第二話 許嫁の秘密と帝都の異能者たち⑧
百瀬の家の台所で後片付けを済ませ、彼が入れてくれたお茶を手のひらで包んで、隣あって座る。食後特有の、遠くから微睡みに手招かれるような薄い眠気に浸りながら、百瀬の気配をうかがった。
百瀬も眠いのか、黙ったままゆったりと朔夜の髪を指に絡めては、緩くほどいて撫でている。
目を伏せた先、百瀬のシャツの裾には、朔夜の桃の刺繍がある。最近ほどこしたばかりのその色はもう薄れていて、朔夜は唇を噛んだ。
刺繍は、百瀬にかかる負荷をやわらげ、人の身に留めるためのお守りだ。
それが色褪せ、ほつれるのは、そこに込められた朔夜のまじないが効力を失ってゆくから。
「朔夜、傷になってしまうよ」
いつのまに気づいたのか、百瀬が指を朔夜の唇のあいだに押し当て、結ばれた口元をほどかせた。その指が、傷がないかを確かめるように唇をなぞってゆく。
「痛くない?」
「へいき」
彼の指の優しさを、ときどき不思議に思う。
百瀬は、人々があやかしを忘れ、彼らと交わるための力も薄れるばかりの今の世に、どうしてか突然生まれた先祖返りだった。百瀬の両親はひとり息子を持て余し、痛めつけはしないまでも、親子だというのに余所余所しい。
愛情に飢えたものがどういうふうになるのか、帝都で怪異を祓っていれば嫌でも目の当たりにする。それが人であっても、情念が邪気に変われば身も心も蝕み、やがては怪異を生む。
それなのに百瀬は、愛を知らぬ子とは思えないほど優しい 。
「朔夜、眠いなら家に帰らないと。もう日付も変わるころだし……」
「うん……」
でも、百瀬をこのひとりぼっちの家に残してゆくのは、いつでも後ろ髪を引かれる思いがする。
百瀬は、幸せにならないといけないのに。
「朔夜」
百瀬の肩に頭を預けてずるずる姿勢を崩す朔夜を、百瀬は焦れたように呼んで腰を支えた。
「ほら、起きて。家はすぐそこなんだから」
「すぐそこなら、ここにいても同じでしょ……」
「だめだって」
許嫁で、卒業したら結婚すると決めているのに、いったい何がそこまでだめだというのだろう。子どものようにむずかって百瀬の肩口に額を擦りつける朔夜に、百瀬はため息をついた。
「疲れているなら、無理することはなかったのに」
「無理なんてしてない……」
朔夜がそうしたくて、ここに来たのだ。
(誰も百瀬を愛さないなら、世界中の人たちのぶんまで、私が……って……)
それなのに朔夜の想いに見合うものを、百瀬は求めてはくれない。
百瀬には、朔夜は必要ではないのか――欲しいと思わないから、飢えることもないのだろうか。
眠気にまかせて瞼を下ろし、ぼうっと考えていると、いつになく気が弱くなる。
『ずっと一緒だよ』
幼さゆえに、交わしてはならない約束をした。約束――時代が変わり、過去に捨て去ったはずの呪いがふたたび百瀬を縛ったのは、朔夜のせいだ。
それがために、今でもそばにいるしかないのだとしたら。
「百瀬は……私に、ここにいてほしくない?」
夢うつつにいつもより緩んだ唇から、いつもなら言えない言葉がこぼれおちた。
「ちがうよ」
慰めるような声色は朔夜のためのものでしかなく、彼の本心とは違うのかもしれないと思った。
「……そう」
だけれど、百瀬を問い詰めても意味はない。
今、百瀬が朔夜の望むとおりのことを言ったとして、それを信じられるとは思えなかったし、望まぬことを言われて傷つくのも怖かった。
結局、いつまでも薄氷の上を歩くしかないのだろうか。
(卒業して……結婚しても……)
眠りに落ちてゆく朔夜の力の抜けた体を、百瀬が強く抱き寄せて支えてくれた。
その力の中にどれくらい百瀬の本心が込められているのだろうと考えて……そこで朔夜の記憶は途切れている。
いつからか、見慣れない天井を見ていた。
朔夜がそれを『天井』だと認識したのは、見始めてからしばらく経ったころで、そもそも自分が何かを『見ている』と気づくまで、目を開けてから数分かそれ以上の時間を要した。
ということが、意識がはっきりするにつれわかってくる。
一瞬だけ背すじに緊張が走ったけれど、近くに百瀬の気配を感じ、ふっと弛緩した。
自室より遠い格子の天井は、たぶん百瀬の私室の洋間のものだ。朔夜は百瀬のベッドに仰向けに寝ていて、百瀬は――緩慢に視線だけ動かして探した先で、向かいのカウチに横たわって目を閉じているのを見つけた。
白い肌がカーテンの隙間から差すわずかな月明りを受けてぼんやりと輝き、対して黒髪やまつ毛は光を吸い込んで深く闇に沈む。
夜の似合うひとだ。
眠っていてさえ、彼が本来在るべきなのはこの夜闇のなかだと言うかの如く、容姿も、気配も夜と溶け合っている。
(……百瀬は、私を家には帰さなかった)
夜も遅くに朔夜の家を訪ねるのが気まずかったのかもしれないし、面倒だったのかもしれない。
それでも、まだ彼のそばにいることができているこの状況は、眠る前よりも朔夜の心を穏やかにした。百瀬の様子も安らかで、部屋の静寂は平穏に満ちている。
凪いだ気持ちで百瀬を眺めていると、子どものころの、無邪気に彼とともにいたときの気持ちが思い起こされてくる。
ずっと一緒だと約束をしたとき、とても嬉しかった。百瀬も頬を淡く染めるほど、嬉しそうに笑っていた。
口に出さずとも思いを伝え合える自分たちが――そのせいで今よりも言葉数の少なかった自分たちが、わざわざ声に出して交わした約束。
蔵の古い本に記されていたまじないを、わかるところだけ適当に拾い読みして、そのくせ手順だけは正確になぞって、完成させた秘密。
そのとき朔夜は十歳、百瀬は十三だった。
それから三年ほど経ち、朔夜も中学にあがって多少はまともに古い文書を読み解けるようになり、交わした約束の真実を知った。
呪いへと変わってしまったものを、もう一度、ひたむきな祈りで交わされた約束に変えたい。
(そのためには、百瀬が幸せじゃないと……)
考えごとをしようにも、戻ってきた睡魔にあらがえない。朔夜はふたたび瞼を落とし深く息を吐きだして、また百瀬を想いながら眠りについた。
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