第32話 黄泉ゆらぐ 香もなき夜に 君を識りたり
禁域のどこにも、暁の気配はなかった。
空のどこかで夜明けが始まっているはずなのに、この一角だけは、時間のほうがわざと視線を外している。香も炎も、いまは理の底で凍りついたまま、差し込んでくるはずの光の筋さえ、どこにもない。
宗像が忌まわしい因縁と呼ぶ白い炎の女は、ふたたび気配をひそめていた。かつて志貴の父である泰介と刃を交えたのちと同じように、ざらついた余韻だけを岩肌に擦りつけて、闇の向こうへ退いている。
千曳の岩の前に、公介はひとり立っていた。
風が千曳の岩を撫で、砂粒が僅かに擦れ合った。名を拒む夜の息みたいな、乾いた音だった。
吐き出した息はひどく冷たく、結界の膜に触れたところで細かく砕け、音も立てずにほどけて消えた。
志貴が眠りについてから、七日が過ぎている。
千曳の岩に薄く張り付いている光が、昔とは違う色をしていた。かつてはただの結界の明滅にすぎなかったものが、今は触れただけで名を吸い取ってしまいそうな、冷たい膜に変わっている。
今や、ひとたび名を洩らせば舌ごと凍りつきそうな禁域そのものへと、いつの間にか、傾きつつあった。
時の足音すら、ここではいったん途切れている。
火も、香も、光さえも、志貴の眠りに合わせるように瞬きを忘れている。この場所だけ、時間の進み方が変わっていた。世界のどこかで確かに巡っているはずの時の流れだけが、この一点を嫌うみたいに迂回し、いつもと違う筋を通っているように思えた。
夜は、香の名を受けつけまいとし始めていた。
志貴という存在を受け容れることを、ひとときやめてしまったかのように。
それなのに、境界の向こうから聞こえていたざわめきは、風の音ごとぴたりと途切れていた。
悪鬼の跋扈も、今はごく普通の範囲に収まり、大物が禁を破って地上へ流れ出す気配もない。
嵐の前とも嵐の後ともつかない、妙に均されてしまった静けさだけが、薄く張り付いていた。
「こんな真似、やれるとしたら、志貴しかおらへんな」
苦笑いとも祈りともつかない声が、千曳の岩に吸い込まれていく。
公介は腕に巻き付けるように持っていた長衣をそっと外した。
志貴が最後に身にまとっていた王の装束が、夜気のなかにひらりと広がる。織り込まれた朱と金が、灯りを失った世界の中で、沈んだ火の名残みたいに、くぐもって見えた。
一心が残していったものだ。
似合わん、似合わんと口にしていたくせに、誰より先に志貴の肩へ掛けた男が、今度はそれをまるごと剥ぎ取ってここへ置き去りにした。
意図を思えば、苦い笑み以外のものは出てこない。
「俺にとっては、神隠し以外の何ものでもないわ、一心」
いつ、何を引き金に、あの男は踏み切ったのか。
そこへ至る道筋だけが鮮やかに残り、肝心な手の内は闇の中に沈んだままだ。
公介と楼蘭でさえ、壮馬が離反の側へ回るとは読み切れなかった。敷かれていた布石はあまりにも巧妙で、宗像の狸であるはずの自分ですら、常に半手ほど遅れて盤を追いかけるしかなかった。
「志貴……やろな」
一心の判断基準は、つねに志貴の思考と反応にある。
一瞬の表情の揺らぎさえ見逃さない。見逃さないどころか、その僅かな揺れから先の盤面まで、先回りして立ち回る。
「言えよな。時生はええ迷惑の大怪我や」
誰もいない岩の表面に向かって、思わず言葉を投げつける。
完璧にやりとげると決めたなら、志貴以外の命は後回しにする。あの男なら、そのくらいは平然と切り捨てる。わかっていたことだが、ため息はどうしても出る。
「時生には、詫びなあかんな。あいつの好物、何やったか」
冗談めかした声に、自分で苦笑が混じる。握った指先が、王装束の布地をきしりと鳴らした。
どんな手札を切られても、公介が敵に回らないと信じ切れるのは一心と楼蘭の二人だけだった。ほかは誰であれ、土壇場で盤に載せ替わる。
