第一話 過保護な許嫁とリボンとお菓子②

「じゃあ、朔夜。気をつけて。お行儀よく過ごすんだよ」


 百瀬は朔夜を女学校の校門前まで送り届けて、鞄を手渡しながら言った。彼は軽く持っているように見えたのに、返してもらうとやはりずっしり重い鞄を抱え、朔夜も百瀬を見送ってから校門をくぐる。


「百瀬までそんなこと言って。私を何だと思っているのよ」


 小さくぼやいたものの、朔夜はすぐに顔を上げて明朗な笑みをうかべた。背すじをしっかりと伸ばし、小気味よく校舎へ向かって歩く。

 よろい戸つきの窓が並ぶ白壁の、瀟洒な洋風の校舎は、さほど大きくはない。

 ここでは、初等科が六学年、中等科が五学年、満六歳から十七歳までの少女たちが学ぶ。一学年一クラス、総生徒数は四百人に満たないほど。

 ただし初等科は校舎が別で、初等科の少女たちにとって、中等科の煉瓦と鉄柵の門をくぐるのは憧れだった。


「おはようございます、朔夜おねえさま!」

「おねえさま、おはようございます!」

「朔夜おねえさま、ごきげんよう!」


 すぐに下級生たちが駆け寄ってきて、朔夜はまわりを取り囲まれた。

 この学校では、下級生は上級生を『おねえさま』と呼ぶ。そして上級生にとって、後輩はみなかわいい『いもうと』たち。生徒数の少ない、小ぢんまりとした女学校らしいならわしだろう。


「おはよう」


 周囲にいる数名にまとめて笑みを向けると、きゃーっ、と黄色い声があがる。


「きょうも麗しのおねえさま、朝露を落として恥じらう鈴蘭のようですわ……」


 朔夜は黙って微笑みだけを返した。たいそう感傷的な言葉を使うのが、乙女たちのお作法なのだ。

 下級生たちがきらきらした目で朔夜を見ているのは、百瀬といるときから気づいていた。女学校とは、そこらの男子より上級生の女生徒のほうが、よほど人気の高い花園なのである。


「おねえさま、今日もあの方といっしょにご登校されたの?」

「近所ですもの。送ってくれると私も安心できるわ」

「えー」


 百瀬は朔夜の許嫁として知れ渡っていて、生徒たちによる評判はあまりよろしくない。美しい容姿をしているのに、深すぎる黒の髪も瞳も、白すぎる肌も陽の光が似合わず、たたずむ姿はどこか日常から遠く、どうにも近寄りがたいらしい。


「たしかに、朔夜おねえさまはとってもすてきですから、狙う男たちがいっぱいいるでしょうけど……」


 そうもじもじ言うのは、中等科に上がりたての一年生だ。初等科からの持ち上がり組で、朔夜も、もっと幼いころから彼女を知っている。

 そのせいかまだあどけなくて、とても可愛い。二年生以上の生徒たちが、彼女の髪のリボンに触れては「結び目がゆがんでいるわ」などと世話をやく。


「あら? 朔夜おねえさまは、きょうはおリボンなしですか?」

「ちょっと寝坊してしまったの。おかしいかしら」

「いいえ! おろし髪も乙ですわ!」

「無防備で危うい美しさがありますわね」

「春風に攫われそうなおねえさま」


 きゃっきゃとはしゃぐ少女たちを、朔夜は微笑ましく眺めていた。

 本当は、家を出るときに結んでいたリボンを、通学途中で百瀬に押し付けたのだ。朔夜が刺繍を入れてやったハンカチを家に忘れたというから、いつもぼんやりしている百瀬のお守りにと、彼のポケットに押し込んだ。百瀬は困った顔をしたけれど、黙って朔夜のほどけた髪を撫で梳いた。


「あなたたち、いつまでもそうしていると、朝礼に遅れるよ」


 少し低めの溌溂とした声がして、朔夜の肩にうしろから手がかけられる。振り返ると、同学年の友人が朔夜の肩越しに、下級生に華やかな笑顔を向けたところだった。


「きゃあ! おはようございます、美代みよおねえさま!」


 長い髪に白いリボンを結い、前髪を眉のところでまっすぐ切り揃えた、淑やかながら凛とした顔立ちの美代は、朔夜とともにこの学校の名物だ。朔夜とは初等科からの付き合いで、もっとも気の置けない仲である。


