第34話 あはひの火に 名を結びて


 泰山の奥に設けられた楼蘭の封域は、昼夜を持たなかった。石は冷えきって湿りも香も留めず、残るのは人の体温だけだ。吸う息は胸を浅く縮め、吐けば白さを作る前にほどける。温度だけが均され、音も匂いも薄くなる。その薄さが余計な思考を削り、代わりに肌の記憶だけを尖らせる。


 公介は石室の入口で一度だけ足を止めた。意味のある躊躇ではない。ここから先では、見たくなくても見えてしまうものがある。そうと身体が先に悟り、心のほうが遅れて追いつこうとしているだけだ。


 白布を掛けられた石台に、咲貴が横たわっている。眠っているというより、意識を深く沈めたまま外の気配だけを拾っている静けさだった。呼吸は浅いが乱れていない。近づくだけで熱の所在がわかる。それでもその熱は、暴れる段階を越えて、芯へ座り直していた。


 泣き崩れず、息だけを整えている。香のない空間にひとり置き去りにされても、怯えを表へ出さない。双子の兄の姿が、ふと重なる。似せて育てたわけでもないのに、似てしまうものがある。


 額に触れる寸前、咲貴のまぶたがわずかに揺れた。怯えではない。触れられる前に変化を拾う反応だと、公介は即座に判断する。その反応が喉の奥を冷やす。


 指先に触れた額は確かに熱い。だが熱は散らず、芯に収まっている。抑え込まれているのではない。抑え込む術を、すでに身体が覚えてしまった熱だった。


「起きとるな」


 声を削って言う。削らなければ、こちらの判断まで焦げてしまう。


 咲貴のまぶたがゆっくりと開く。焦点が合うまでが短い。公介の顔、室内、楼蘭の立ち位置まで、視線が過不足なく行き渡る。


 滑らかすぎる、と公介は思った。幼さの残る顔に反して、目はもう順番を迷っていない。


「……ここ、どこ」


 掠れてはいるが怯えは薄い。状況を呑み込んだうえで言葉が出ている。その落ち着きに、公介の神経がひっかかる。


 楼蘭が石台の脇に腰を下ろし、淡い目のまま言う。


「やっと戻ってこれたな。ここは泰山、俺の封域だ。わかるか」


 咲貴はかすかに頷いた。喉が重いのか、声はまだ出ない。胸の奥が焦げたように苦しいのは、痛みのせいだけではない。


 咲貴が息をひとつ整え、次を問う。


「志貴は?」


 その名が出た瞬間、空気が張る。結界が鳴るほどではない。だが咲貴の背の奥で、熱が小さく跳ねた。石室の冷えの中で、その跳ねだけが生々しい。


「眠っている。自分で選んだ眠りだよ」


 楼蘭の声は淡いまま、迷いがない。


「格違いの王の眠りは、誰にも干渉できない。まあ、一心が護ると言っている以上、誰彼と案じる必要はない」


 関わるなと、甘さのない線引きが言い回しより先に伝わってくる。


 咲貴の視線が一瞬だけ伏せられる。悲しみの沈黙ではない。言葉を整えるための間だった。その短さが、公介の神経に触れた。


「戻るよね」


 確認の形を取りながら、結論を押し込む声だった。


「……戻る」


 公介は言い切れない自分に気づき、舌の裏を噛む。噛んだ痛みだけが、いま自分が立っている現実を支える。


「志貴の理が宗像に均衡をもたらしていた。それが崩れたとき、いちばん強く反応したのが君だった。……なぜだと思う」


 咲貴は答えを口にできない。だが思い当たるものは、ひとつしかない。宗像の血がどうとかではなく、もっと単純で、もっと残酷な形だ。


「……わたしが、志貴と、双子だから?」


 空気がわずかに撓んだ。楼蘭の指先が、咲貴の額に触れる。


「そう。双子は、ひとつの存在の分割体として世界に認識される。志貴が宗像の王から降りた瞬間、その空白に反応したのが君だ。それが、今、君を焼いている理由だ」


 咲貴の喉が詰まる。熱が背の奥で一度だけ暴れかけ、すぐに押し戻される。押し戻したのは結界ではない。咲貴の身体そのものだ。折らない手順だけは、もう覚えてしまっている。


