第二話 許嫁の秘密と帝都の異能者たち⑦
その夕べ、百瀬が朔夜の家でとる夕食を「大学の課題があるから」と断ったから、朔夜は夜食を作り、重箱に詰めて百瀬の家を尋ねた。
夜の八時過ぎは、年頃の娘が出歩くには少しばかり遅い。とはいえ、百瀬の家とは、生垣を挟んですぐ裏手の隣同士なのである。朔夜の家の裏門を開ければ、そこは神森家の裏庭だ。
「朔夜、君、また……」
それなのに玄関を開けた百瀬は、呼び鈴を押したのが朔夜だと知って、呆れて半眼になった。
「こんな時間に、僕ひとりしかいない家に……」
「許嫁なのよ、問題ないでしょう」
「あるよ……」
まだお小言を続けたそうな百瀬だが、朔夜が両手に提げたお弁当の包みを見て、それ以上の文句を引っ込めた。
「気にしなくてよかったのに」
「百瀬のおうちには、食べられるものがないでしょ」
百瀬が普段、朔夜のうちで食事をするから、通いの女中は夕食を用意せず帰ってしまう。朔夜は渋い顔をする百瀬の横を抜けて居間に入った。
百瀬の家は、昔ながらの武家屋敷に、洋風の別館が建て増しされている。百瀬の部屋は別館にあって洋間だが、本館の居間は畳敷きに大きな座卓が置かれ、百瀬のひとり暮らしにはよけいに寂しい様相であった。
「味噌汁も持ってきたの?」
朔夜から大きな重箱の包みを片方受け取った百瀬が、中を覗いて目を丸くする。
座卓に包みの中身を広げながら、朔夜は唇をとがらせた。
「だって、百瀬ったら、家にお味噌も置いてないじゃない」
以前、百瀬のために、百瀬の家で使うつもりで、朔夜が味噌を置いたことがあった。けれどその味噌を、百瀬はあろうことか朔夜の母に渡してしまったのだ。
「うちで使う予定はないはずなんだから……」
百瀬は、朔夜のうしろを遠慮がちに追って居間に入ってきた。
「私が使うのよ」
振り返って百瀬から包みを受け取り、大事に入れてきた漆の蓋つき椀がまだ温かいのを確かめてから座卓に置く。蓋を取ると、溜まっていた薄い湯気がぽっと立ちのぼって消えた。
「百瀬、座って」
百瀬を促し、整えた食卓につかせる。
三段の重箱には、おにぎりと焼いた鰆を三切れ、卵三個分の卵焼き、豚肉の味噌炒め、肉じゃが、筍と鶏肉の炊き合わせ、かぼちゃの煮つけ、菜の花のおひたし、大根の浅漬けが詰まっている。それと根菜たっぷりのお味噌汁。
細身の百瀬には、とうてい見合わないと思われる量であった。彼が好きそうなもの、喜ぶものを考えて、作りすぎた。
「多くない?」
「余ったら、あしたのおかずにする」
少しでも多く彼に食べてほしい思いを隠して、朔夜はさらりと応えた。
百瀬にとっての食事は、単なる栄養補給とは違う。人ならざるものの力を持ち、それゆえ人の領分を越えてしまう負荷を、人の身と均衡させるすべのひとつだった。
俗世のものを取り込むことでそこに留め置く――黄泉戸喫と同じだ。
「どうぞ」
朔夜はこの食事がどういう意味をもつのか、一度として口にしたことはない。
おいしいものを食べてほしい。料理をするとき、つとめてそれだけを考えている。
「きょうの卵焼きは甘いのよ。好きでしょう、百瀬」
「好きだよ」
長めの髪を耳にかけながら箸をとった百瀬は、緩い笑みをうかべてうなずく。彼だってきっと、朔夜の想いの何もかもをわかっている。
でも、言わない。
百瀬のそういう振る舞いに安堵するいっぽう、自分たちはいつでも薄氷の上にいるような心地がする。
百瀬が料理を口にしはじめるのを見届け、朔夜は彼に気取られないようそうっと息を吐きだして、じわりと体を縛ろうとしていた緊張をどうにかほどいた。
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