第7話 すべてがひっくり返る ※エリス

 エリスのヒールが大理石の床を打つたび、会場の視線がこちらを向くのを期待していた。


 なのに、誰もこちらを見ない。


 楽団が奏でる旋律は華やかだった。天井のシャンデリアは、宝石のように輝いていて、舞踏会の幕開けにふさわしいきらめきが、そこにはあった。


 なのに、注目はどこにもなかった。


 エリスは口元に微笑みを貼りつけながら、内心で叫んでいた。


 なにこれ、どういうこと? 私のドレス、リボンも刺繍も完璧なのに。


 視線が集まらないことが信じられず、思わず周囲を見渡す。

 その瞬間、空気が変わった。


 リリアナが現れたのだ。


 深いグリーンのドレスが落ち着いた色なのに目を引く。胸元のレースは繊細で、見たことのない仕立てだ。髪には翡翠、耳元にはパールとダイヤ。光を集めて、ひときわ輝いていた。


 は? なによ、あのドレス……私よりずっと高価なものを、どうしてリリアナが身につけているの?


 喉の奥が焼けるようだった。歯を食いしばる音が、自分にだけはっきり聞こえた。



 セドリックの隣でエリスが小さく息をのんだのを感じながら、彼もまた、その姿に目を奪われていた。


 凛とした立ち姿。どこまでも冷静で、上品な微笑み。以前は自分の隣にいたはずの女が、今はまるで別人のように輝いていた。


 目の前にリリアナが来た時、思わずセドリックはつぶやいた。


「……君が戻ってきたとは、噂で聞いていた」


「そう。今夜は久しぶりに、お顔を見られて光栄です」


 淡々と返された言葉に、胸が詰まった。取り戻したいとも思えなかった。すでに、自分の手の届くところにいないと、わかっていた。



 エリスが隣で唇を噛んだ。


 なによ、ただの元妻のくせに。なんであんなに堂々としてるの?


 周囲の視線がすべてリリアナに向けられていることに、エリスは気づいていた。


 そして同時に、それが自分に向けられていないことにも。


 今まで私が注目されて当然だったのに……こんなのおかしい。


 そんな思いを振り払うように、エリスはセドリックに目をやった。その表情には、かつて見せた無邪気な笑顔も、自信に満ちた誇りもなかった。


 そのときだった。


 楽団の演奏が止まり、会場にざわめきが広がった。男が一人、手紙の束を手にして現れた。


「お集まりの皆様に、お知らせがございます。こちらの手紙は、今宵の公爵夫人が複数の殿方に宛てて送った私信の写しでございます」


 エリスの目の前が、ぐらりと揺れた。


「え? なに?」


 読み上げられた手紙の内容が、次々と暴かれていく。


「昨日の夜、あなたの夢を見ました」


「もう一度、こっそりお会いできたら嬉しいです」


「旦那様には、秘密にしてくださいね」


 男の名。場所。時間。


 すべてが、さらけ出されていた。


「ちがっ……そんなの……誰かの悪戯でしょ……」


 震える声が自分の喉から出ていると、エリスは気づかなかった。


 周囲の貴婦人たちが、一斉に距離を取った。男たちは視線をそらし、嘲笑を浮かべた者もいた。


 すがりついたセドリックの体が硬直した。


 何も言えなかった。言葉が、見つからない。頭が真っ白になった。


「リ、リリアナ、これはお前の仕業か!」


 セドリックがかすれた声で問いかけたが、返ってきたのは冷ややかな笑みだった。


「私はただ、この舞踏会に招かれただけです」


 王家の紋章が目に入った瞬間、全身が冷えた。


 黒の衣、金の刺繍。誰もが黙ってしまう威圧感だ。

 一瞬で空気が変わってしまった。


 使者の声が響く。


 公金の流用。不正な人事。私の素行を見逃した責任。

 セドリックの名が読み上げられ、公爵位の剥奪が告げられた。


 重い沈黙。誰も口を開かない。


 隣でセドリックが崩れた。膝をつき、うつむいたまま、何かをつぶやいている。もう誰も彼を見ていなかった。


 ひざをついたセドリックの情けない姿。

 その顔を見て、心が冷える。


 それでも、思った。


 いい気味。


 だって、全部あの人のせい。私が笑われるのも、疑われるのも、全部。


 浮気してたって? 手紙を送った? だから何。貴族の遊びなんて、みんなそんなものじゃない。


 それを止めなかったのは、あの人。黙って私を好きにさせて、都合よく妻の顔だけ求めて、恥をかかされたら私のせい?


 バカみたい。


 夫として、守るべきだった。もっと私を見て、信じて、庇ってくれればよかったのに。

 だから、こうなったのは自業自得。むしろ遅すぎた。


 私は悪くない。悪くなんて、あるはずがない。


 視線を上げる。

 リリアナがいた。緑のドレスに身を包み、光を味方につけたような顔で笑っていた。


 そして、その隣にいた男。見たことのない顔なのに、目が釘付けになった。

 誰……あれ。あの男、誰なの。


 黒髪にすっと通った鼻筋。微笑んだだけで場が静まるような雰囲気。あれほどの美丈夫、今まで見たことない。

 エリスは一目見た瞬間からもう彼の顔が頭に焼きついて離れなかった。


 そんな男が、リリアナの隣に立っている。


 信じられない。何それ。どういうこと?こんな男まで手に入れて、この私に見せつけてるつもり?


 唇をかむ。胸がざわつく。頭の奥で、何かがひっくり返る音がした。


 いい気なものね、リリアナ。あんな男連れて、勝ち誇った顔して。


 くやしい。悔しくて、どうにかなりそう。

 それなのに、彼女の隣に並ぶあの男は、何の迷いもなく、ただ彼女を見つめていた。

 私の知らないリリアナがそこにいた。私の知らない男が、彼女の隣にいた。


 私を見ない。誰も見ない。

 歯がきしむ。こんなはずじゃなかった。

 ここにいたくない。恥をかくなら、その前に消える。


 人の波にまぎれた。逃げるように背を向けた。この場に残るのは、負けを認めることだから。

 目の端に情けなく泣き崩れるセドリックがうつったけど、エリスは一度も振り向かなかった。

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