「志貴が……王を降りた?」


 咲貴の声が震えていた。公介の胸の奥が、遅れて痛む。


「正確には、志貴が意図していたとは言えないのかもしれない」


 楼蘭は肯定しながら、現実だけを置く。


「でも、現実は変わらない。君に宗像の王格が流れこむのは止められない」


「選択肢はないってことね」


 楼蘭は咲貴の言葉の強さに、わずかに眉を寄せた。


「志貴は宗像の王格から逃げるという発想を持たない。誰かに押し付けることが可能だなんて、思いもよらなかったはずだ」


 咲貴の指が白布の端をつまむ。力は強くない。ただ、現実へ繋ぐ動作が確かだ。冷えた石室で、その小さな動きだけが異様に生々しく映った。


 短い沈黙ののち、咲貴が口を開く。


「志貴には言わない方がいいね」


 そう言ってから、ほんの一拍だけ目を伏せた。迷いではない。言葉が跳ねる先を先に測った結果だと、公介は悟る。柔らかな口調の奥で、線を引く手が静かに動いていた。


「知らないまま戻ってくる方が、志貴は強い」


 感情は添えられていない。だが、必要な刃だけが迷いなく落とされる。


「一心とは話し合うべき。あとで拗れると、志貴が苦しむ」


 理由を並べる必要はなかった。宗像で王が決断を下すときと同じ速さ、同じ重さで、その言葉は置かれる。


 公介の腹の底が静かに冷えた。


「志貴が知れば、結果的に宗像は割れる」


 口調は柔らかい。それでも言葉の先は硬いものに触れている。宗像の内側を、人の心ではなく、亀裂の形で測っていた。


「……誰に教わった」


 低く問うと、咲貴は目を逸らさない。


「教わってない。見てればわかる」


 その軽さが、逆に容赦がない。咲貴が笑えば人は安心する。安心した人間の動きは一拍だけ遅れる。その遅れを咲貴は拒まない。必要なら、ためらいなく使う。その甘さが女の子らしさと同時に出てくるから厄介だと、公介は思った。


「志貴の帰り道に、間違いがあってはいけない」


 帰還ではなく、帰り道。志貴の意思ではなく、宗像が許す幅を確保する言い方だった。愛情より先に、条件が置かれている。


 その置き方に、公介は一瞬だけ別の背中を思い出す。香のない室内で、冬の匂いだけが濃くなるような錯覚だった。泰介が人を抱くように見せて、抱いていたのは道筋だけだった夜の匂いが、喉の奥へ戻ってくる。


 宗像の王は志貴でなくてはならないと理解していながら、それでも咲貴が宗像の座にある光景のほうが妙に具体的に立ち上がってしまう。公介は小さく息を吐いた。吐いた息はすぐ散る。散る速さがこの封域の残酷さだ。


 楼蘭の目は淡いのに冷たい。志貴を見るときの甘さは、そこにはない。咲貴の切り替えの速さと躊躇のなさだけを、温度も変えずに見ている目だった。


 一心が何を考えるか。この咲貴を見てしまえば、楼蘭にも読めてしまうのだろう。もし楼蘭が同じ位置に立っていたなら、志貴のために同じ手を選ぶ。公介はその確信に辿り着き、唇の裏を噛んだ。


「話が早いな。冬馬の入室を許可する」


 楼蘭が指を鳴らすと、石室の扉が低く鳴った。


 冬馬が入ってくる。足取りは静かで、急ぐ様子はない。距離を詰めすぎず、咲貴の熱を刺激しない位置を選び、そこで止まった。咲貴はその立ち位置を、目が合う前に把握しているように見えた。足の置き方だけで、意図を拾っている。


「大丈夫か」


「うん。……今は、大丈夫だと思うけど」


 言葉は曖昧だが、息の整い方は現実を外していない。咲貴は自分の熱の位置を測り、暴れていないと判断したうえで、次へ進む目をしていた。強がりではなく、崩れる前に自分の輪郭を保つための目だと、公介には映る。


