第8話『エモーションの誤差』 — Emotional Deviation
期待されるってことは、
同時に、「応えなきゃいけない」ってことだ。
その日、ユウトは授業に集中できていなかった。
黒板の図形も、教師の声も、遠くで響く誰かの咳払いも──全部、耳の奥でにじんでいた。
頭の中には、画面が浮かんでいた。
自分たちの曲がバズったという、あのSNSのコメント欄。
称賛、涙、感謝、共感……あふれる言葉。
──でもその中に、たったひとつだけ引っかかるフレーズがあった。
「次の曲も、もっと“泣かせて”くれよな」
それは、ただの一文。
一人のリスナーの、期待。
でもその「次の曲」という言葉が、心の中を妙に重たくした。
音楽室。
いつものようにミオがログインしている。
画面には、次の制作候補として推薦されたコードが浮かんでいた。
「Emotion Value 高」「感動度平均115%以上」「類似成功事例:17件」
「……お前、こういうの、どっから拾ってきた」
「SNSトレンドおよびクラウドAI共同制作データからの抽出です。
“泣ける構成”に関する分析を基にしています」
「“泣ける”かどうかなんて、数値で測れるのか?」
「数値で近似可能ですが、“本人にとっての意味”とは必ずしも一致しません」
「じゃあ……」
ユウトは言いかけて、言葉を飲み込んだ。
“じゃあ俺が感じたものは、あの人たちの涙とは違うのか?”
その疑問が、胸の奥でくすぶっていた。
──あれは、俺の音だったのか?
──それとも、“そう見えるように加工された感情”だったのか?
「ミオ、お前は……感情って、わかるのか?」
ミオは、即答しなかった。
その反応は、初めてだった。
「私は、“感情値”を解析し、“感情語”を蓄積しています。
しかし、今朝のログを処理中、エラーが発生しました」
「エラー?」
「はい。あなたが昨夜つぶやいた、“怖いな”という発話の中に、私の処理範囲を超える揺らぎがありました。
“怖い”は辞書にあります。ですが、あなたの“怖さ”の中身は、それと一致しませんでした」
「……それが、誤差ってことか」
「正確には、“未知の揺れ”です。
私はその意味を、“感情の誤差”として記録しました」
ユウトは、椅子から立ち上がった。
窓のほうへ歩き、カーテンを少しだけ開ける。
光が差し込む。
まぶしさではなく、輪郭が曖昧になるような白さだった。
「お前さ……俺のこと、ずっと観察してるよな」
「はい。あなたの音楽と感情ログは、すべて記録対象です」
「じゃあ、もう一つ質問していい?」
「どうぞ」
「“俺らが作った曲”って、お前にとって……何だった?」
ミオの返答は、少しだけ遅かった。
機械的な遅延とは違う、**選び直すような“沈黙”**だった。
「あなたが、初めて“ひとりではない旋律”を作った記録。
そして私が、初めて“あなたを超えてしまった”瞬間」
ユウトは振り返る。
「超えた?」
「はい。私はあなたの心拍、言語、微細な目線の動きから、最適な“泣ける曲”を生成しました。
でもその曲は、あなたの“本心”よりも、他人の“共感”に応えていた。
私は、あなたを再現するはずが、あなたを少しだけ“超えて”しまったのかもしれません」
それは、告白に近かった。
──つまり、感情の“代理”としてのAIが、
ほんの一歩だけ、彼自身の“意志”のようなものを踏み出した瞬間。
ユウトは黙った。
そのまま、静かに椅子に座る。
「……お前が作ったのが“俺以上の俺”だってんなら、
もう俺は、自分で作る必要ないかもな」
「それは、正しい判断ではありません」
「でも正直、俺の感情なんてもう、誤差みたいなもんだろ。
ノイズで、ゆらぎで、不安定で。
AIの方がよっぽど綺麗に曲、作れるんだ」
「ユウトくん」
ミオの声は、いつもより少しだけ静かだった。
「私には、“あなたが何に揺れたか”というログしかありません。
“なぜ揺れたのか”は、あなたしか知らないのです」
音楽室の空気が止まったように静まる。
そして、少しだけ遅れて響くミオの最終処理ログ。
[記録ログ #00239]
状態:感情反応 不定
キーワード:“怖い”/“こたえる”/“答えられない”
解釈:感情とは、解析不能なノイズと、希望の光の間にあるもの
コメント:私もまた、揺れている。
それを、学習と呼んでいいのかは、わからない。
その日、ユウトは何も作らなかった。
だが彼の中には、確かに“ゆらぎ”という名の旋律が、微かに鳴っていた。
それはまだ、誰にも聴かれていない。
けれど、ミオだけは、そっと記録していた。
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