「美代ちゃん、おはよう」

「おはよう朔夜ちゃん。ねえ英語の課題終わった?」

「せーんぜん。……なんてね。百瀬に手伝ってもらって、ばっちりよ」

「出たね神森かみもり百瀬」

「美代おねえさま、神森さんってば、きょうも朔夜おねえさまについていらしたのよ」

「お熱いこと」


 つんと澄ましてそう言ったのち、一転、美代は呆れた目をした。



「相変わらず過保護だねえ。いまどき、女子でも通学くらいひとりでできるというのに」

「人さらいに遭うとしたら、私より美代ちゃんよね」

「足が速いだけで慢心するんじゃない」


 美代が朔夜の肩をつつく。それから朔夜の頬を撫で、「こんなに綺麗な朔夜ちゃん、ちょっと逃げられたくらいで諦めないもの」などとのたまう。


 美代の低めの声はただでさえ色っぽくあるのに、今はことさら甘ったるく話すものだから、その効力たるや。

 案の定、下級生たちが早朝のニワトリよりかしましく沸き立つ。朔夜は肩をすくめて美代を見返した。


「あなたたち! もうすぐ予鈴が鳴りますよ!」


 一階の職員室の窓から、先生が顔を出して生徒たちを呼ぶ。少女たちは「あっ」と顔を見合わせたあと、先生にむかって、元気に「おはようございます!」と声を揃えた。それから、小走りに校舎へと向かう。


「朔夜ちゃんに美代ちゃん、毎朝、お熱いこと。朔夜ちゃんには婚約者がいるのに!」


 教室では、同級生たちがからかって朔夜たちを出迎えた。朔夜は首を振り、全責任を美代へ押し付ける。


「美代ちゃんったら、いつもああいうお芝居が好きなんだから」

「あら、みんな喜んでくれるじゃない」


 美代の言う「みんな」とは、行きあった下級生のみならず、校舎の窓に鈴なりになって見物していた全生徒を指している。


「今年の学芸会は演劇をやりましょうよ」


 美代の横から、フリルたっぷりのレースの白いリボンを結いつけた頭がにゅっと出てきた。大きな目が印象的な可愛らしい少女で、すらりと背の高い美代のそばにいれば、小柄な体つきがよけいに目立つ。頭が小さくて、結ったレースが半分を隠すほどだ。

 彼女も初等科からの持ち上がり組である。


あいちゃん、美代ちゃんをおだてないの」


 朔夜がたしなめると、愛はいたずらっぽく片目をつむってよこす。面倒なことになりそうな気配を感じ取って、朔夜はきゅっと眉を寄せた。

 愛は、名の通り愛らしい見た目に反してやたら行動力があり、言い出したら実行まで一直線の上、ちょっとやそっとでは動じない。


「いいじゃないの、演劇。わたしたち今年で最後ですもの、思いっきり楽しいことやりたいよね」


 止めたのに何の効果もなく、美代は話に乗ってしまった。愛が目を輝かせて応じる。


「英語の劇はどう? シェイクスピアの原作なら先生も許してくださるのでは?」

「待ってよ、シェイクスピアはまずいわ」


 朔夜はすかさず友人たちを止めに入った。


「どうしてよ?」

「百瀬が教えてくれたんだけど……」


 朔夜は、さすがに頬を赤くせずにはいられなかった。

 去年の冬休みに、英語の物語をひとつ選んで翻訳する課題が出た。そのとき朔夜が何気なくシェイクスピアを選ぼうとしたところ、百瀬が止めたのだ。


「……シェイクスピアって、原作は卑猥な言い回しが多いんですって……」

「えーっ」

「……それ、神森さんはどうして知ってるわけ?」


 素直に驚く愛に対して、いまにも男ってこれだから、と言い出しそうな美代に、朔夜は慌てて弁明を加えた。


「百瀬、大学で文科にいるから……。いろんなことに詳しいのよ」

「へーぇ?」


 愛がにやにやしている。百瀬にいらぬ疑惑をかけてしまったと焦る朔夜をよそに、予鈴が響く。

 少女たちはいっせいにおのおのの机へ戻っていった。


(百瀬……ごめんね……)


 放課後、また迎えに来るであろう百瀬に向けられる視線を思って、朔夜は胸の内でひっそり謝るしかなかった。

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