シンボリック6
吉田は数学を教えている。とりたてて数学が苦手というわけでもなかったけれど、母が「数学はまま苦手だから、らかんちゃんも苦手かも!」と言うので取っていた。ピタゴラスの定理。吉田が頬にかかる長い髪を耳にかけた。説明を聞いている間、ぼんやりと吉田の横顔を見ていた。脹れて割れた後のようなにきびが頬にあった。
「ピタゴラスは黄金比を作った人でもあるらしいです」
「えっそうなの」吉田が顔を上げた。
「オンダの…父の蔵書にありました」
「らかんさんのお父さんて頭いいんだね」
「実のところわからないんですよ、父はわたしの幼い頃に亡くなりましたし、母はあの調子だから何にも言わないし」
そうなんだ、と吉田は言った。悪いことを聞いた、というようなすまなそうな顔をしていて、わたしはその謙虚さが好きだった。吉田はしんみりとした空気を取り戻すように
「らかんさんのお母様、とてもお綺麗だよね」
と笑った。
「どこが」とわたしは鼻で笑う。
「芸能人みたいでもなくて、なんだかこの世のものじゃない、みたいな、変なこと言っている、ごめんね、でも綺麗で、サイゼリアの絵みたいな」
「サイゼリアの絵って」とわたしは笑った。母は神ではない。母は絶対に神ではないのに、どうして神のように思う人間がいるのだろう。母はトーマスマンの言葉で言う「小市民」にすぎない。見た目だけが美しい、中身はすかすかの「小市民」ではないか。
「すごくいい匂いがするし、可愛らしくて、やさしくて。らかんさんがうらやましい。うちはうるさいおかーちゃんって感じで…」
「せんせい」とわたしは言った。
「次の問題正解したら、キスしていいですか」
吉田は耳まで赤くしてうつむいた。わたしは吉田と目を合わせる。二十一歳。わたしはいま、十五歳だ。だからなんだというのか。女だからなんだというのか。母に渡さないもの。母に渡したくないもの。知られたくないことを、たくさんたくさん増やしていきたかった。
「ルート6。当たりましたね」
「うん」と吉田は言った。こめかみから石鹸の匂いがした。
「せんせいこっち向いて」
「うん」
くちづけながら、母のことを考えた。母は、この女にくちづけただろうか。母はこの女をどう思っているのだろうか。男とのキスも、女とのキスも気持ちの悪いものだった。けれども女との方が気持ちを分かち合える気がして、楽だった。わたしにとっては、二回目のキスだった。
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