 楼蘭が言う。


「彼が君の担ぎきれない荷を分かつ役割を承諾した」


「……冬馬が?」


「王と朔。宗像特有の制度が規定通りに動くだけだよ」


 冬馬の眉がわずかに動く。


「これまで、一心が朔やったはずや。簡単にいくわけない」


 楼蘭は目を閉じた。


「彼は朔ではなかった。最初から、補うだけで済ませる気などなかっただけだ」


 咲貴の喉が小さく鳴り、息が詰まる。驚きは感情の崩れではなく、情報を飲み込むための反応に見えた。


「じゃあ……一心は、志貴を朔として護っていなかったということね」


 公介が軽く継ぐ。


「宗像の王の香や理を引き受けるんやない。あいつはな、志貴を丸ごと、そっくりそのまま引き受けたんやろ」


 冬馬が息を飲む。


「……番、か」


「それしかないだろ」


 楼蘭が、目の奥に鋭さを残したまま笑った。


「千年王の魂も人生も、余すことなく引き受ける。そういう賭け方をする男だ」


 咲貴の胸の奥が焼ける。羨望でも悔しさでもない顔で、それを飲み込んでいく。視線が逸れないのは、逸らした瞬間に自分が崩れると知っているからだ。公介はその冷えに、別の冷えを重ねてしまう。


 楼蘭が淡く言った。


「狐を誤認させるほどの緻密さで、朔のようにそばにいて、それ以上の絆を志貴に選ばせた。宗像一心は、嫌味なほどの魔術師だったわけだ」


 咲貴は感情を乱すことなく、代わりに問いを静かに置く。


「一心のやり口は知らないけど、そもそも、朔って、そんなに易々と立てられるものなの?」


 咲貴の目は慰めを求めていなかった。正確さだけを求める目だと、公介は受け取る。


「簡単なわけないやろ。何百年に一回あるかないかや。一定水準を超えた王格と、それを受け入れられる器が揃わんと成立せん。だから、やるなら堅い形でやるしかない」


 公介が目配せをすると、冬馬が咲貴に腕を差し出した。


「一応、適性はあるみたいやし、百日だけなら、何とかなるやろ」


 咲貴の目が揺れる。年相応の揺れだ。けれどその揺れの奥には、期限を数える冷静が居座っている。


「志貴の戻る場所を残すためだけや」


 冬馬が言うと、咲貴は即座に返す。


「なら、さっさとやった方がいい」


 咲貴が急かしているのは気持ちではない。躊躇えば熱が暴れる。だから先に決めてしまう。そういう種類の速さだと、公介は見た。


「一番確実なやり方は血を使うらしい。首筋に噛みつくのが正式な手順らしいけど、結局、互いの血を体内に取り込むだけやから、方法は何でも構わんはずや」


「百日限定だし、血がまじれば、私は何をしても構わない」


「わかった」


 冬馬が短刀を抜いた。刃は石室の冷えをそのまま写し取り、灯を弾くことなく沈んだ光を返す。尊い儀式のための輝きではなく、現実を切るための温度の低い刃だった。


 咲貴は目を逸らさなかった。怖れがないのではない。怖れを現実として受け取る準備が、すでに整っている。


 刃をひく直前、咲貴が小さく息を吸った。深く満たすのではなく、崩れない分だけ取り入れ、崩れない分だけ吐く。感情を落ち着かせる呼吸ではなく、身体を守る呼吸だった。


「冬馬」


 名を呼ぶ声に、わずかな甘さが混じる。だがそれは寄りかかるためのものではない。相手の腕を確実に動かすために、削りきらず残した柔らかさだと、公介は感じてしまう。


「ここで私が崩れたら、志貴の帰り道が潰れる」


 言葉は静かだった。判断だけが、まっすぐ置かれる。


「だから、本気でやってもらう」


 冬馬が一瞬、呼吸を止める。そして何も言わずに頷いた。刃先の角度がわずかに変わる。その調整に込められたものが、咲貴のためではなく志貴のためだと、公介は痛いほど理解した。咲貴も同じところを見ている。そうとしか思えない顔で、甘えきらずに立っていた。


