのに。それでも、あの横顔の傍にいた時間は、心の奥のどこかを焦がし続けていた。
一心に奪われたくはなかった。ただ、届かない灯だと知っていた。知っているのに、胸の奥に残る香だけは、誰にも触らせたくなかった。
冬馬は息を吸う。焦げの匂いが入ってくる。入ってくるのに、吐ける。吐けるなら立てる。立てるなら、ここで折れない。
「ごちゃごちゃ言うても、結局、志貴が大切にしてるもんを護るってことなら、やるしかないでしょ」
言い終えた後、唇の裏がひりついた。ひりつきは、覚悟の熱ではない。今はまだ、痛みの熱だ。その痛みを抱えたままでも、引き返さないために言葉を置いた。
「……百日だけ、なら。咲貴が“誰かの理”じゃなく、自分の名で立てるようになるまで、その時間を、俺が支えます」
言葉が胸から落ちた。落ちた先で、ざらつきが少し沈んだ。沈んだまま固まる。固まれば折れにくい。
「頼んだで、冬馬。一切の責任は、俺がとる」
静かに風が吹いた。
風に混じった焦げが、少しだけ薄くなる。薄くなったぶん、胸の奥に残っていた桃の甘さが、かすかに息をした。志貴の名は、もう自分の届かない高みにたなびいている。けれど、その香だけは、誰にも消せないまま胸の奥で燻っている。
燻る香に触れたまま、冬馬は一歩だけ前へ出た。足の裏に冷えた土の感触が返り、その冷えが身体を落ち着かせた。落ち着いた途端、逆に怖くなる。怖いのに、逃げない。逃げないと決めた瞬間、心臓の拍がひとつだけ整う。
「俺が、“朔”になります」
口に出した音が、思ったより静かに落ちた。
静かなのに、泰山の空気が変わる。
香が変わる。確かに、変わる。冬馬の意志を映すように。忘れかけていた名が、煙の奥でふたたび息をした。火はまだ脆い。けれど、灯す資格は確かにここにある。
朝は、まだ遠い。
けれどその夜を、くぐりゆけるだけの名が、ここに在る。
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