第6話 断罪の舞踏会

 楽団の調べが、夜の舞踏会の始まりを告げていた。


 高く掲げられたシャンデリアがまばゆい光を放ち、大理石の床に映る光の粒が、まるで星の海のように広がっている。

 その真ん中に、リリアナは立っていた。


 ダークグリーンのドレスは、深い森を思わせる落ち着いた色でありながら、胸元には夜空のような黒いレースが重なり、見る者に確かな印象を残す。髪には翡翠の飾り。肌にはパールの光沢。ヴェルナー商会の手による宝飾は、一目で格の違いを知らしめた。


 彼女が一歩踏み出すたび、まるで空気そのものが変わったかのように周囲の視線が吸い寄せられていく。


「リリアナ様……戻られたのですね」


「ご健在で、何よりです」


「そのお姿、まさに貴婦人の鑑かと……」


 若い貴族たちが次々に挨拶に来ては、彼女の前で言葉を慎んだ。

 商人たちの目も彼女を逃さず追っている。数年前まで、セドリックの隣に立っていた頃よりも、今の方がずっと多くの尊敬と敬意が注がれていた。


 そのすべては、リリアナがこの夜のために用意した舞台の一部だった。


 会場の隅で控えていた青年が、静かに頷いた。ユリアン。信頼する彼の協力がなければ、この夜は成立しなかった。


 ここまで来るのに、私は多くを仕込んできた。


 追放された直後、まず動かしたのは商人たちだった。かつて手を差し伸べた者たちに礼状を送り、少しずつ縁を戻した。恩を覚えていた者は、思ったより多かった。


 次に施療院や孤児院への支援を始めた。見返りを求めず、ただ名を残す。噂はやがて貴族の耳にも届いた。そこからユリアンの人脈が動き出した。


 その裏で、エリスの手紙や密会の記録を集めた。証拠は十分。あとは、誰がどこで動くか。いつ、何を見せるか。


 舞踏会。人の目がもっとも集まる夜。


 私はこの場所に、すべてを重ねてきた。


「……準備は?」


「完璧です。あと十五分ほどで、読み上げが始まります」


「ありがとう。では、私は予定通り踊っていましょう」


 リリアナは微笑み、差し出された手を取りながら舞踏会の中心へと向かった。


 そこに、ようやくセドリックとエリスの姿があった。


 かつては誰もが憧れた公爵夫妻。しかし今の彼らに、目を向ける者は少なかった。エリスの派手なドレスも、リリアナの気品ある装いの前では安っぽく見える。セドリックは落ち着かない様子で、どこか所在なげに立っていた。


 エリスが歯を噛み、わかりやすく苛立ちを隠そうとしていた。リリアナが一瞥しただけで、それが伝わってくる。


 リリアナは優雅に一礼した。


「ご機嫌よう、公爵様。公爵夫人」


 エリスがかろうじて笑顔を作ったが、視線は泳いでいた。セドリックも、まるで過去の重みを思い出すかのように、口を開いた。


「……君が戻ってきたとは、噂で聞いていた」


「そう。今夜は久しぶりに、お顔を見られて光栄です」


 そのやりとりの間に、周囲が少しずつざわつき始めた。会場の隅に立つ男が、手紙の束を手にして現れたのだ。


 楽団の演奏が止まり、誰かの声が響いた。


「お集まりの皆様に、お知らせがございます。こちらの手紙は、今宵の公爵夫人が複数の殿方に宛てて送った私信の写しでございます」


 仮面をつけた案内役の声が響くと、会場が一瞬にして凍りついた。


 楽団の演奏が止まり、誰もが動きを止める。目を見開き、顔を見合わせる者たち。その中で読み上げられたのは、ひとつひとつがあざとく甘えた言葉だった。相手の名を呼び、今宵の舞踏会での密会を仄めかす文面。愛しいだの、会いたいだのと、読み上げる声が重なるたびに、空気が重く沈んでいく。


 やがて誰かがつぶやいた。


「これは……公爵夫人の筆跡では?」


 その一言で、場の空気が決定的に変わった。貴婦人たちは顔をそむけ、男たちは視線を外しながら距離を取る。


 エリスが小さく首を振る。かすれた声で否定の言葉を漏らすが、もはや誰の耳にも届いていない。人々の目には、彼女の言葉ではなく、その文面の生々しさが焼き付いていた。


 セドリックが手紙を掴み、目を通した。瞬間、顔色が変わる。血の気が引き、手元が震えた。彼は何かを言おうとしたが、喉が音を出さなかった。


「リ、リリアナ!これはお前の仕業か!」


 リリアナは静かに微笑んだ。目を伏せて、穏やかな口調で返す。


「私はただ、この舞踏会に招かれただけです」


 そのとき、王家の紋章をつけた使者が姿を現した。黒い衣に金の刺繍が浮かぶ。その姿を見た途端、誰もが息をのむ。


「セドリック・クロフォード公爵。あなたの行いと選択は、王家と貴族社会の信頼を著しく損ねました。公金の私的流用、身分を利用した不適切な人事介入、そして公爵夫人の素行を黙認した責任は、極めて重大です。本日をもって、公爵位は剥奪されます」


 重く、明瞭な声だった。誰も口をはさめなかった。


 会場の空気が、さらに冷たく引き締まった。貴族たちは顔を曇らせ、使用人たちは視線を落とした。


 セドリックの膝が崩れ、床につく。その場に立っていられなかった。虚ろな目で、誰にも届かぬ言葉を喉の奥でつぶやく。


 エリスはその横顔を一度だけ見た。けれど何も言わず、ただ逃げるように人波の中へ消えていく。


 リリアナは、その光景をただ静かに見ていた。仕組んだのは舞台だけ。真実を暴いたのは証拠の山と、彼ら自身の積み重ねた行為だった。


 リリアナはただ、静かに佇んでいた。すべては、計画通りだった。


 彼女が自滅してくれるのを待っただけ。私は、何もしていない。


 優雅にスカートの裾をさばきながら、リリアナは会場の奥へと歩き出した。


 すべてを終えた彼女の歩みに、もう迷いはなかった。ただ前だけを見据え、誇り高くその場を離れる。

その隣に、ただ一人、ユリアンが静かに寄り添っていた。何も言わず、けれど確かにそこにいた。

 それだけで十分だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る