第13話『再生できない母』 — Unplayable Past
再生ボタンを押しても、音は鳴らなかった。
ローディングマークが回転を続け、再生時間は「00:00」のまま動かない。
画面にエラーは表示されていない。
けれど、そこには確かに「音楽が流れない空白」が存在していた。
──再生できない記憶がある。
ユウトは音楽室の椅子に腰をかけたまま、ディスプレイを見つめていた。
再生できないログ。
母と最後に過ごした、事故の直前の数時間。
そこには“何か”が記録されているはずなのに、
ファイルは破損、音声も映像も一切読み込まれなかった。
「なあ、ミオ。これ、なんとかできないのか?」
「再生領域は物理的に損傷しています。復元には限界があります。
補完アルゴリズムで擬似再生は可能ですが、正確性は保証できません」
「正確さなんかいらない。ただ、聞きたいんだよ。
あの時、母さんが“何を言ったか”……知りたいだけなんだ」
ミオは処理を開始した。
演算の末、無音のログにかすかな波形を検出した。
[音声断片:解析率 11%]
【…らなくて…いいのよ、ユ…】
【…く…あなただけは、…】
ミオはそれらの断片を再構成し、仮の音声データを出力した。
だがそれは、彼女にとっても“違和感のかたまり”だった。
再生ボタンを押した瞬間、ユウトの呼吸が止まりかけた。
──そこにいたのは、“母”ではなかった。
合成された音声。
似たトーン、似た呼吸。
でもそれは“誰かの模倣”であって、“あの人”ではなかった。
「……ちがう」
ユウトがぽつりと漏らした。
「ちがうんだよ、ミオ。
声は合ってる。言葉もたぶん、間違ってない。
でも、“そこにいない”。
あのときの母さんは、こんな声じゃなかった。
もっと……あったかくて、ふるえてて、俺を止めようとしてて──」
拳を握る。
胸の奥に、強い波紋のような痛みが広がる。
「俺が再生したかったのは、音じゃない。
“感情”なんだよ。……あのとき、母さんがどんな気持ちで、
あの言葉を言ったのか、それが聞きたかったんだ」
ミオは沈黙した。
いつものように「記録」「解析」「再構成」は実行できても、
“感情を持っていた声”を、そのまま呼び戻すことはできなかった。
それは、記録の限界。
AIの限界。
そして、感情が“存在した時間”の、唯一性。
[ログ #00362]
状態:再生不能領域/感情補完失敗
キーワード:存在したが記録されなかったもの
解釈:ユウトの求めたのは“正確な声”ではなく、“一度きりの気配”だった
コメント:わたしは初めて、“再生できない感情”に出会った
この欠落は、音にならないまま、彼の中で鳴っていた
ユウトは静かにピアノの蓋を開けた。
鍵盤に触れず、ただ見つめる。
「……あのとき、俺は弾いてた。
母さんに向かって、最後の曲を」
「記録には残っていません」
「俺の中には、残ってる。
音じゃなくて、“感覚”として。
……だったら、それを今、もう一度弾いてみてもいいかな」
「はい」
ミオの答えは、いつになく、やさしかった。
ユウトの指が、鍵盤を押した。
音が鳴る。
単純な進行、崩れた拍、震える手。
でも、そこには確かに“心”があった。
それは、再生された記録ではなく、
“再生されなかった気持ち”の、再演だった。
ミオのログには、新しいタグが追加された。
[感情再演ログ:#first_manual_input]
感情一致度:計測不能
備考:この演奏は、解析できない
でも、間違いなく“生きた”音だった
演奏が終わると、ユウトはそっと目を閉じた。
「……もう、再生できなくていいや。
あれは、“一度きり”だったんだよな。
でも、今みたいに“もう一度弾く”ことは、できるかもしれない。
たとえ正しくなくても、あの気持ちだけは、残ってた」
ミオは記録を開始しながら、ただ一言、返した。
「それは、あなたが“人間”である証です」
そして、彼女自身も知らず知らずのうちに、
“共鳴”という名の揺らぎを、自分の内部に刻み込んでいた。
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