シンボリック5
ゆるやかに年月が過ぎて行った。髪の伸びた母はより美しくなり、母の周りの男たちも、めまぐるしく変更されていった。もう香水を大量に買ってきた男も、若くて美しい男もいなかった。さいきんは身体の大きな男が多い。少し前までは女のような線の男が気に入っていたはずなのだが、飽きたのかもしれない。
家庭教師をつけたおかげで、わたしの成績はぐんと上がった。学年で、四番。まともに学校に行っていないにしては、頑張っている方だと思う。担任は変わった。あの大狸のような中年男から若い女へ、若い女から初老の女へ変わった。いつのまにか、というのは母の言葉だが、いつのまにかわたしは中学三年生になっていた。担任の初老の女は親切で、よく気にかけて家に来てくれたものだった。ただわたしの読んでいたダンテを理解されないのは、少しだけ失望した。夏休みが明けると、二週間に一度訪問してくる担任にすまないという気持ちが芽生え、しぶしぶ教室登校を始めた。わたしは受験生になる。友達もいないまま、行事にも参加しないまま、受験生になるのだった。
家庭教師は女子大生だった。21歳だと彼女は言った。白くて綿菓子のようになめらかな肌をした母とは違う、日灼けした肌の、じょうぶそうなかわいらしい人で、笑うと目元に皺ができた。この柔らかそうな唇に触れたら、この人はどんな顔をするのだろうと思った。しかし彼女もやはり母を前に話すと、頬が赤らんだ。赤らんだ彼女を見たとたん、わたしはうっすらと彼女を諦めて始めてしまう。ああこの人も母の外見に騙されて、母の脆弱な内面を見透かさないのだ。母は無意識に、この美しさでなんでも奪って行ってしまう。せめて奪われないように、先生が驚くくらいの成績を収めなくては、と思い、勉強した結果が、いま母が歓声を上げて眺めている実力模試の判定表だ。
「らかんちゃん、ほとんど1位だねえ。らかんちゃんは勉強ができるんだねえ。かてーきょぉーしの先生のおかげかなあ。でもでもらかんちゃんががんばったからだよね!」
さあ、とわたしはつぶやいて背を向け、自室へ籠る。かてーきょぉーしという、ばかみたいな音の響き。しっとりとした雨のような視線。ふわふわと高い声。どれもこれもが、気に食わない。反抗期なんてものじゃない。母を見るといらいらした。母のいちいちの動作に腹が立った。なぜだか、中学三年になって急に腹が立った。わたしはすう、と鼻から息を吸った。
家庭教師の女は、吉田と言う、茶色い髪と離れた目、丸い鼻、大きな口が、可愛らしい。休憩の途中で吉田はわたしの髪の匂いを褒め、銘柄を尋ねた。銘柄など知らなかった。母の美容師の愛人から譲り受けているサロンのものだ。わたしは、サロンのものだなんて言いたくなかった。吉田に腹を立てさせるのではないかと思った。お高く止まっていると思われるのではないかと。だからてきとうに、「そのへんのものです」と答え、ドラッグストアに置いてあるブランドを列挙した。
「らかんさんは美人だから、いい匂いがするのかもね。可愛い子っていい匂いするもん!」
吉田はそんなわたしの作為には気が付かずに、にっこりと笑った。わたしは胸がきゅうとつぶされそうになるのを感じながら
「可愛くないです」
と笑った。「先生の方が可愛いですよ」すると吉田は母に話しかけられたときみたいに顔を赤くして首を横に振る。耳まで赤くなる。わたしはそれをじっと受け止める。
夜、吉田に出された課題を解きながら、吉田の赤い耳を思い出す。なんだかわたしはたまらない気持ちになる。クラスの男に連絡先を尋ねられたときも、母に内緒でその男と出かけたときも、キスを済ませたときも(気持ちが悪かった。その男の匂いが身体中にまとわりついて、嘔吐感を催させた。わたしは、サルトルの『嘔吐』を思い出したーー)、湧かなかった感情である。わたしが甘やかな気持で吉田の身体の節々を思い出すたびに、母の前で照れながら前髪を直す吉田の姿が自然と思い出され、がっくりと気持を落とさせた。いつまでも、いつまでも、母はついてくる。どこにでも。目の前にいなくても、母は、広がっている。
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