「黙って待っててくれるような、良心的な敵方やったら、助かるんやが……」
叶わないと知っているからこそ、口に出した瞬間に虚しさが喉に残る。
王装束を胸に抱き寄せる。布に染み付いた志貴の香りは、すでに薄くなりかけていた。それでもなお、纏いつく桃の甘さと血の鉄の気配が、骨の奥のほうで、じわじわと疼きを増していく。
「志貴の名を、奪わせてたまるか」
喉の奥で、名を焼いた。
声にして呼べば、どこかへ流れ出してしまいそうで、あえて形にはしない。
咽が裂けようとも叫べない。
それでも、志貴という名だけは誰にも奪わせないと、胸の奥が先に吠えていた。
禁域の静けさのさらに奥で、胸のどこかから薄い膜が一枚、ふっと剝がれたみたいな感覚が走った。
志貴が残していった香の流れが、そこでいきなり途切れる。
名の輪郭が、薄氷を踏み抜いた足もとみたいに、きしりと音を立てて揺らいだ。
一心は敵になり得ないと頭ではわかっているのに、喉の奥だけが冷えたまま戻らない。
「気配が、消えすぎや」
呟いた声に、夜は何も答えない。千曳の岩は黙したまま、ただ冷たい光だけを返していた。
***
宗像本邸は、冷えきっていた。
大広間の中央に据えられた香炉の中で、炭の火は赤く残っている。けれども、炎は揺れず、燃え残った香木だけが、かすかな桃の甘さを空気の底に溜め込んでいた。その香りは、部屋の隅々へ広がることなく、どこか心許ない位置で立ち尽くしている。
時生は、黙って茶を淹れていた。
首から腕にかけて巻かれた包帯が、やけに白く、目に痛い。動くたびに、布の下で鈍い痛みが走るのか、肩がわずかに揺れる。
「公介さん、飲みます?」
湯を注ぐ音が、静かな室内に細く伸びる。湯気が一筋、まっすぐに立ち上り、その途中で桃の香を拾って、ゆらりと揺れた。
室内には、志貴が最後に残した香が、まだごく淡く漂っている。まるで、それだけが彼女の在り処だと言い張るみたいに、目に見えぬ印となって部屋の底に張りついていた。
時生は、向かいに座る冬馬の前にも、そっと湯呑みを置いた。
冬馬は湯呑みを掌で包みながら、苛立ちを隠そうともせずに唇を歪めた。熱に気づくことも忘れているのか、指にじりじりと熱が移っている。
「この七日間、あの二人から何の接触もない。一言の連絡もよこさへんなんて、ありえへんやろ」
湯気を切り裂くような声音に、公介はわずかに目を伏せた。
すでに知らせを受け取っていただけに、耳に痛い。
「独断専行を許したんは、そもそも俺なんや。もう、やいやい、言わんとってくれ」
公介は喉に茶を流し込みながら、小さく息を吐いた。
ほんの数時間前のことだった。
月影の落ちる庭に、風を裂く気配が走った。
黒き神狼が、そこにいた。
ヨルノミコト。
一心が代行として使いに立てる、神鬼の類。
庭石の上に降り立ったその影に、公介は声を投げた。
「きたか」
黒い毛並みが、夜の色をまとったまま、微かに揺れる。
『そのまま聴いてほしい。志貴という名は、しばし沈黙の内側にのみとどめられる』
低く、よく通る声だった。
公介は背筋を伸ばし、その場で息を飲み込む。
神狼の瞳には、誰の姿も映っていない。ただ、伝えるべき命と、その重さだけが、深いところに沈められているように見えた。
『百日。そのあいだ、主は理の底より戻られない』
百日という数だけが、闇の中でくっきりと輪郭を持つ。返しかけた言葉を、公介は喉の奥で噛み殺した。
『志貴様の魂はいま、赦しの理により、最深に沈んでおられる。その静寂を破る者あれば、敵味方を問わず牙を向けると、一心様は申されました』
「あいつ、ほんまにやりかねんからな」
一心らしい物言いだと理解した瞬間、背骨の内側に冷たいものが走る。
だが、その言葉とは別の場所で、公介にはもうひとつ、重大な問題が見えていた。
