第33.5話 【閑話休題⑥】葵坂栞の場合①

 目の前に三本足の巨人が現れたかと思うと、地面に落ちていたメリーゴーランドを手につかみ、ばりばりと音を立てながら食べ始めた。

 三本目の足は所在なさげにぶらぶらと動いているので、別に足ではなくしっぽでもよかったのではないかと思う。

 空がひかり、24人の天使がラッパを吹きながら光臨してくる。

 地上では馬や羊やラクダが歌を歌いながら踊りまわっている。


(ああ、これは夢だ)


 夢の中で自分がいま夢の中にいると気づいて、葵坂栞は起きることにした。


(3.2.1.はい)


 起きれなかった。相変わらず巨人たちはメリーゴーランドを食べている。メリーゴーランドのペガサスたちがそこから逃げるように飛んで行った。


(夢じゃないのかな)


 夢だった。

 頭が痛い。がんがんする。

 目の前にアルコール度数の高いチューハイの空き缶が山ほど並んでいるのがみえた。

 さっき見ていたのは夢なんだろう。

 頭の中で巨人たちがタップダンスを踊っているような気がする。ガンガンする。吐き気もする。

 あたりを見回してみる。見慣れた光景だ。ここは自分の部屋だった。


 ひどい格好だ。

 よれよれのスーツ姿のままだった。

 昨夜、帰宅途中にコンビニによって大量の酒を買ってきて、そのまま一人でやけ酒を飲んでいたことをようやく思い出してくる。


 今日は月曜日。

 昨日は文化祭だったので、今日は代休で休みだ。


(学生時代と大人になって、変わったことといえば、お酒飲めるようになったことくらいよね)


 そう思いながら、立ち上がる。

 頭がガンガンする。天使たちが槍をもって、頭の中でそこらかしこに突き刺しているような気がする。

 コップに水を汲み、一口すする。

 何人かの天使たちは洗い流されたようだけど、いまだ洪水にもまけず、けなげにも槍を突き刺してくる。

 頭が痛い。


(あーーーーーー。これは)


 しばらく駄目なやつだ。

 午前中は大人しく家にいよう。

 その前にシャワーでも浴びてさっぱりしたいけど、動くのも億劫だ。


(結城さん、ちゃんと綾奈のことを見つけられたのかしら)


 見つけたに違いない、と思う。

 なぜか、そこだけは確信できた。


 机の周りに飾っている、押しの絵師さんであるミレさんの絵を眺める。

 本当に、大好きな絵。

 見るたびに、心の中をえぐられるような気がする絵。

 結城さんの描いた絵。


 痛む頭を抱えながら、テーブルにいき、椅子を引いて、座る。


 そしてそのまま、ぼぅっと何も考えずに、天井をみあげる。

 何の変哲もない、普通の天井。


(綾奈)


 黒髪の、少し憂いを帯びた雰囲気のある、綺麗な人。

 大学時代の後輩で、大学時代の彼女。


 今は彼女じゃない人。


 思い出の中の綾奈は、いつも笑っていた。笑っていたけど、本当に心の底から笑っている姿を見たことはないような気がする。

 いつだって、どこでだって、彼女はどこか遠くを見ていた。

 授業中も、デートしてる時も、抱かれている時も。

 完璧なように見える彼女の中には何かが欠けていて、その欠落ですら彼女の美しさの一助となっていた。


(今ならわかる)


 彼女にかけていたのは、結城さんだったんだ。

 初恋の人が、ずっと心の中に残っていたんだ。


(そして私は)


 彼女の中の初恋を、塗りつぶすことができなかった。


(お酒飲める歳になってよかったな)


 嫌なことから酒に逃げることができるのは、大人の特権だと思う。

 逃げたところで嫌なことはずっと残っているものだけど、すべての人が、まっすぐに立ち向かえるわけじゃない。

 逃げるのは悪いことじゃない。

 その妥協点をみつけることができるのが、大人なんだろう。


(私は大人になれたのかな)


 分からない。何も分からない。

 テーブルの上に散乱している缶を見ていたら、ろくな大人にはなれていないような気がする。


(仕方ないか)


 何も考えたくない。

 好きな人と一緒になれる人なんて、本当に好きな人と一緒になれる人なんて、ただ少しの限られた人たちだ。特別な人たちだ。


(私は特別な人じゃなかった。ただの凡人だ)


 恋でも絵でも、そこそこのところまではいけるけど、そこから先に行くことはできない、ただの凡人だ。

 別に悪いことじゃない。

 普通でいられることは、それだけで幸せなことなんだ。


(普通じゃない人たちは)


 生きるのが、つらいだろうな。

 またお酒を飲もうかな。


 今日は休みだし…なにより、もう家から出たくない。


 いまだに頭はガンガンしているけど、駄目な大人である私は、迎え酒をとることにした。

 全部忘れることはできないけど、少しだけ、少しの時間だけは忘れることができる。


 せいぜい、三本足の巨人に、私の思い出をつぶしてもらうことにしよう。


 アルコールの匂い。

 その底に耽溺していく。

 溺れてからまれて。

 駄目になっていく、駄目な自分。


(綾奈)


 あの子は、賢い子だから。

 周りが見えすぎてしまうから。

 激情に飲まれなければ、ちゃんとした生活を、ちゃんとした人生を送れるはずだ。


(はずだったんだけどね)


 私が心配しても仕方がない。

 決めたのは私じゃない。

 幸せって、なんなのだろう。

 本人たちが幸せでいれば、幸せなんだろうか。

 それで周りを巻き込んで、周りが不幸になったとしても、自分たちは満足なんだろうか。


 お酒の匂い。

 くらくらと靄がかかる頭。


(あの子も馬鹿になればいいのに)


 なり切れないから、真面目に苦しむのだろう。


 愛といえば、聞こえはいいのだけど。


(未成年に手を出した、しかもその相手は実の妹で、教育実習期間中で、しかも同性愛で)


 客観的にみて、アウトをいくら重ねているのだろう。


 お酒で目の前がぐにゃりと曲がっている。

 あの子の人生は、まっすぐ伸びていけるだろうか。


 自分が幸せになる勇気を持つのは簡単かもしれないけど。

 周りを不幸にする勇気を持つことは簡単なのだろうか。


 分からないけど、とりあえず。


 栞はお酒を飲んで、考えることをやめることにした。


 その選択だけは、簡単だった。

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