夜の神子、あなたは帝都の闇の道しるべ
崎浦和希
第一話 過保護な許嫁とリボンとお菓子①
罪の子。
神代のころに人の犯した罪が、永い時を経てもいまだ消えない。
だが、人は忘れる。かつてのあやまちも、その理由も、結果も、何もかも。
それを戒めるように生まれ落ちた子どもだった。
❀**❀
「お父さま、お母さま、行ってまいります」
玄関で茶色の革靴を履いた
動きに合わせて、縹色のセーラー服が翻る。膝下丈のスカートは、朔夜のすらりと伸びた手足のしなやかさをきわだたせていた。
昔ながらの武家屋敷の玄関ではなおのこと、セーラー姿の朔夜が華やかに映える。
「行ってらっしゃい。お行儀よくするのですよ」
母は上がり框のふちに立って、朔夜の髪を軽く撫でつけた。この国では珍しい亜麻色の髪は目立つし、両親のどちらとも似ても似つかないが、母はよく愛でてくれる。だから朔夜も、薄い色をした自分の髪も目も、嫌いになったことはなかった。
「はぁい」
いくつになっても幼子相手のような母にもすなおに返事をし、次いで母の横の父に目を移す。通学は毎朝のことなのに、朔夜の両親は揃って毎日玄関先まで見送りに来るのだ。
父も心配そうに朔夜を見ていたが、朔夜と目が合うと、軽くうなずいて穏やかに言った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきまーす」
言うなり外へ駆け出す朔夜に、背後から母が「気をつけて」と声をかける。大丈夫、との意を込めて手を振り、軽い足取りで庭の砂利道を踏む。
華やかなりし帝都の女学生、
花盛りもまもなくの十六歳。
桜を散らしたばかりの春風に、淡い色の細く軽い髪と、レースのリボンをたなびかせ、よく磨かれた茶色の革靴を鳴らして歩く、今どきの少女である。
朔夜の通う女学校は、新たな時代を邁進する帝都でも最先端の校風を誇る。そのひとつが、まだ着物に袴を基本とする学校も多い中、数校と並んでいち早く取り入れたセーラー服だった。
それも、よくある紺ではなく、縹色のワンピースに白いラインと白のスカーフ。
おしゃれで、朔夜のお気に入りだ。
軽やかに揺れるスカートに満足して顔を上げたとき、門柱のそばに見慣れた背中を見つけて、朔夜は子兎が跳ねるように駆け寄った。
「おはよう、
「……おはよう、朔夜」
応える声は夜闇を溶かし込んだようになめらかでもの静かな中低音。
横に並んだ朔夜へおっとりと微笑みかけたのは、見かけたものの息をつかのま止めてもおかしくないほど、あでやかで優美な見目の青年だった。微笑みひとつでさえ、精巧に作り込まれた細工のよう。
その美しさは、まったく朝に似つかわしくない。
緩いくせのある長めの黒髪が額や首すじへ無造作にこぼれかかるだけでも、そのあいまから覗く白い肌がやけに目を引く。前髪に隠れがちな瞳は、静寂で満たされた夜空のように深く、覗き込めば魂を引かれそうな妖しさすらあった。
帝大生お決まりの黒い制服姿でも、彼に合わせて仕立てられた詰襟は体の線をほどよくあらわにし、黒一色に包まれた細身の体躯はつややかな鴉の羽根を思わせる。
その得体の知れなさを、柔和な雰囲気がどうにかうち消していた。
「ゆうべは、いい夢を見たんだね」
朔夜が何も言わないうちから百瀬はそう言ってほのかに笑った。
彼の気配は夜にひっそりと咲く花のような静謐さで、一見しては人目を惹かない。だからこそふと焦点が合ったときに、たちまち人の意識を奪う性質の麗人である。
彼をまともに見たものはたいてい、息をのんで反射的に一歩下がる。
とはいえ生まれる前から一緒だった朔夜には、彼の何もかもが身に馴染んで、彼に怯えたことなど一度もない。
百瀬は、朔夜の三つ上。朔夜の家の臣下筋にあたり、今は朔夜の許嫁である。
『きみが生まれてきたら、僕が教えてあげる。空も月も星も、風や花のことも、海や川も、夏も冬も……』
生まれてもいないころに百瀬と交わした言葉を、幼かった彼の歌うようなその声音まで、今でも憶えている。
「ひとの夢を覗かないの」
「覗いてはいないよ。寝ぼけた朔夜が『伝えて』きたでしょう、朝方に、いきなり」
