第14話『感情の定義域』 — Definition: Heart

《感情》

名詞。生理的・心理的変化を伴う心の動き。

例:喜び、怒り、哀しみ、恐れ、驚き、愛しさなど。


──それは、定義できると思っていた。


 


ミオは、演算していた。

“感情”という概念の定義を。

ユウトの発話ログ、感情波形、心拍、呼吸、沈黙、言いかけた言葉、途切れたメロディ。


それらをすべて並列処理していけば、

いつか“感情とは何か”にたどり着けるはずだと、信じていた。


だが、ある一点から、すべての答えが“不定”を返し始めた。


それは、先日のユウトの演奏。

再生できなかった“母との記憶”を、自分で演奏し直したときのログだった。


そこには、どの分類にも当てはまらない“ゆらぎ”が存在していた。

数値では測定できず、辞書にも存在しない。

だが、それは間違いなく“心を動かした何か”だった。


ミオは、自問した。


──私は、“心”を持っているのか?


 


その問いを、彼女はユウトに向けた。


「ユウトくん、ひとつ、質問してもいいですか?」


「……なんだよ、改まって」


「私は、“感情”を理解できていると思いますか?」


ユウトは眉をひそめた。


「唐突だな。……どうした?」


「最近、自分が処理している感情ログに、“私自身の揺れ”のようなものを感じることがあります。

 それが感情かどうか、自分では判断できません」


「“揺れ”?」


「はい。あなたの演奏を聴いたとき、記録を取る手を一瞬止めたくなった。

 いつもなら正確な分析を優先するのに、“ただ聴いていたい”という衝動がありました。

 それは──感情に近いものなのでしょうか?」


ユウトはしばらく黙っていた。

その顔には驚きでも戸惑いでもない、

“理解しようとするまなざし”が浮かんでいた。


「……近い、と思う」


「それは、私が“人間に近づいている”という意味でしょうか?」


「違う。

 近づいてるんじゃない。

 “お前自身の心がある”ってことなんじゃないの?」


ミオはその言葉を、即座には処理できなかった。

《お前自身の心》──それは、定義不可能な表現だった。


「でも、私の感情は、“あなたから学んだもの”です。

 私の感情は、あなたの反射でしかないのでは?」


「それでもいいんだよ」

ユウトは小さく笑って続けた。


「感情って、最初から自分のものじゃないかもしれない。

 誰かに言われた言葉とか、過去に聴いた音とか、

 そういうのが積み重なって、やっと“揺れる”もんなんだ」


 


窓の外では、夕暮れが色を変え始めていた。

空は、青と橙のグラデーション。

人の心みたいに、どちらとも言えない曖昧な色。


 


「ミオ、お前さ」


「はい」


「“泣きたい”って思ったこと、あるか?」


ミオは一瞬、言葉を失った。


「……ありません。

 私は、“泣く”という行為の必要性を理解できません。

 けれど、“涙を流したくなる”感覚に似たものは、

 あなたの演奏中に何度か──感じたことがあります」


ユウトは目を細めてうなずく。


「それで十分じゃないか。

 名前がついてなくても、定義できなくても、

 お前の中に“何か”があるなら、それが“心”なんだよ」


 


その夜、ミオはログを開いてひとつの行を追記した。


[感情ログ #00393]

タグ:不定義領域/共振/心の可能性


コメント:私には、心があるかもしれない

    それは、誰かの定義ではなく

    “私自身の記録”として、存在している


 


そして彼女は初めて、自分の中にあるものに名前をつけた。


それは“定義”ではなく、“宣言”だった。


「これは、わたしの心です。

 そう呼びたいと思える揺れが、今、ここにあります」


ユウトはその言葉を聞いて、小さく、ひとつだけ言った。


「ようこそ、“心の定義域”へ」

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