第32話 涙の表面張力

息ができない

溺れるような 深い場所

でも 君がいる

君がいてくれるから

僕は まだ息をしていられる


もう 前を向ける気がする

深い海の底から

少しずつ 光のほうへ

手を伸ばしているんだ









———

まみは建物を出て、冷たい風に吹かれながらゆっくりと歩いていた。

「お腹が痛い」なんて嘘だった。

けれど、本当に苦しかったのは、心のほうだった。


——見てしまった。

あんなふうに崩れ落ちるユウの姿。

そして、彼を支えるカイとレン。

あの空気に、自分は入り込めなかった。

入り込む資格なんて、ないような気がした。


「私は、ただの外の人間なのに……」


ポツリとつぶやいた声が、夕方の歩道に吸い込まれていく。

心臓のあたりが、ぎゅうっと締めつけられる。

何もできなかった。何も言えなかった。


ユウの歌が、頭の中で何度も繰り返される。

「これは終わりじゃない きっと始まりなんだ」

あのフレーズが、今の自分を責めるように響いた。


ふと、背後から走る足音が聞こえた。

振り返ると、ゆうかが駆けてきていた。


ゆうか「まみー!」


まみは立ち止まり、顔を隠すようにうつむいた。

ゆうかは、そんな彼女の前で静かに足を止める。


ゆうか「……本当に、お腹痛かった?」


まみ「……ううん。違う。」


ゆうか「だと思った。」


ゆうかはそう言って、ふっと微笑んだ。

まみの目には、その笑顔が眩しすぎた。


まみ「怖かったんだ。私、ユウくんのこと……すごく、好きなんだと思う。でも、あの場には、入っちゃいけない気がして……」


ゆうか「まみ、気づいてる? あの瞬間、ユウが見てたのは……ドアのほうだったよ。」


まみの肩が、小さく震える。


まみ「え……」


ゆうか「まみがそこにいること、気づいてたのかもしれない。」


まみの瞳に、滲んだものがひとすじ、頬を伝った。


ゆうか「実は、ユウくん何回も見ていたのよ、ドアの方。まみに来て欲しいのかもしれない。」


まみ「……私なんか、いていいのかな。」


ゆうか「“私なんか”なんて言わないで。ユウくんが心から笑うときって、まみがそばにいるときじゃない?」


沈黙。

でも、その沈黙はさっきまでの苦しさとは少し違っていた。


まみ「……戻ってもいいかな。」


まみの声は震えていたけれど、その奥には確かに意志があった。


ゆうか「もちろん。ゆっくりでいいよ。一緒に戻ろう」


ゆうかが差し出した手に、まみはそっと自分の手を重ねた。

その温度が、まだ冷たい風の中にいても、心を少しあたためてくれた気がした。


——少しずつでいい。

でも、ちゃんと、自分の足で歩いてみよう。


「N」という歌が、まみの中でも何かを変えはじめていた。


まみは、ふとつぶやいた。


まみ「……ユウの中の、なぎささんへの気持ちが溢れ出るたび……苦しくて。私、今、自分が嫌いな“フェザーズ”になってると思う。」


ゆうかは、少し驚いた顔をしたあと、やさしく言った。


ゆうか「まみは、もう“フェザーズ”じゃないよ。」


まみ「……やっぱり、そうだよね。もう、そうじゃいられない。どうしていいか、わかんなくて……」


まみの声が、また震える。

心の奥でわかっていたつもりだった。

この気持ちが芽生えたときから、“ファン”の立場ではいられないこと。

でも——誰かにそれをはっきり言われると、想像以上に胸に突き刺さった。


張り詰めた涙の表面張力が、ついに壊れて、こぼれ落ちる。


ゆうか「まみ?! 違う違う、そういう意味じゃないって! 一回、落ち着こ?」


あわててゆうかはまみの手を引いて、スタジオの自販機スペースへと連れていった。

そこに並んだ背もたれのないベンチに、まみを座らせる。


ゆうか「私が言いたいのはね……もうユウくんも、まみも、“Rose Wings”と“フェザーズ”の関係なんかじゃないってこと。もっと近くて、もっと大事な存在になってるってことだよ。」


まみはしばらくうつむいたまま黙っていた。

その言葉を、自分の中で何度も繰り返すように。

やがて、ポツリとつぶやく。


まみ「……そんなふうに、なれてたらいいな」


ゆうかは、まみの肩にそっと手を置いた。


ゆうか「なれてるよ。なれてるから、ユウくんは、まみの前であんなにも“本音”を見せられるんだと思う」


まみ「……そっか。」


まみの視線が、少しだけ前を向く。


まみ「じゃあ……もうちょっとだけ、がんばってみる。」


ゆうか「うん。大丈夫、まみならできる。無理はしないで。でも、ちゃんとそばにいてあげて。」


まみは小さくうなずいた。


——ユウにとって、なぎさはかけがえのない人。

でも、自分もまた、誰かの“今”を支える存在になれるかもしれない。

そんな思いが、少しだけ胸をあたためていた。

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