第8話 断罪と後悔 ※セドリック

 舞踏会の熱気が嘘のように冷えていた。

 

 王家の使者が登場したその瞬間、空気は凍りついた。誰もが黙り、視線だけが使者に集まる。


 黒の上衣に金の刺繍を身に纏った騎士は重厚な威圧感がある。あれはただの伝令ではない。きっと俺に差し向けられた処刑人のような男だ。


 セドリックは喉を鳴らした。声を出そうとしたが、何も言えなかった。


「セドリック・クロフォード公爵」


 使者の声が響いた。誰も止めようとしない。


「セドリック・クロフォード公爵。あなたの行いと選択は、王家と貴族社会の信頼を著しく損ねました。公金の私的流用、身分を利用した不適切な人事介入、そして公爵夫人の素行を黙認した責任は、極めて重大です。本日をもって、公爵位は剥奪されます」


 耳が熱くなった。どこか遠くの話のように聞こえる。けれど、皆の反応が現実を突きつけてくる。


 ざわめき、視線が一斉に逸らされる。誰も目を合わせようとしない。

人並みを分けるように、見知った顔が次々と遠ざかっていった。

 セドリックは足元が崩れる感覚に襲われた。立っていられないと思った時にはもう崩れ落ちるように座り込んでいた。


 誰かに助けてほしかった。誰でもいい。

 けれどセドリックの周囲には誰もいなかった。愛したはずのエリスさえもいない。

 どこへ行ったんだ? まさか、俺をおいて逃げたのか?


「貴族の恥じだな」


 後ろで誰かがつぶやく声が、プライドの高いセドリックの胸に深く突き刺さった。





 数日後の邸内。昼か夜かも分からないほど、カーテンは閉じられたままだった。


 セドリックはソファに沈み込み、手にした瓶を口に運ぶ。もう何本目かも分からない。床には空き瓶が転がり、絨毯は酒の染みで汚れていた。


 誰も掃除をしない。声をかける使用人もいない。皆、すでに屋敷を去った。


 セドリックはかすれた笑い声を漏らした。喉が焼けるほど酒を流し込み、それでも心は冷えたままだ。


 ふらつく足で立ち上がろうとして、よろめいて倒れた。机の脚に頭をぶつけても、痛みを感じなかった。あるいは感じたとしても、どうでもよかった。


 すべてが終わった。残ったのは、酒の臭いだけだった。


「セドリック様」


 唯一まだ残っていた家令の声が静かに響いた。だがその声に以前のような敬意はない。


「王家の正式命令により、あなたは貴族籍から除籍されました。本日をもって、この屋敷からの退去が求められます」


「……俺が、出ていくのか?」


 声はかすれ、自分のものではないようだった。


「すでに使用人は辞めました。明日には邸の引き渡しがあります」


「家族は?」


「ご実家から、縁切りの通達が届いております」


 セドリックは笑いそうになった。すべてが呆気ない。終わりというのは、こんなにも静かに来るのか。


 ふと、別の声が響いた。


「なによ、それ……追い出されるってこと?」


 エリスだった。青ざめた顔で、家令に詰め寄る。


 舞踏会の夜以来、彼女は部屋に閉じこもっていた。豪奢な寝台に寝そべり、鏡を睨み、誰の声も聞こうとしなかった。食事もほとんど手をつけず、髪は乱れ、頬は痩けている。


 けれど今日、ついに扉を開けて出てきた。


 その姿は、以前の華やかさとはまるで違った。顔色は悪く、目元には濃い影。ドレスの裾もほこりを巻き込み、足取りもふらついていた。


「王家より、社交界からの追放命令も出ております。公に名誉を汚した罪として、クロフォード家に残ることも許されません」


「そんなの……リリアナの差し金でしょ? きっとそうよ、全部あの女のせいだわ。私は何もしてない! セドリックだって何も!」


「奥様。もはや、どちらが悪かったかは関係ありません」


 家令の目は冷たかった。


「すべて終わったのです。お二人とも、ここにはもう、居場所がありません」


 エリスの肩が震えた。怒りとも、恐怖ともつかない震えだった。


「私が、公爵夫人だったのよ……? こんな扱い、許されるわけ……」


「荷物は、すでにまとめてあります。出発は今夜です」


 屋敷の前庭にある門の前に、エリスはドレスの裾を引きずりながら立っていた。

 誰も見送りには来なかった。ずいぶん少なくなった使用人たちは、皆ただ扉の奥に姿を消していった。


「寒い……」


 震える声が背後から届いた。振り返ると、エリスが門の前で肩をすぼめて立っている。ドレスの裾は泥にまみれ、薄手の外套では風を防げない。唇は青く、足もとが頼りなさげだった。


「セドリック、一緒に行きましょう……ねえ、私たち夫婦でしょ。どこかに、ふたりで……」


 頼りない笑顔を浮かべ、手を伸ばしてすがるように近づいてくる。昔なら、その手を取っていただろう。だが、今は違う。


「……無理だ」


 セドリックはわずかに首を振った。声は乾いていた。


「は?」


「お前と一緒に落ちていく気はない。俺にはまだリリアナがいる」


 エリスの目が大きく見開かれた。言葉が出ないのか、口がぱくぱくと動くだけだった。


「寒いなら、どこかで震えていろ。俺も行くところがある」


 セドリックは踵を返した。

 背後のエリスが何かを言いかけたが、もう耳に入らない。


 あの女とは終わった。それにエリス自身で蒔いた種だ。誰が今さら手を差し伸べるか。

 俺を裏切って、自分の欲ばかり追いかけた結果だ。


 それに比べて、リリアナは違う。

 そうだ、俺にはまだリリアナがいる。あの頃のまま、ずっと俺を想ってくれているはずだ。


 確かに一度は離れた。でも、それは一時の気の迷いだ。

 だって、あんなに俺を慕っていたじゃないか。俺が声をかければ、きっと戻ってくるに決まっている。

 きちんと謝れば、涙の一つも見せれば、彼女はきっと許す。そういう女だった。


 リリアナは俺に尽くして、俺を誇って、俺の隣に立っていたい女だ。

 その場所にまた戻してやると言えば、きっと喜ぶだろう。


 そうだ、すべてを失っても、俺にはまだ……リリアナがいる。

 そう思えば、寒さも空腹も気にならなかった。





 数日後、セドリックは街を歩いていた。

 馬車を借りる金すらなかったが、幸いにもリリアナの新しい屋敷はすぐ近くだった。


 今夜は、リリアナが主催する慈善事業の舞踏会が開かれる日だ。

 あの舞踏会に行けば、俺はリリアナと再び顔を合わせられる。俺がやり直そうと言えば泣いて喜ぶ。その彼女の涙を見て、心を取り戻すことができるだろう。

 もう一度、あの頃の関係に戻れる。きっとそうだ。


 セドリックは歩みを速め、自然と顔がほころぶのを感じた。

 以前のように堂々としていた頃の自信が、少しだけ蘇ったような気がする。

 もうすぐだ。

 リリアナは、俺が手を差し伸べればきっと振り向いてくれる。そして、戻ってきてくれるはずだ。


「リリアナ、待っててくれ…」


 彼はふと笑みを浮かべ、心の中で彼女の姿を思い描いた。

 そして、舞踏会が待つ会場に向かって、足を進めた。

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