第二話 許嫁の秘密と帝都の異能者たち④
次の日、朔夜は登校して朝一番に、学校に置いて帰っていた針山を確かめた。
(……錆びてる。いえ、これは……)
黒く変色した針を、人に見つからないよう素早く折れ針入れに収め、家から持ってきた懐紙に包む。一見しては無地の懐紙は、前の晩に水字で呪文を書いた護符だ。
水字とは、ミョウバンを溶いた水で白紙に文字や絵を書き、乾かして水につけると書いたものが浮かび上がってくる遊び。子どものころ、百瀬とよく秘密の手紙をやり取りした。
「おはよう、朔夜ちゃん」
目の前から愛の声が聞こえ、朔夜ははっとして、懐紙に包んだ折れ針入れを鞄に突っ込んだ。入れ替わりに本を引っ張り出し、愛に差し出す。
「おはよう、愛ちゃん。はい、これ。例の新刊」
「ありがとう! 今晩、すぐに読むわ。来週の月曜、美代ちゃんも一緒に、感想を言い合いっこしましょう」
愛はさっと本を鞄に仕舞った。
先生に見つかったら没収されてしまう。ただし、先生たちも目前でなければ、ある程度は見て見ぬふりをしてくれる。
少ないお小遣いをやり繰りする少女たちは、それぞれお気に入りの本を貸し借りしては感想を言い合うのだ。
その九割以上が恋愛小説で、誰もがすてきな恋にあこがれていた。そんな同世代の少女たちの中で、ずっと一途だというのが、自他ともに朔夜の評価である。
しかし、百瀬を想っていたとしても、それはそれ。小説は小説として楽しんでいる。
「楽しみにしているわ」
うなずく愛の向こうを、また人影がよぎる。朔夜は笑顔を保ったまま、鞄の上から折れ針箱を探り、針にまとわりついていた邪気を祓った。
呪詛のたぐいだったのか、まじないを返され、苦しがって身をよじる気配がある。何者かの怒りが、朔夜に向いたのを感じた。
朔夜はそれを無視し、登校してきた美代を見つけて笑みを向けた。
「おはよう、美代ちゃん」
「ごきげんよう鈴蘭の君」
「あら、それ、新しいリボン?」
「そう。似合う?」
軽く首を振って、美代が後ろに結ったリボンを見せてくれる。ベルベットの真っ青なリボンは、美代をいつもよりいっそう精悍に見せた。
「とっても。週明けには、さっそく真似する子がいそうね」
この学校で流行を作るのは、美代や愛など人気者の上級生だ。特に、『美代派』の下級生たちなどは、こぞってベルベットのリボンをつけてくるだろう。
ちなみに、朔夜は真似されにくい。朔夜が、百瀬の好みを考えて身につけるものを選んでいることを、ほとんどみなが知っているからである。
「朔夜ちゃんが、わたしの贈るリボンをつけてくれたらなあ」
「そういうことは、いもうとたちの居るところで言ってあげなさいよ」
芝居がかった台詞を吐いた美代に、愛が笑いながら言う。愛のからかいに美代が乗る。
「そのとき、朔夜ちゃんと愛ちゃんがおそろいのリボンをつけていたら、盛り上がるだろうね」
愛にそう返しながら、美代はいたずらっぽく片目をつむった。
女学校らしく、朔夜と美代と愛には、『朔夜と美代』派と、『朔夜と愛』派、『美代と愛』派に『三人』派が存在している。彼らは楽しそうに派閥争いに戯れているなかで、一致団結するのは百瀬に対抗心を燃やす場面であった。
「争いごとはいやよ」
朔夜は冗談まじりのため息をついてみせ、今朝、百瀬の懐から拝借してきた白いハンカチを刺繍枠に嵌めた。これも以前、朔夜が刺繍をして贈ったものだ。今日の百瀬はきのうの夜に朔夜が仕上げた桃の刺繍いりシャツを着ている。
だが、朔夜が拝借してきたハンカチは、まだ生地に張りがあるにもかかわらず、薔薇の刺繍がほつれて色も褪せていた。
「朔夜ちゃんを巡って争おうにも、当の朔夜ちゃんの心は別の男のもの。あーあ」
朔夜の机の横に立ち、美代が朔夜の髪をいじる。美代の指に、細く柔らかな亜麻色の髪が絡む。背が高く指まですらりと長い美代に、とてもよく似合う仕草だ。
朔夜は色褪せた刺繍の糸を切りほどいて、布地を整え、鉛筆で薄く千鳥を二羽描いた。
濃い青の刺繍糸を選び、手際よく
「美代ちゃんと愛ちゃんのことも、ちゃんと好き」
「神森さんの次に?」
愛がからかう目でくるりと見上げてくるのに、朔夜は刺繍の手を止めないまま応えた。
「順番をつけるものではないわ。そうでしょう?」
美代も愛も、そして朔夜も、お互いに恋をしているわけではない。けれど、この世にふたつとない感情を互いに抱き、わかちがたく結ばれている。
女学校は、少女たちが唯一無二の絆をはぐくむ場所でもあった。卒業して結婚しても、決して消えない絆だ。
「わたしも、朔夜ちゃんと美代ちゃんが、ずっと好き」
「私もだよ」
朔夜の刺繍を邪魔しない程度に愛が朔夜に寄り添い、そんな愛の頭を美代が軽く抱いて頬を寄せる。思わず笑みがこぼれるような、麗しい光景だった。
だが、ふたりの肩越しに、またあの『影』がよぎる。
朔夜の針を持つ手に、思わず力が入った。撚れそうになった糸を見て、そっと息をつく。
(守りたい。みんなを)
知らず知らずのうちに募る想いが力に変わる。それを抑えずに繍っていくと、青い糸が、ほのかに白く輝いた。
「いつ見ても綺麗ねぇ、朔夜ちゃんの刺繍」
朔夜の手元を見ていた愛が感嘆の声をあげる。
彼女に、刺繍の放つ淡い光が見えているわけではない。それでも感じる何かはあるらしかった。
「今度、愛ちゃんと美代ちゃんにも、ハンカチを作るわ」
「あら、だったら図案はわたしが描いていい?」
「じゃあ私は生地と糸を選ぶよ」
美代の選んだ生地と糸で、愛の描いた下絵を刺していくのを思い浮かべ、朔夜はほころぶように微笑んだ。
「三人でおそろいにしましょうね」
はしゃぐ愛は、さっそくノートを取り出して鉛筆を走らせはじめる。そのノートの表紙に『算術』と書いてあるのは、見なかったことにした。
いつまでも、卒業して結婚しても、こうして笑いあっていたい。
(そのために、アレ、何とかしないと)
美代たちといつものように笑いあいながら、朔夜はほんの一瞬、ちらりと『影』に目をやる。
目が合った気がした次の瞬間に、それは煙のようにかき消えた 。
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