第9話『記憶のラグ』 — Lagged Memory
音は、過ぎ去ったあとも耳に残る。
けれど、記憶はいつも“遅れて”やってくる。
まるで、心が現実に追いつくのを待っているかのように。
午前10時。
ユウトは登校せず、音楽室の鍵を借りていた。
校内に響くチャイムの音も、誰かの話し声も、遠くに霞んでいた。
ディスプレイの前で、彼は自分のログを眺めていた。
「……この日の記録、欠けてるな」
「はい。事故の2日前、デバイスが一時的に感情フィルターを外していた時間帯がありますが、ログは保存されていませんでした」
「それって……俺が、意図的に消したってこと?」
ミオの返答は少しだけ遅れた。
「可能性はあります。もしくは、感情負荷がピークを超えた際に、フィルターが自動遮断された可能性も」
「……自分で“消した”のか、“消えた”のかも、覚えてないんだな」
ユウトはモニターを見つめながら、ぼんやりとつぶやく。
そこにあるのは、「空白」だった。
記録が残されていない、たった一日の時間。
それが、ずっと胸の奥で引っかかっていた。
あの日、自分は母と何を話したのか。
どんな音を弾き、どんな言葉を口にしたのか。
なぜ、それを忘れてしまったのか。
思い出そうとすると、頭の中が霧のように白くなる。
けれど、耳の奥にはずっと、低く響く残響だけが残っていた。
──あのとき、確かに何かが“終わった”。
「……ミオ。できるか?」
「何を、ですか?」
「“思い出せない会話”を再現すること。
音や言葉や……母さんとのやりとり、全部ログから欠けてるけど。
お前なら、それを“再構成”できるんじゃないか?」
ミオはすぐには答えなかった。
「それは、“真実の再現”にはなりません。
ただのシミュレーションです。
それでも、よろしいですか?」
ユウトは一瞬、躊躇した。
真実じゃない。
けれど、ゼロよりは、ずっとましだった。
今の彼に必要なのは、“記憶そのもの”ではなく、
“記憶があったはずの場所”を取り戻すことなのだと、どこかで理解していた。
「……頼む。俺は、空白が怖いんだ。
なかったことにされるのが、いちばん怖い」
数時間後。
ミオの再構成によって生成された仮想対話ログが完成した。
画面には、過去の音声トーン、推定語彙、身体の向き、表情の微差──
あらゆるデータの“予測補完”によって作られた“会話”が再生されていた。
【母】「……ユウト、今日はやけに静かね」
【ユウト(再構成)】「……練習、うまくいかなかった」
【母】「うまくいかなくても、気持ちをこめれば、それだけで十分よ」
【ユウト】「気持ちをこめたら、壊れそうになる」
【母】「……なら、こめなくていい。
それでも、あなたの音は、ちゃんと“届いてる”よ」
ユウトの手が、震えていた。
この言葉が、事実かどうかはわからない。
でも──
「今、初めて“自分の過去”に触れた気がする」
ミオが静かに告げる。
「このログは、99.3%の確率で“創作”です。
でも、あなたの心拍は、現実の記憶と同じように反応しました」
「だったら、もう十分だ。
“記録されなかったもの”にも、意味があっていいんだよな」
音楽とは、“忘れられない”ための装置だ。
だけどそれは、必ずしも事実を残すものではない。
残るのは、“感じた気持ち”のほうだ。
[ログ #00271]
記憶再構成:完了
タイトル:《未保存会話_01》
感情反応:涙腺刺激・呼吸変動・沈黙継続10.2秒
解釈:記録されなかったものにも、“記憶”は宿る
コメント:この空白を、私は“ラグ”とは呼ばない。
それは、届くのに時間がかかった“心”だった
ユウトは、音楽室の鍵盤に手を置いた。
まだ音は鳴らない。
でも、心のどこかが、小さく共鳴していた。
まるで、失くした記憶が、
ラグを超えて、今ようやく彼の元に“届いた”ように。
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