第3話





【河野eyes】





 一言で現状を言い表すと。

 死んでる。

 俺が。


 初町恭一准教授殿は朝から多忙だった。

 俺もそのサポートでもれなく多忙だった。

 だっつーのに。


「そろそろ離してくれねーか」


 職員待機場所で。

 いつ人が来るかもしれない。

 なのになんでこんな目に遭ってんだ俺は。


 今日は朝から実行委員の生徒達に指示を出しつつ、外部業者や警備会社とかの対応とか恭君の手の回らないところをサポートしながら俺にしては珍しく校内を走り回ってて、もう日も落ちかけたこの時間になってもやっと休憩時間になった。

 朝からろくに食べてなかったから何か食おうと思って職員待機場所へやってきたわけだ。あわよくば、少し座ってうたた寝をしたいくらいにはクタクタな自覚もある。

 一人で窓から眼下に広がるキャンパスのカラフルな仮装を眺めつつゼリー状の栄養補助食品をすすってたら、来やがったんだよ。初町恭一クソワラビーが。


 恭君も朝から最終確認やらなんやらで俺以上に駆けずり回ってた。なんなら姿すら見えなかった。いつもはうるさいくらいにまとわりついてくる恭君の姿が一切無かった。

 大学内でそんな日があった事は今まで無かったもんだから、すっかりつきまとわれる生活に慣れ切った俺はなんとなく座りが悪い気がしてた。

 俺のところに来れねぇって事は食べるどころかトイレすらも行けてねぇんじゃねぇかって、つい仏心を出したのが運の尽きってやつだ。


 背中から腹に回った腕はガッチリ俺をホールドしてるし、肩に乗った額はさっきからグリグリと痛い。これはもう抱きしめるとかそういうなまっちょろい状態じゃねぇな。しかも思い出したように首筋とか耳の後ろとかにキスをしてくるもんだから、止めさせたいのに腕がガッチリホールドされてるせいで身動き取れずにされるがままだ。クソッ!

 ここのところの忙しさは見ていて同情を誘うものだったから、少しなら良いかとか思って最初に振り払わなかった俺がバカだった。

 時計が見えねぇからわかんねぇけど、もう随分とこうしてる。

 それで冒頭のセリフを放ったわけだ。

「んー……あと三時間」

なげぇ!」

 それ、朝起きる時のあと三分とかって常套句じょうとうくじゃねーか。しかも、俺の口癖だ。まさか泊まってる時に口走ってねぇだろうな……。一緒に居たいような、そういう事を連想させるような言葉は正直に言って苦手だ。

 さっきから止まらないスンスンと髪に鼻を突っ込んで匂いを嗅がれる仕草も気持ちいいもんじゃねーぞ。犬猫にするみたいに鼻をすりすり押し付けるのもやめろ!


 目の下のくまとかやつれた姿に同情した少し前の俺!学習しろ。学習を。

 窓ガラスに映った恭君はクアッカワラビーそっくりな笑顔を浮かべて、一見したら無害そうな顔で夕焼けで光る窓ガラスを鏡代わりにして目で合図をよこした。内容までは分からねぇけど、お疲れ様的なやつか。

 大学内だし変な事はされねぇだろうと油断して接近を許しちまったけど、コイツは草食動物の皮を被った猛禽類だった。

「あと少しでハロウィンパーティーが始まんだろーが」

「あー、あれね。うん。やる」

「総責任者、行け」

 夕焼け窓ガラスに映り込んだ恭君の顔はそれはそれは見事に不貞腐ふてくされてる。

 変に真面目なところがあるから押し付けられた仕事でも完璧を目指しちまう損な性格してんだよなぁ。期待には応えなくてはならない、みてぇな。そういうところをしっかり知ってる古参の大学関係者は俺と恭君をニコイチ扱いしてくるから、俺を補佐に任命しやがって大迷惑をこうむったわけだ。恭君には俺をあてがっておけば問題ねぇ的な、昔からの悪習だな。


 ぶすくれた恭君が俺をぎゅうぎゅう抱きしめながら口をとんがらせる。

 俺の前だとこういう幼い表情を浮かべてみせるからなんかズルい。叱りにくくなんだよなぁ。

「そもそもさ、なんで大学でハロウィンパーティーなんかやるんだって思わない?」

「今それ言うか?」

「この世の理不尽を痛感してんの」

 慰めろって事か?