「ちょっと、我慢な」


 刃が走る。咲貴の喉が一瞬だけ詰まったが、息が乱れきる前に背の奥の熱が応えた。


 白布の端を、咲貴が指でつまみ直す。現実に繋ぐ、その動作が早すぎる。


 冬馬の腕から滲んだ赤が、石の冷えに触れた瞬間だけ鈍く艶めき、次いで咲貴の熱へと細く引き込まれていく。


 互いの血は落ちない。香に拾われ、通路になる。腕が重なるところだけ温度が一度だけ生まれ、その温度が消える前に、金属めいた匂いが淡い香へ溶けていった。


 香が喉の奥を撫でた。鉄の匂いと熱が噛み合い、甘くも苦くもない生の味だけを残していく。公介は舌の裏で、その味を噛んでしまった。泰介が盃を取った夜の赤い匂いが、同じ場所に戻ってきた記憶が遅れて痛む。


「……これで、いい?」


 咲貴の声は震えている。痛みをこらえきれない呻き声が小さく漏れた。香紋が浮かび、二人の呼吸の拍が無言のまま揃っていく。


「寿ぎを」


 咲貴は唇を噛み、目の前にいる男を選ぶために口を開く。


「穂積冬馬を、朔として王台に迎える」


 鎖のような金属音が落ち、世界が応じた。


 公介は、あまりにも早く整ったことに眉の奥が冷えた。咲貴の熱が暴れず、冬馬の息が乱れず、香紋が迷わず輪郭を結ぶ。百年に一度あるかないかの器合わせが、石の上で呼吸を合わせただけのように収束していく。


 拍子抜けという言葉が浮かびかけ、すぐ消えた。これは手順が易いのではなく、流れ込んだ力の格が違う。


 咲貴が息を吐き、笑った。震えを含んだ笑いだが、崩れない。笑いの奥で喉が乾くのが見えた。痛みのせいではない。自分の身に入ったものの重さを、いま舌で確かめている乾きだ。


「百年に一回って聞いてたのに、こんなにあっさり整うんだ」


 言葉は軽い。しかし目は軽くない。咲貴は自分の腕を見てから、冬馬ではなく、石室の奥の冷えへ視線を置いた。


「志貴の力って……こういう段に居るんだね」


 それは羨望でも嘆きでもなかった。ただ、事実を呑み込んだ声だった。


「百日なんて、あっという間に終わる」


 笑ってそう言いながら、目はもう次の手を見ていた。


「だから、無駄は省く」


 その言い方が年齢と噛み合わない。けれど噛み合わなさこそが、いまの咲貴を支える骨に見えた。


「熱が揺れたら休む。揺れないうちは進む」


 感情の話ではない。身体の扱い方でもない。倒れないための順番を、咲貴は淡々と置いている。


 公介は胸の奥で小さく舌打ちする。余白を嘆かず期限を先に置き、家も人も必要なものだけを残す。かつて泰介がそうしていた。咲貴の言葉の奥に、その手触りが嫌になるほど重なる。


 咲貴は笑いをほどき、視線だけで周囲を一度測った。楼蘭の線、冬馬の立ち位置、公介の呼吸。確認を終えると、すぐ自分の中へ戻る。


「短い期間なら王玉もいらないはずだから、焦って取り戻す必要はない。ただ、化け物たちとの戦闘を長引かせるのは嫌い」


 言葉は軽いのに、方針は動かないものとして置かれる。


「これ以降は、宗像の人にお願いしていいんだよね?」


 お願いと言いながら、枠を先に作る口調だった。


「私が倒れても、志貴の眠りを暴かないこと。起きたとき帰ってこいって言えるのは、宗像の座だけだよね。帰り道を汚したくない」


 被害を最小にする。自分に対してすら容赦がない。その周到さに、公介は目を伏せた。わかってはいたが、恐ろしい。泰介の影を見るのは、こういう瞬間だ。


 楼蘭が淡く笑う。


「久しぶりに、宗像らしい宗像を見たよ」


 公介は言い返さない。言い返せば痛むだけだ。


 楼蘭の白は善悪で決めない。損をしない線だけを引く。志貴と咲貴を同じ皿に並べても、箸の伸び方が違う。志貴は未完のまま火を抱えて立ち、その危うさが人の手を呼ぶ。咲貴は形さえあれば最後まで組み上げてしまえるから、その確かさが宗像には都合がいい。だからこそ、千年王の座とは噛み合わない。


