第9話 帰りたくない(ミツキ)



 「アレン、今日も……ちょっとだけ、ここにいてもいい?」


 日が傾き、孤児院アルカナに淡い橙の光が差し込むころ。

 ミツキはランドセルのような革製の小さな背負い袋を抱えながら、僕の袖をそっと引いた。


 彼女は十歳。

 年齢的には、この家を卒所し、街の学校付き寄宿舎へ通うべき年だった。


 でも、彼女は毎日“帰り際”になると、まるで時間が止まってほしいかのように僕のそばに来る。


 


 ■ ■ ■


 ミツキには、母親がいない。


 父親は高齢で、町の小さな工房にひとりでこもり、黙々と道具を直す日々。


 彼女がこの孤児院に来るようになったのは、「昼間、誰とも話していない日が続いていた」ことに気づいた町役人の計らいだった。


 父親は悪い人ではない。ただ、年齢のせいか、娘の気持ちに寄り添う余裕がない。


 ミツキは、話し相手がいなかった。


 誰かに甘えることも、笑いかけることも、忘れかけていた。


 


 ■ ■ ■


 「おんぶして。アレンの背中、あったかいから……」


 ある帰り道、ミツキがぽつりとそう言った。


 年齢を考えれば、本来なら“抱っこ”や“おんぶ”はもう終わっていていい年頃だった。


 それでも彼女の目は、**“子どもに戻りたがっている子ども”**のように見えた。


 でも、僕は一度、ゆっくりと首を横に振った。


 「ごめん、ミツキ。おんぶはできない。でも、ここに座って、一緒に夕陽見よう」


 そう言って、僕は石段に腰を下ろし、ミツキの隣に座った。


 彼女は少しだけ頬をふくらませていたが、やがて言った。


 「……おうち、静かすぎてさ。いるのに、いないみたいになるの。

 パパ、いつもトンカンしてて、ミツキのこと、いないみたいに見えるんだよ」


 


 ■ ■ ■


 その日、ミツキはぎゅっと僕の手を握ったまま、しばらく空を見ていた。


 僕は何も言わず、ただその手を離さなかった。


 “家に帰る”という当たり前の言葉が、彼女にとってはひとりの沈黙と向き合う時間だったのだ。


 だからこそ、帰りたくない。

 孤児院での時間だけが、「誰かが自分を見てくれている」と感じられる時間なのだ。


 


 ■ ■ ■


 馬車が来る時間になり、僕はそっと声をかけた。


 「ミツキ。そろそろ、行こうか」


 彼女は小さくうなずき、でも立ち上がる前に、ぽつりと言った。


 「……ここに来て、ちょっとだけ、“生きてる”って感じがした」


 その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。


 僕は彼女の背を押しながら、静かに誓った。


 この場所だけは、彼女が“いない”と感じないように守り続けよう、と。


 


——モノローグ(アレン)——

 「帰りたくない」という言葉は、甘えじゃない。


 本当に帰る場所に、安心がないからだ。


 僕たちは親ではない。

 でも、子どもが“ここでは大丈夫”と思える時間をつくることはできる。


 ミツキの手の温もりは、僕にそう気づかせてくれた。

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