「志貴の名がな、頭の奥で薄墨みたいに滲い始めてる。これについて、何かあるか?」
名は、刻まれて初めて、この世に居場所を持つ。
呼ばれなくなった名は、やがて忘却の泥の底へ沈み、輪郭から先にほどけていく。忘れられた王は、王であったことすら、消されていく。
『だからこそ、お伝えしに参りました。志貴という名をいま刻めるのは、あなた方だけだ』
神狼の声は、あくまで凪いでいた。ただ、動かせない事実だけが、静かに置かれていく。
一心は、いつも伝える相手を最小限に絞る。
公介と楼蘭の、最大で二、最小で二。
宗像と泰山のあいだに橋を渡す、その二人のみ。
二人以外に伝えないことこそが、一心のリスクヘッジだった。
「百日は、大きいな。もたせろ、ということか」
公介は唇を噛む。
志貴の名を護る。それが、公介に課された次の試練だと悟った。
志貴は、己の魂と戦っている。
その眠りは、赦しという名の理を、もう一度その身に受け入れるためのものだ。
己を偽り、理を都合よく書き換えようとする存在に抗うための、長い再生の入り口でもある。
「簡単なことやないぞ。壮馬から見れば、今がいちばん攻め時や」
ヨルノミコトは何も言わない。
ただ、まっすぐに公介を見つめる。その沈黙が、言葉以上の圧となって肩へ降りかかった。
志貴をまた、危険にさらすのか。
その問いが、声にはならないまま、黒い瞳の奥から響いてくる。
公介は、目を伏せたまま、しばし黙した。
胸の内側で何度か言葉を往復させ、それからようやく、喉を通るものを選ぶ。
「わかった、わかった!」
呼吸を整え、ゆっくりと顔を上げる。
「ただな。叔父の目から見れば、姪はどっちも、まだ子供やぞ。一心には、咲貴を立たせてみると伝えといてくれ」
それはつまり、咲貴に王格を降ろすということだった。
世界は、ひとつの器に、ひとつの名しか居着けない。
咲貴の名が刻まれた瞬間、志貴の名は肩で押されるみたいに外へ滲み、足場をなくす。
新しい名の墨が濃くなるほど、古い名は紙の上で滲み、口に含めば舌の先でほどける。呼ぼうとしても喉に引っかからず、書き留めようとしても、筆先が空をなぞるだけだ。
名を奪われた王は、誰の記憶にも棲めず、世界の縁から静かに滑り落ちていく。
そのあやうい理を、百日だけ無理やり動かす。
そんな場所に咲貴を立たせるなど、叔父としての感覚から言えば、どうかしているとしか言いようがなかった。
これがどんな意味を持つのか、咲貴にはまだわからないだろう。
わからないまま、その身を差し出すことになる。
ヨルノミコトは、公介の決意を十分と見たのか、風に身をゆだねるように姿をほどいた。
庭に吹き込んだ夜風だけが、その気配の名残を、かすかに揺らす。
現に戻ったときには、月影の庭には誰もいなかった。
「まったく、ほんま容赦ないな」
伝令が来た時点で、自分の考えは見透かされていたのだろう。
公介は、空気が抜けるような深い溜息をついた。
目の前では、冬馬がまだ湯呑みを握りしめたまま、納得いかない表情で眉を寄せている。
「……公介さん?」
時生が、そっとこちらをうかがう。
「百日や」
公介は短く告げた。
「志貴は、百日戻らん。そのあいだ、名を忘れたら終いや。うちの一族ごと、千年かけて積んだもんが全部、なかったことになる」
冬馬の指が、湯呑みの縁でぴくりと震えた。
時生は、黙って視線を落とす。
「……百日も、保たせられるんですか」
「やるしかないんや」
茶の湯気が、桃の香を巻き込みながら、静かに揺れた。
***
ほぼ同じ刻、泰山。
楼蘭は水鏡の前に座し、静かに香の筋を見つめていた。細い水面が、夜の気配をそのまま写しとり、ときおり山の風に震えて、淡い波紋をひろげる。
風のざわめきとともに、黒狼が現れた。
「ようやく来たね」
楼蘭は、目だけで笑った。
衣の裾が静かに擦れ、水鏡の面に淡い波紋が走る。