「お前は、もう津島を名乗れない」


 咲貴の血の気が引く。津島は守られていた名であり、逃げられた名でもあった。その名を剥がされる痛みを、咲貴はきっちり受け取りながら、後がないことも悟ったような目をした。


「宗像本家の約定に従ってもらう」


 公介は声を整えた。重さを足しすぎれば、宗像は咲貴を王にしてしまう。今はまだ、志貴の帰り道の端に立たせるだけでいい。百日後、一心が志貴を宗像の座へ戻すのかどうか、それはまだ誰にもわからない。わからないからこそ、軽率な判断だけはしない。


「宗像咲貴。一季の王たる君、御位を得られしことを寿ぎ、宗像に栄えあらんことを」


 冬馬と公介が膝をつき、深く頭を下げる。


「宗像……咲貴」


 名が空気を揺らし、香がひとつ、静かに灯った。志貴の香ではない。けれど似ていて違う。未熟で痛みを孕みながらも、確かに咲貴の名だった。


***


 七日間の封域で熱を抑え、契りの縁を身体へ馴染ませたのち、公介と冬馬は咲貴を連れて宗像へ戻る支度を整えた。封域の冷えは変わらないまま、名の結び目だけが内側で温を持ち続けている。その温が過ぎると、身体は嘘のように静かになる。静かになる速さが、かえって現実的だった。