 ガッチリホールドは取れそうもないから仕方ない。

 ため息をついて、不本意を表してから右手を緩めろってクイクイ動かして合図を送る。器用に右っ側だけ力が緩んだから腕を抜いて綺麗に整えられてる髪をくしゃくしゃ撫でてやる。

 忙しくてもしっかり手入れされてる髪は整髪材で整えられているはずなのにふわふわと柔らかい。

 大した事はしてないっていうのに撫でてやってる俺の手に頭を擦りつけるようにして目を細めて満足気に口元を歪めた。

「ねぇ、あおい君」

「あ?調子乗んな?」

「まだ何も言ってないじゃない」

「言われなくてもわかる」

「それって……」

「違う!」

 器用に腰を掴んでクルッて俺の体を回しやがって、前からぎゅうぅぅぅっと抱きしめ直してきやがった。

 残念だったな。

 お前がこういう場所で俺を下の名前で呼ぶ時は全力で警戒しねぇとヤバい時だって長い付き合いだからな。いくらなんでも学習してる。間違えても愛とかそういうのじゃない。ただの経験則からくる危機察知能力だ。

 額をガッツリ手のひらで押さえつけて思いっきり背を反らして身を離す……んだけど、こいつも慣れてきやがって腰を掴む位置を下にずらして上手く抱き寄せにかかってくる。

 本当にカンガルーみてぇな体勢でホールドされて膠着状態が続く。

「ここがどこだかわかってんのか?」

「職員待機場所だね」

「あー……」

 何年経ったらこのバカ治るんだ?

 しかもジムに通ったりしてるから昔より下手したら力が強くなってやがる……。

 腰の下あたりを掴まれて、しかも器用に俺の背中に片腕を這わしてくるからどんなに背を反らして逃げようとしても距離がじわじわ近づいてくる。

 そろそろ一発ぶん殴っても良いか?

 体の向きが変わって目に入った時計に、本格的にどうにかしないとマズイって焦り出した。


「あのさー!取り込み中邪魔してわりぃんだけど、そろそろパーティー始めてーんですけどー」


 このクソワラビーはイレギュラーに弱い。

 ドアをガンガン殴りつけてくれた救世主たかとおに心底感謝しながら、ビックリして固まったクソワラビーを引き剥がして廊下へ逃げた。

 後ろから「あぁ……っ」て悲しげな声がしたけど、逃げる時には振り返らない。これはコイツを相手取る時の鉄則だ。うっかり逃げるタイミングを逃すのは悪手だ。

 恭君も恭君で迎えに来させられた憐れな高遠にキレるような事はしないから心の底から助かった。

「もう少し早く助けてくれ」

「あ?助けてやっただけ有難くない?」

「……すまん」

 やっぱり廊下で見張ってくれてたのか。

 タイミングが絶妙だと思った。


 キノが在学中の四年間。俺とキノの関係性を熟知してる恭君はキノの前では俺との生々しい関係をチラつかせるのを自重してたんだけど、キノが卒業した途端に瞬時に距離感を戻しやがった。

「校内で本番おっぱじめられたら困るしさー」

「いや、流石さすがにそこはわきまえてるから」

「あ、そうなの?」

「そりゃそうでしょう?河野君のそういうの見て良いの俺だけだからね」

「でも俺キスしてんの見た事あるよ」

「それ、河野君の顔は見えてないでしょう?」

「あーそういやそうだね」

「誰かに見せびらかしたくなるんだよね。見せないけど」

「…………っ!」

 頭で何かを考えるより先に、俺は全力でクソワラビーのケツを蹴ってた。

 スパーンッ!て軽い良い音が廊下に響き渡って、恭君は無言でケツを押えて崩れ落ちて行った……。

 俺が回し蹴りを食らわせた時に付けっぱなしの茶色いシッポが遠心力で綺麗に弧を描いて追いかけてくるのがまた怒りに油を注ぐ。

 マヌケ過ぎんだろ。

 それにしてもこのクソワラビー、何考えてやがる。

 そろそろ本気でシメるか?

「回し蹴りのお手本みたいな綺麗な回し蹴りじゃん。それ来宮に教えた?」

「教えたこたぁねーぞ」

「へー。師匠直伝かと思った」

「あ?」

「こっちの話」

 キノはキノでなんかあったのか?

 そういや今日はバタバタしてまだ顔を見てねぇな。







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