第二話 許嫁の秘密と帝都の異能者たち⑤

 放課後、友人たちを見送って、朔夜はひとり教室に残った。

 最終下校時刻も間近になれば、廊下にも校庭にも生徒たちのお喋りは聞こえず、しんとした静けさが空っぽの教室を満たしている。

 下校時刻を過ぎたら、今度は当直の先生が見回りと戸締りに来る。

 その前に、と、昨日から用意していた札を自分の机に置いた。軽く力を流すと、水字が少し光って浮かび上がり、すぐにまたすうっと消える。


「おいで、誰の友でもないあなた」


 札は、人ならざるものを惹きつける。加えて、昨日今日と敵意を向けられた朔夜なら、囮には十分だろう。

 相手が扉から来るとは限らない。静かな教室で息をひそめ、意識を研ぎ澄まして周囲をうかがう。


 ふと、真横に異様な気配を感じて、朔夜はぱっと飛びのいて距離を取った。

 生徒たちの憧れを集める可憐な容貌とは裏腹に、その身のこなしは軽やかなもの。物音を立てずに着地して、すぐに体勢を整える。


「ごきげんよう」


 いもうとたちの目を釘づけにするだろう、優雅な微笑みだった。けれど朔夜と真向かいに立つ相手は挨拶を返してはくれず、睨むように朔夜をうかがう様子がある。


 は、人のかたちをしていて、少女のようにも、老婆のようにも、男にも、女にも見えた。見ているあいだにも次々印象を変えてゆき、朔夜は目を眇める。

 視界がかすんでいるかのごとく見える像が定まらず、気持ちが悪い。邪気に混じって伝わってくる情念のようなものもひどくあいまいで、その欲望をさだかにはしない。


「いったい何かしらね、あなたは」

「…………」


 品定めする朔夜の前で、相手は不気味に黙りこくり、身動きもせず、ただこちらを見ていた。

 静まり返った教室で相手を観察して、朔夜はふとつぶやく。


「喋らない……喋れない? 私の言っていることはわかるのかしら」


 それは答えず、のっそりと朔夜に腕を差し向けてきた。朔夜が後ろへ下がれば、相手は体を動かさないまま、腕だけを人にはありえない長さに伸ばして追ってくる。

 しかし、握られたこぶしから突き出た指は、朔夜の肩越しに、さらに後ろを指しているようだった。

 朔夜は机の間を抜けて、相手と後ろの壁まで視界に入る位置に立ち、動きに注意を向けたまま、指さす先を見た。

 壁面には、習字の授業で生徒たちが書いた作品がずらりと掲示されている。


「……た、だ、い、ま……?」


 相手の指はぎりぎりまで壁面に寄り、一字ずつ文字を指した。朔夜が拾って読むと、それはぐるんと首を回して朔夜を見る。

 朔夜は口を閉じ、相変わらず定まらない相手の顔をじっと見返した。人の顔であることまでは判別できるのに、表情が認識できない。

 違和感を気にして引き込まれすぎないよう、注意深く思考を明瞭に保つ。


(ただいま……に返すのは『おかえり』と、迎え入れる言葉……)


 相手は朔夜の返答を待っているらしく、こちらを見たまま動かずにいる。


「ここは人間の女の子のための学校なの」


 たしかなかたちを持たない存在は、儚い 。何かの拍子に生まれたとしても、存在し続けることができずに消えてしまう。

 彼らは、拠り所となる姿や名前、居場所を 手に入れることで、存在を確かにし、力を強めていく。だから今も、朔夜の言葉が欲しいのだ。


「去りなさい、ここはあなたにふさわしい場所じゃないわ」


 相手が失意と怒りを表すように震え、今度は朔夜に向けてその腕を伸ばしてくる。

 腕には邪気がまとわりついていた。

 触れたら精気くらいは奪われるだろうが、邪気は強くなく、緩慢な動きを避けるのも難しくない。


(……おかしい。こんなものじゃなかった)


 初めに感じた嫌な予感は、もっと強いものだった。こんなに曖昧な存在が、あそこまで強烈な悪寒を感じさせるとは思えない。


「……あなた、さっき私たちの教室にいたのとは別ものね」


 なおも伸ばされる腕を躱し、向き直って、指で宙に五芒星を書く。朔夜の指の軌跡が淡い光として残り、最後の頂点を結んだ瞬間、五芒星を霊力が巡って強い輝きで相手を灼いた。

 声を出せない相手は音もなく消え去る。あまりにあっけない。


「……これは囮かしら」


 朔夜は眉を寄せて、相手の消えた中空を睨んだ。

 これでことが済んだようには、とうてい思えなかった。

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