 見送りの場に立った楼蘭は、封域の内と同じ温度で言った。


「ここに長く居座られても困る。泰山は君の居場所じゃない」


 拒絶ではない。線を引くだけの声だった。抱えもせず、突き放しもせず、ただ境を示す。


「俺はたまたま泰山の血族に生まれたから、成り行き上、預かっているだけだ。千年王として、永遠に抱え込む気はない」


 その言い方には、選択肢が含まれていた。抱えることも、手放すこともできる立場だと、あえて隠さない。


「泰介さんにも、公介さんにも、一心にも……志貴にも、個人的な借りはある」


 楼蘭の視線が、ひとつずつ名前を辿る。視線の動きに、感情は混じらない。


「だから手は貸す。必要なところまでは」


 言葉は穏やかだが、そこで一度、確実に止まる。


「でも、宗像という家全体を助ける義理は、俺にはない」


 空気が定まった。楼蘭がどこまで立ち、どこから引くのかが、はっきりと示される。公介は何も言わない。言えば、線を踏み越える。


 楼蘭は続けた。


「志貴の願いなら特例で対応するけどね」


 名を呼ぶ声に、わずかな温度が混じる。


「彼女は、家のためだけに千年王の力を使わない。魂に嘘をつけないと、俺は知っている」


 評価ではない。確認だった。同じ場所に立った者にしか分からない、意志の置き方の確信だ。


「だから、志貴に上位の色が降りた。ああいう王は信頼できる」


 視線が咲貴へ移る。一拍、意図的に置かれた間が、空気を切る。


「君は、俺と似ている」


 咲貴の肩が、わずかに揺れた。


「判断が早く、切り替えも速い。必要とあらば、冷酷になれる」


 否定でも、侮蔑でもない。事実だけが並ぶ。


「力があれば、君は使える。正しさよりも、結果を優先できる」


 楼蘭は視線を外さずに続ける。


「俺も同じだ」


 静かな自己認識のようだった。


「だから、俺には志貴のような色は降りなかった」


 その言葉は、咲貴を責めるものではない。羨む響きもない。自分の内側を、淡々と提示するだけだ。


「君が宗像の王格に向いている理由も、よく分かる」


 それだけ言って、楼蘭は口を閉じた。余計なことを言えば、それは選別になる。


 冬馬が一歩、前に出かけるが、公介が視線で制する。楼蘭は最後に、公介へ向き直った。


「百日後のことは、誰にも分からない」


 予言でも警告でもない。


「志貴が戻るかどうかではなく、戻ったときに、何を選ぶかだ」


 公介の喉が、わずかに鳴る。


「公介さんは、選ばせる側だ。忘れないで」


 楼蘭はそれだけ言って踵を返した。泰山を背にすることを、ためらわない歩き方だった。


 石室を出て少し歩いたところで、公介が言う。


「東側で、志貴を除けば、あいつの上はおらん。この意味、わかるか」


 咲貴はゆっくり頷く。動きは遅いのに、目は冷えたまま動く。


「志貴は在るだけで宗像の独立が可能になる。核を持つ国みたいなもんや。……今はそれがギリギリ保たれてるような状況やと理解しとけ」


 咲貴は笑おうとして、飲み込んだまま言った。


「隙を見せるな、ってこと?」


 公介は肯定もしない。否定もしない。ただ笑う。笑いながら、自分が道筋を整える側へ回っていることに気づき、気づいたことさえ飲み込む。泰介に似てきたと認めた瞬間に、何かが折れる気がした。


 歩き出した咲貴の足が止まり、膝が折れそうになって持ち直す。持ち直し方がうまい。折れないための動作を、すでに選べてしまう。


「……本当に、何も、わかっていなかった」


 自分を責める言葉ではない。痛みを認め、次へ進むための言葉だ。


 冬馬が手を差し伸べ、事実だけを置く。


「わかってたとしても、何も変わらんかったと思う。結局、志貴は一心の声と腕を選ぶだけや。だから、お前は何も悪くない」


「志貴が地獄に沈むなら、一心は自分の手で地獄そのものを焼き直す。……番ってのは、そういうもんや」


「あいつら、一度や二度の廻りやないんやろ」


 冬馬の吐息混じりの声に、公介もうなずいた。


 咲貴は、いま聞いた言葉の重さを飲み込み、遅れて口を開く。


「宗像って、魂で見るんだね」


 冬馬と公介の表情が、同じような形で固まった。侮りではない。宗像には珍しい視点を、真正面から向けられた驚きだ。


「私にとって志貴は、双子の姉でしかない」


 咲貴はそう言って、そこで言葉を止めた。


 公介は、その止め方に引っかかる。志貴を説明しない。理由も、立場も、持ち出さない。ただ、名を呼ぶ距離だけが残されている。


「わたしは、双子だけど、志貴じゃない」


 言い切った直後、咲貴は笑う。甘い笑いだが、目は現実を手放さない。愛されるための笑いではなく、自分を保つための笑いのように、公介には見えた。


「志貴になりたいとも思わないけど、百日だけだし、どうせやるなら、全力でやってみようかなって思う」


 歩幅を崩さず、熱の位置だけを確かめる。その瞬間、公介の背筋に薄く粟が立つ。泰介が同じように世界の縁を撫で、迷う前に道を決めていった夜を思い出す。血の匂いも情も混じらない、低い温度の手つきだ。


「お前、向いてるわ」


 褒めたくて出た言葉ではない。怖くて出た言葉だ。咲貴はそれを受け取り、すぐ胸の内へ畳む。期待が形になる前に、扱える大きさへ切り分けてしまう。その仕草が、公介にははっきりと見えた。


 公介は目を伏せ、ひとつだけ願う。一心が、志貴の意思を折らないことを。


 迷う音がしない家だ。その静けさを知っているからこそ、胸の奥のどこかが遅れて軋む。


 泰山の冷えは変わらない。だが名は結ばれ、その結び目だけが、確かな重みとして胸の底に沈んでいた。


 咲貴の名は、まだ熱を帯びない。けれど確かに、香としてここに在った。


 そして一度だけ、真の名を返せと迫る香がした。


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