『我が主の命により参りました。お伝えしてもよろしいでしょうか』
「構わないよ」
『こちらは百日は出せない。あれを叩き起こして、壁にでもせよと』
短く告げられた言葉に、楼蘭は小さく目を細める。
「あれ、か。まあ、心当たりはある。本当は、もう少し眠らせておきたかったんだけどね」
頬に触れた自分の指先が、かすかに痛んだ。
楼蘭は苦笑を浮かべ、息をゆっくり吐き出す。
「百日とは、また思い切ったことを。いま、千年王は実質、俺ひとりだってわかってて言っているはずなのに。あの男は、本当に悪趣味だ」
『名を挙げられた方は、あなたと公介の二名のみです』
ヨルノミコトの声音は淡々としていたが、その内側に、選別の意志のようなものが、かすかに滲んでいた。
楼蘭はしばし黙し、水鏡の底を見つめる。
「本当に、契約は成功したんだろうね」
問いというより、確かめるような呟きだった。
水鏡の奥で、淡い光がゆらぎ、沈んでいく。
楼蘭もまた、かつて三十日の眠りについたことがある。
宗像の深い場所に護られ、誰の足音も届かないところで、ひたすら内側へ沈むほかなかった時間を思う。
あれは、千年王としての二度目の始まりだった。
眠りは魂の軸を据えるための儀礼。
儀礼と呼ぶには苛烈で、再構成と言い換えるほうがまだ近い。
そのとき支えてくれたのが、公介であり、一心だった。
当時の楼蘭は、自分が宗像に返し切れないほどの恩義を負ったと思っていた。
だが今ならわかる。
あれは志貴のために必要な未来を、先回りして学ぶための時間だったのだ。
楼蘭の三十日は、そのための予行演習に過ぎなかった。
胸の内で、やれやれと肩をすくめる。
気づいたときには、すでにあらゆる布石が打たれた後だったというわけだ。
周到という言葉では足りない。どこか罪深い。
あの男は、いつもそうだ。
『全て、滞りなく』
ヨルノミコトは、短く告げた。
「良かった」
楼蘭はほっとしたように目を細め、続けて問いを重ねる。
「でもひとつだけ聞かせて。なぜ百日もかかる」
『主は、根こそぎいく、とだけ』
それ以上の言葉は付け足されない。
楼蘭は、ふと笑った。
「輪廻にまで踏み込むつもりか。あの男らしい徹底だ」
ヨルノミコトは肯定も否定もせず、静かに沈黙を保つ。
その沈黙じたいが、限りなく肯定に近いものに感じられた。
「この俺でさえ、この身体の扱いに、未だ難儀しているというのに。……倍以上やるとはね」
楼蘭は、包帯を巻かれた腕を軽く持ち上げて見せる。
布の下に残る痛みが、三十日の眠りの代価を、まだ忘れていないと告げていた。
「敵方が向かって来れば、対処はできる。けれど、冥府から外れた連中の目は、宗像へ向かうかもしれない。志貴がどこに沈んでいるのか、嗅ぎつけようとする奴らは、必ず出る」
深く息を吐き、厄介事ばかりだと小さくぼやきながら、楼蘭は机の上の桃に手を伸ばした。
熟れた桃を一つ、柔らかな布で丁寧に包みながら、指先に伝わる弾力に、ふと志貴の顔が脳裏をよぎる。
「桃、いるだろう。持っていきなよ。あの子、好きだから」
『感謝いたします』
ヨルノミコトは、布包みを口にくわえ、深く頭を垂れた。
「俺、天使みたいだな。悪魔の使者に、土産まで持たせてやっている」
皮肉混じりの言葉にも、黒狼は何も言わない。
山の上から、ひと筋の風が吹き込んだ。
その一陣に紛れて、黒い影は夜へと溶けていく。足音も残さず、ただ桃の香だけが、水鏡の前にわずかに残った。
水鏡の縁で、雫がひとつ、こつ、と鳴った。
禁域からこぼれた桃の気配が、細く細く、この世に結びとどまっている。
志貴という理の痕。
世界がその名を忘れようとしても、まだ消えきらない微かな残り香だけが、夜の底で、静かに鼓動していた。
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