第一話 過保護な許嫁とリボンとお菓子③
「なーんにもこだわりがないのも、困ったものね」
女学校の、にぎやかな昼休み。
考えごとにふけり、時おりぼそぼそつぶやきながらも、朔夜はちくちく針を進めた。こなれているが、ひと針ずつ丁寧に刺す。そうして描き出される刺繡には、常人では気づかない力が込められていた。
「なんのこと?」
朔夜の机に頬杖をつき、運針を眺めていた美代が問う。
「百瀬。天気だの刺繍の模様だの、いつも『朔夜が好きならそれでいい』って言うの。昔からそう。百瀬の好きなものって、いったい何なのかしら」
百瀬の好きな色を、朔夜は知らない。生まれたときから一緒にいて、さすがにありえないような話なのだが、百瀬が昔からあの調子なのだ。
「へぇそりゃ大変だね。ところでそれ、先生に提出するの?」
ところが美代は呆れたふうに軽く流し、朔夜が手にする男もののシャツを指さした。
「提出用のものは終わっているわ」
「えーっ、もう⁉ 早すぎるよ」
「やれば終わるのよ、美代ちゃん」
お喋りにつきあってくれるのはありがたいが、朔夜を眺めるだけでは課題は進まないのである。
「課題が出たの、さっきの授業じゃない。まだ昼休みだよ?」
「授業中にはだいたい終わっていたから」
「さすがは全校生徒あこがれのおねえさま」
朔夜は糸の色を変え、またちくちくと刺す。
シャツは百瀬のもので、ズボンに入れれば見えなくなる裾に、桃の花と実を縫っているところだった。季節感がなかろうと、魔除け厄除けを詰め込むくらいが、ぼんやりの百瀬にはちょうどいいのだ。
「今どき時代遅れと言われたって、私の目標は良妻賢母なの」
「お堅い学校では今でもそうじゃない? お堅い学校で幼馴染に懸想してシャツを強奪してきたって言えば、先生は卒倒しそうだけれど」
「強奪はしてない」
百瀬が朝に家を出るところを待ち構え、上がり込んで箪笥から引っ張り出してきただけである。
「だけどいくつ目? 新学期が始まってからでも、こうして朔夜ちゃんのそれを見るの、何度目だろう」
美代の何気ない問いに朔夜は一瞬眉を顰め、すぐ瞬きをして何でもなかったふうを装った。
「百瀬って、すぐに汚したり破ったりするから」
大げさに肩をすくめて呆れてみせれば、美代が朔夜の異変に気づいたようすはない。
「それが意外なんだよね。おっとりしていらっしゃるように見えるのに」
「……まあね」
朔夜は手元に視線を向けたまま、小さな声で誤魔化した。おっとりはしている。ただ、おっとりしているくせに、朔夜の知らないところで魔除けをぼろぼろにしてくるひとだというだけ。
「ねえ鈴蘭の君」
きらきらしい呼び名を使う美代に、朔夜は眉ひとつ動かさず同じく返す。
「なあに
下級生がひそかに朔夜たちにつけたあだ名は、公然の秘密である。
なぜ鈴蘭なのか、理由はわからない。一説によれば見た目の印象であり、またほかの一説によれば花言葉が由来だという。
要するに、誰が何をもって言い出したか、もはや誰もたしかには知らないのである。女学校には、そういうことがあふれている。
「卒業したら、本当にすぐ結婚しちゃうの?」
「そうよ」
朔夜はよどみなく答えた。
ずっと前から心に決めていた。
「百瀬のためじゃなきゃ、お料理もお裁縫も、お勉強もやらないわよ」
「朔夜ちゃん昔からそう言うけれど、どうしてそんなに神森さんが好きなの?」
「どうして、って……」
朔夜は思わず手を止めて美代を見た。彼女は試すように首をかしげている。
「……百瀬は……その、優しいし、私のこと、大事にしてくれるし……」
「実はお顔立ちも綺麗な方だよね」
「そこは別に……」
視線を手元に戻して、ぷす、と白いシャツに針を刺す。何度か洗濯を経た柔らかい生地は、練習用の綿の布より針の通りがよく、布と糸が撚れないように、引っ張りすぎない力加減で糸を引いていく。
「……とにかくそういう……百瀬ですもの」
言い訳がましい響きがあるのを自分で感じながら、誤魔化して刺繍に集中しようとした。
薄紅色の可愛い糸で、桃の花びらを縫う。下絵の通りに縫い切り、糸始末をして切る。地道な繰り返しだが、ひと針ずつに百瀬の無事を祈る気持ちを込めていくので、朔夜にとって、彼を想うしあわせな仕事だった。
「でも朔夜ちゃん、昔からずっと好きでいても、恋に変わったのは、中等科に上がるころでしょ?」
「え?」
「そのころに、朔夜ちゃんの雰囲気が変わったもの」
「……それは……。いつまでも、子どものままじゃないし……」
歯切れ悪く言う朔夜に、美代は「それはそうだけど」といまいち納得しない様子で首をひねる。
朔夜には心あたりがあった。でも、美代にうち明けることはできない。
父や母にもうち明けられない、百瀬と朔夜だけの秘事――百瀬との『婚約』の底に沈めてある、本当の理由。朔夜の過ち。
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