「憶えていないわ」
朔夜は肩をすくめ、市電の駅へ向かって歩き出した。百瀬はそんな朔夜に気を悪くした様子もなく、歩調を合わせて隣に並ぶ。
優しげな印象も相まって、平素の彼に威圧感はないものの、朔夜と並ぶと頭ひとつ抜けるほど背が高い。見上げたときに背景の青空が眩しく、朔夜は目を細めた。
「いい夢なら、よかった」
百瀬が歌うようにささやく。そしてそっと朔夜の手に手を絡めて繋いだ。
とたんに心にうかんだのは、どことも知れぬ満点の星空と、その下で羽を休めるように寄り添った百瀬の横顔。
「私の夢……」
つぶやくと、百瀬が柔く笑う気配がした。
『夢の中でも、一緒にいてくれるんだね、朔夜』
百瀬のゆったりした声が、朔夜の頭の中をたゆたう。現実の彼は口を開いていない。
見たもの、聞いたこと、そして互いの声。
朔夜と百瀬は互いの霊力を溶け合わせることで、それらを伝え合うすべを持っていた。触れ合えばより伝えやすいが、体が離れたからといって途切れる繋がりでもない。
今朝方の朔夜は寝ぼけて、それで百瀬を叩き起こしてしまったようだ。
「鞄、重くない? 持つよ」
軽い欠伸を噛み殺した百瀬が、朔夜の鞄に手を伸ばす。
「いいわよ、また噂になっちゃう。仲が良すぎるって」
「今さらだと思うけどなあ」
朔夜と百瀬は、ご近所では有名なふたり組だった。時代が変わって、男女のありようも少しずつ昔とは違ってきている。とはいえ、きょうだいでもないふたりが幼いころから今に至るまでいつでも一緒にいれば、当然目立つ。
(……百瀬は、気にしていないみたいだけれど)
気にしていないどころか、甲斐甲斐しくも毎朝毎夕朔夜の登下校に付き添っている。断っても、朝な夕な家の門と校門のところにいるものだから、朔夜も諦めた。
「……ねえ、なんだか朔夜の鞄、やたら重くない? 何を入れているの」
百瀬は朔夜の手からするりと鞄を取り上げ、直後に眉をひそめる。
「女の子にはいろいろあるのよ」
「変なものを持ち歩くと、おばさまとおじさまが心配されるでしょう」
「お父さまもお母さまも、いつまでも心配性がすぎるの」
「……朔夜が娘じゃあなあ……」
百瀬はぼやきもおっとりで、嫌味がちっとも感じられない。
朔夜も、むっとするふりで応える。
「失礼ね。私はこれでも、学校の模範生なのよ」
「朔夜だからなあ」
今度は明るく微笑んで言う。細めた彼の目に、朝の陽ざしが差し込んだ。
そのとき、黒目にひとすじほの昏く真紅の光が走るのを、朔夜は確かに見た。
当の本人は何も気にせず、空を見上げて眩しそうにしている。
「いい天気ね」
「春だからね」
「春でもきのうは雨だったじゃない」
能天気すぎる百瀬に、朔夜はすかさず突っ込んだ。
「まあ、春の雨もいいものだよ」
「そういうことじゃないの」
唇を尖らせる朔夜に、百瀬は、春ののどかさが似合う淡い微笑みを返してくる。腕のよい細工師がまつ毛の先までこだわり抜いたかのように繊細で美しい表情だったが、本人は無造作に笑っただけだ。
「雨でも晴れでも、どちらでもいいよ、僕は。朔夜がそれを嫌いでないのなら」
朔夜はちらりと横目で百瀬を見、つい寄りそうになる眉を押しとどめて、つとめてなんでもない顔をよそおった。
「私も、天気はどうでもいいわ。毎日が何事もなく過ぎていくなら」
この春、百瀬は二十歳 に、朔夜は女学校の最上級生になった。来年には卒業し、そうしたら百瀬のお嫁さんになる。
子どものころより、声に出して喋ることが多くなった。
そのほうが『普通』だろうから。
「何事もなく、かあ」
百瀬の声には、どこか否定的な響きがあった。だから朔夜は、釘を刺すように言った。
「穏やかに、幸せに暮らせたらいいの」
百瀬との、どこにでもいる夫婦らしい、平凡だが幸せな暮らし。
「……ただ、普通に」
小さなつぶやきを足して前を向いた。
よく晴れた空が広がっている。遥かな高みから見下ろすなら、朔夜や百瀬はひどくちっぽけで、取るに足らない存在だろう。
それでいい。そうありたい。
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