第6話 悲劇
前置き。
私は気分転換のために横浜の氷川丸なる船の機関室を見に行った。
……そこで悲劇が起きたのである。私は、家の鍵を忘れていた。機関室を見に行く前日に、私はjaxaのキャンパスを自転車で訪れたもので、疲労が蓄積していた。
おそらく、持ち出すことを忘れたのはそれが大半を占めるだろう。
日が登って数時間経過したころ、私は新横浜へと降り立った。
そしてまずはゲーセンに行った。専門店と銘打っていたからにはマシな品揃えをしているだろうと期待してのことである。
——結果、私が得たのはとくに好みでもないものだった。
次に向かったのは飯屋だった。
飯を食わずに新横浜に出てきたものだから、私は酷く飢えていて、その様相は私の普段の目の下の隈と合わさってさらにひどい化学反応を起こしていた。美味い飯が食いたい。そう思いながら歩を進め、何となくたどり着いた飯屋にふらりと入って、店員に案内されるがままに、座ってメニューを開くと、その紙面ではデミグラスソースがハンバーグと舞踏を舞っていたり、野菜には煌びやかなストールが掛かっていた。うまそうだ。
とりあえず、店員がお勧めしているメニューを頼んでみる。横浜で店が開店してから72年も愛されているご長寿メニューだそうで、非常に心が躍る。どのような見た目なのだろう?
——料理を待つ間、私は中原中也の詩集を読み漁ることにした。
詩集とは、ひとつの作品群ではある。しかし、それらに収録されなかった物も多々あるだろう。私は、その収録されなかった作品すらも愛おしいと思う。全てに価値があり、心があり、そして風情がある。おぉ、私の文学生活を応援せよ、作品。それはそうと、出先に文庫本を持ち込むのは正解だった。スマホのバッテリが恭しく1%を告げる絶体絶命の崖っぷちにおいて、紙製のアナログな媒体はそんなこと知らないかのようにそこにあるのである。素晴らしいことだとは思わないか?やはり、枯れた物も混合させるべきだ。
「お待たせしました、ハンバーグと野菜のワンプレートです」
ついに、待ち望んでいた飯が来た。噂の通り、とてもジューシィで彩のある料理だ。慎重にフォークでハンバーグを切断し、程よい硬さのブロッコリをヒョイと口に入れれば、そこはいかに試練を課された私の口内といえど、
——脳内で思慮を凝らし、店で食べ始めて約1時間。私は完食してしまった。もともと、胃袋はそれなりに巨大だと思っていたが、ハンバーグの大きさがよく行く洋食屋と比較してそれなりに異なっていたため、いささか時間を要した次第である。
食べ終わってしまったことに落胆しつつ、会計を済ませて店を出れば、相変わらず海が見える。鬱蒼と緑生い茂る山々などでなく、明瞭に太平洋と接続された世界。
そして私は移動を始めた。オオカバマダラの大移動がごとく、港未来線へと乗れば、行き着くのは氷川丸である。タラップを渡り、そして乗船するとまず見えてきたのは、チケット売り場だった。なるほど、船内で買って見回るのか。そう思いつつ、入場料を払い、心をゴム毬のようにべちょゆんべちょゆんと飛び跳ねるのを鉄板で抑制しつつ、変態のように内装や柱の彫刻などを撮影しては見回し、旧時代の船の趣向の凝らし方に詠嘆しながら、デッキや客室を見回った。特に気に入ったのは一等喫煙室で、シックな雰囲気を醸し出しつつ、居心地の良い空間へと仕上がっていた。そうして船内を見回り機関室へと赴けば、かつて機械科であった私がそれこそ核実験の際に射出されたマンホールのように、第二宇宙速度で飛び跳ねるものがあった。そう、エンジンである。船舶、航空機、自動車ともに化石燃料を利用するエンジン形式は、ほぼ、戦前には出揃っていた。ともあれ、階段を降りると、B&W社製の、ダブルアクティング・4ストローク8気筒ディーゼル・エンジン2機2軸が、私の眼前を覆い尽くした。ダブルアクティングとはなんぞやと、
〔エンジンの仕組み〕
まずエンジンは、大まかに分けて三つの構造を持つ。
1.燃焼室
2.変換器(クランクシャフト…)
3.本体(エンジンブロック…)
そして、このなかで最も重要なのが「燃焼室」であり、ここにはピストンとコンロッドという、爆発によって動力を生み出す仕組みがある。ダブルアクティングは、そのピストンとコンロッドがおそらく2つ装備されており、いわゆるV型180°や水平対向エンジンのように、上下や、もしくは左右の、両方向に動く。氷川丸の燃焼室は直立であったから、この場合上下に燃焼室が設けられていた……(なお、普通のエンジンは燃焼室はひとつしかない。)これらによって、約10tもの船体を稼働させていたわけだが、構造が複雑化しがちで扱いも困難な物だったらしい。
エンジンを舐め回すように見た後は、さらに氷川丸の内装をすべて細かく記録してやろうと思い、写真を撮影し回った。
——最終的に氷川丸の写真は数百枚に膨れ上がった。
サァ、帰宅しよう。氷川丸を降り、ランドマークタワーとマリンタワーを登り、ジェットコースターに乗った後、とくに大したこともなく、無事に元町中華街駅から電車に乗った。その時である。家族からひとつの連絡が届いた。
「家の鍵忘れてるよ」
私は硬直した。家族は今全員、出先である。私も含め。そうして、最寄駅に着いてからはワクワク地獄の時間潰しが始まった。とにかく暇だった。遊具にまたがり、空が暗くなるのを感じつつ、左右前後にみょんみょんと動いていた。そうして数十分後、公園の目の前の駐車場に止まった車から、颯爽と降りてきた旧車乗りは、ビクッとしてこちらを見た。何だ。何がおかしい。怖いなら君が家の鍵でも作ってはくれないか。
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